日比嘉高研究室

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(印象記)日本近代文学会2017年秋季大会特集「ポスト文学史のアクチュアリティ──正史解体後の展望」long version

以下は、日本近代文学会の2017年秋季大会の特集「ポスト文学史のアクチュアリティ──正史解体後の展望」愛知淑徳大学星ヶ丘キャンパス、2017年10月14日(土))の印象記です。学会運営委員会から執筆の依頼を受けたのですが、長くなりすぎたので草稿を long version としてここに公開します。会報掲載の印象記は、これを縮めた1200字のversionとなります。
 公開に際して多少迷いましたが、学会内部で流通する冊子体の「会報」とインターネットとでは読者層がかなり異なり、それぞれの読者、そして学会にとって不利益になることはなかろうと判断し、先行公開します。興味が湧いた方は、ぜひ日本近代文学会にご入会を~。



文学史は本当に多様化したのか


 特集は司会・小平麻衣子の問題提起から始まった。従来的で正統的な〈大きな文学史〉は、さまざまな文学の担い手へと目配りする多様な文学史へと転換を果たした。だが、そこで起こった問題は、文学史が共有されないという事態であった。正典的な文学史が抑圧的機能を果たしていたことへの理解は広がり、その解体が進められた。が、現在の問題はその後にある。たとえば、文学史は教室においては必ずしも抑圧としてのみ働くわけではないのではないか。いまこそ、別のアプローチ(終焉と再定義)、ポスト文学史の議論をするべきではないか。このような提起と聞きとった。
 中山弘明の報告「「明治文学談話会」と文学史──〈学問史〉の視点から──」は、柳田泉木村毅らの集った明治文学談話会の活動とその意義をめぐる語りを、とりわけ、神崎清の言論に注目しながら分析した。具体的には明治文学談話会が講座派的な唯物史観にもとづく問題意識を有したことを明らかにし、文学史の歴史記述が行われる際に、政治思想や党派性などが介在したことを指摘した。
 安藤宏の報告「文学史は表現に内在する」は、〈重箱の隅〉というたとえを用いて、文学史の座標的原点に位置するようなものを見い出すことの重要さと、そこから出発する文学史的展望の可能性を説いた。年表や資料集など外在的なものから迫るのではなく、表現に内在する文学史を、という訴えであった。安藤のいう「内在」とは表現それ自体のダイナミズムをとらえることだという説明であった。
 松本和也の報告「「文学非力説」論議の位置・意義・圏域」高見順の「蘭印の印象」などを起点に、1940年代の「文学非力説」論議の位置づけを検討した。評論の言説そのものだけでなく、文壇への登場時期や戦争への態度など、関連する要素を幾重にも重ねて考えることの重要さ――1940年代は書かれた文字を文字通りには読めない時代だとしながら――を強調した。ただし、分析と論述は結論までたどり着いたという印象は薄く、資料整理と重層性の強調のみに終わった。
 中谷いずみの報告「空白の「文学史」を読む──〝政治と文学〟にみるジェンダー・ポリティクス」は、無産者解放運動の中における雑誌『女人芸術』のあり方の特質を考え、とりわけ藍川陽「生活の感傷」におけるハウスキーパーの表象に注目した。同時代の政治と文学を語る構えの中で働くジェンダー機制を指摘しながら、『女人芸術』という雑誌の、型にはまらない開放性こそが、同時代の枠からはみ出す感知しづらいものの表象を呼び寄せ、記録し得たとした。それをテコとし、既成の枠のあり方を反射的に批判し、ゆらめかせる可能性を論じた。
 ディスカッサントの大澤聡は、1930年代という文学史の立ち上がりの時期に光を当てたことの意義を、平野(謙)史観の再検討、政治と文学(の終焉)の問題、客観性を偽装することへの警戒などから整理した。そこから、文学と歴史が終焉を迎えていくポストモダン的な流れを確認し、のっぺりとフラット化した状況にどのような時間軸を再導入するかという現在的な問題へとつないだ。文学系の学会が、文学史的展望を再導入し、状況を「ソフトランディング」していく役割を果たすべきでは、という提起もあった。
 会場からは、文学史を考える視点があまりに「日本近代文学」の中に内閉しているのではないか、世界文学や東アジアの視点を欠いていないか、という批判的な問い掛けがあったが、登壇者はいずれも明確には回答しなかった。
 私がシンポジウム全体を通して聞いた感想は三つある。一つは、既存の「枠」からはみ出したものにどのように気づき、それを呼び入れていくかという問題をめぐってである。中山と中谷が、この課題に取り組んでいた。中山はそれを「談話」を聞くことと、雑多な問題に切り込んでいく神崎清の個性とから論じた。明治文学を振り返る当事者の「談話」は、文章化され整序された回想記や後の世代の思い込みを打ち破る“型破りな”力をもっている。明治文学談話会は――そしてそれを論じる中山は――木下尚江老人を招き入れることで、その可能性を見い出した。また神崎清の活動は、文学だけでなく、戦後には基地問題や売買春の問題までも広がっていった。その越境性を、文学史叙述は文学の閉域を内破する力として使えるはずだ、という提起と受け取った。
 中谷は既存の枠からはみ出しているものをどう呼び入れるのかの課題を、『女人芸術』という場の、開かれたありさま、「ゆるさ」の機能に見い出した。なんでもありの開放的編集方針だからこそ、認識の地平の向こう側へ届くような記事が突発的に出現する。たとえばハウスキーパー問題を認識する回路が不在だった時代に、それを発見するような作品が現れてしまうという僥倖が、「ゆるさ」の結果として到来する。〈選択と集中〉的な新自由主義の発想が、いかに文化を細らせるか、そして我々が問題を発見する回路そのものを消滅させていくのか――そんなことを想起しながら、私は中谷の報告を聞いた。
 二つ目だが、それにしても文学史を再論するという課題を考えるにしては、今回の議論はあまりにも(全員がそうだったとは言わないが)現代歴史学が行ってきた歴史叙述の冒険について目配りを欠いていなかったか。地政的中枢の歴史だけではなく、地方の、構造の、計量の、トランスナショナルの歴史を、大政治家の歴史だけでなく大衆の、女性の、マイノリティの、マイクロストーリーの歴史を、理性の歴史だけではなく感性の、知覚の、身体の歴史を、作り手の歴史だけでなく受け手の歴史を、言葉の歴史だけではなく、声の、音の、味の、手触りの、記憶の歴史を、そして一巡した後に「(これまでなら)中心(とされてきたもの)」の歴史をどう書くのか――などなどという、現代歴史学の貪欲な冒険を、文学研究者も目にしていないわけではあるまい。文学史は、文学の歴史である。文学「史」をめぐる今回の議論は、その歴史を論じる理論的な枠組み、歴史観のレベルにおいて、あまりにも素朴だった。
 最後に大澤の言っていた「学説史」の必要性には、私も強く同意する。(近代)文学研究がどのような道を歩いてきたのかは、これからこの領域を学ぶ学生たちにとって有用であるだけでなく、現在その領域に身を投じている私たちにとっても、現在時を歴史的なパースペクティブの中で再確認するという意味において、非常に重要であろう。私たちの文学史は本当に多様化したのかの点検にもなるに違いない。それもまた、文学史を再考する際の付随的課題のひとつではないだろうか(というか、ないのがおかしいことに気づこうよ)


(訂正)2017.11.14 22:06
× 神西清
○ 神崎清
× 南印
○ 蘭印