日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

ひさびさの対面学会 Session 2

週末は、日本近代文学会の大会であった。2年ぶり以上の対面開催である。参加しての雑感を残す。

昔、ある先輩研究者が、

「私は学会に、ああなんて自分は不勉強なんだ、というのを思い知るために来るんだ」と言っていた。所属大学で教えているだけの生活をしていると、それがわからなくなる、と。学生たちよりも自分は知識でまさっていて、同僚とも専門性が違う。そうなるとお山の大将に知らず知らずになっている。学会に来るとそれを痛感する、ということだった。

久々に出た近代文学会で、自分はその先生の言葉を思い出しつつ、「あー、自分、ほんとに知らないことばかりだ」ということを痛感した。いい時間だった。

質問に立った人たちも「勉強になりました」的なことを言っていたが、あながちご挨拶だけではないと私は思った。それだけ、気合いの入った報告が多く(報告者の多くは若い人だ)、濃い発表だった。経験を積んだ研究者でも、ああ知らなかったな、と思ったろうし、同世代くらいの院生やポスドクの人たちには、刺激を与えたんじゃないかと思う。

学会の運営は試行錯誤していて、なかには反省の弁を述べている委員の人もいるけど、私は一会員として、そういう場を用意してくれ、あー勉強しないとなぁと思えたことだけで、もう感謝である。

ここ最近で対面の学会に2つ参加した

のだけれど、対面開催がオンラインの研究集会とあきらかに違うのは、一時的な「同業者集団」が場にリアルに生成するところだよなぁと思った。

対面の会場に入る前から知り合いが路上や廊下に現れ、会場に入ると四方を囲まれた空間のなかに、顔を見知った同業者たちがわんさといる。二日間、専門家たちが集団を形成する。こういう場の空気感というか圧というのは、ちょっとすごい。院生のころや若いころ学会に行くと、あるいは今でも別分野の研究会に参加すると、この圧が純粋に自分の部外者感・場違い感としてのしかかってきて、つらかった/つらい。

学会員として経験を積むということは、そういう場のなかに自分を組み込んでいくということだといえるかもしれない。そうした組み込みの行為が苦手だったり、嫌いだったりする人にとっては、オンライン集会の登場は福音だろう。その会のもつ儀式や行動様式を受け入れて行動し、役割を請け負っていく――そんなことよりは、ただ勉強だけがしたい。そういう考え方の人もいる。いや、そういう性向をもつ人は、研究者には確実に一定の割合でいるというべきだろう。そういうタイプの研究者にとっては、研究発表と質疑応答以外の部分をスキップできるオンライン研究集会は、とても向いている。

ただ、そういう人付き合いは別にしたくなく、研究だけに集中したいという人にとっても、一時的な「同業者集団」が現出する学会という場は、悪い空間ではない気もする。そこは馴れ合いの場であったり、仲良しグループのおしゃべり会だったりもするが、同時に専門家同士がバチバチに火花を散らす、競い合いの場でもあるから。ああ、こんなに同業者(同好の士といってもいい)がいるんだなぁという体感からくる自己の足場の確認は、それなりに安心感の元となる。そしてその人たちが、展開される研究発表について真剣に討議するようすを見ることは、自分のもつ興味関心の種を活性化する。研究発表だけではない。雑談や近況報告や宣伝のチラシや、そういった些細な、しかし予期せぬことがえられるのも、同業者が大勢寄り集まっている会に参加するメリットである。

集まることは、それ自体が人の古い知恵であるかもしれない。

学会は、いまやオンライン・ツールという飛び道具

を手に入れた。これは未開拓で、まだまだその利便性を増大させる余地があると思っている。学会は、その可能性を追求するべきである。と同時に、私たちは(とくに地方や海外に住む大学院生は)、不便や面倒をおして、対面集会に参加することの価値についても、認識して欲しいと思う。そこで得られる経験は、大きいから。

コロナの前、学会は学生の発表者への旅費支援などを行っていた。もしもオンラインが、旅費支援の廃止を結果してしまうとしたら(そういう方向があるということではない。仮定の話)、それは違うといいたい。

遠隔地の参加者はオンラインで参加できるようになったが、とはいえそのことが研究環境の格差をすべてチャラにするわけではない。遠隔地にいる若い研究者にも、対面集会のメリットを享受できるよう支援すること。オンライン時代を迎えたとしても、それは学会の責務でありつづけるはずだ。

クォ・ヴァディス/どこにいく?

クォ・ヴァディス」北脇昇 1949

学会出張は「ついで」が可能ということで、MOMATコレクション。さてさて、私たちはどこへ行くのか。