このたび、思いもかけず第38回和辻哲郎文化賞(一般部門)をいただくことになりました。拙著『帝国の書店──書物が編んだ近代日本の知のネットワーク』(岩波書店、2025)に対する賞でした。
www.himejibungakukan.jp
3月1日に、姫路市において授賞式があり、出かけて参りました。以下は、その折に「受賞の言葉」としてお話をさせてもらったスピーチの原稿です。
ご紹介いただきました、日比嘉高と申します。
この度、和辻哲郎文化賞という栄えある賞を受賞できましたこと、心よりうれしく思っております。
わたくしの今回の本、『帝国の書店』は、本屋さんについての本です。受賞の言葉として、少し本屋さんの話をさせて下さい。
少なくはない人たちが、「自分の本屋」を持っている、あるいは持っていたかもしれません。
私の場合、「自分の本屋」は、私の育った名古屋市北部の国道沿いの小さな店「三光堂」から始まりました。足を運ぶようになったのは、中学生の頃からだったと思います。横長に伸びた狭い店でしたが、西向きの硝子窓の大きい、明るい店でした。私はそこで、オカルト系の月刊雑誌を買うことを覚え、超長篇のファンタジー小説の最新刊を楽しみに待つことを覚えました。
大学は石川県の金沢に行きました。うつのみや、という老舗の大きな店があり、繁華街の香林坊にありましたから、私は遊びに出かけたときに、ふらりと店頭を覗くような使い方をしていました。大学院は茨城県のつくばでした。そこには、友朋堂といういい本屋がありました。大学の構内には、丸善が大小の店舗をいくつか構えており、私は毎日のようにそのどこかを覗きました。
こうした私の思い出話を聞きながら、皆さんの中にも、それぞれの「自分の本屋」「自分の町の本屋」が思い浮かんだかもしれません。
私が『帝国の書店』で行おうとしたのは、そうした町の本屋の研究です。第二次世界大戦以前には、そうした「町の本屋」が、海外の日本の支配域・進出域──いわゆる「外地」の町にも、たくさんあったのです。
私の本『帝国の書店』には、3つの意義があったと自分では考えています。一つには、本屋の歴史を、日本国内だけではなく、環太平洋のスケールで考えたことです。ご承知の通り、戦前の大日本帝国は植民地国家であり、移民を送り出す移民送出国でした。北は樺太から南はインドネシア、東はブラジルから西は中国大陸の奥深くまで、人びとは移住したり出稼ぎに出たり、商社や軍によって派遣されたりしていました。
人が集まって住むところには、必ず娯楽が生まれます。戦前期において、本や雑誌は、今よりもずっと主要な娯楽のメディアでした。海外の植民地や移民地に移り住んだ人びとの後を追いかけるように、さまざまな地域に本屋ができました。私の本は、その歴史を、台湾、朝鮮、満洲、樺太、北米、南米、南方というように、地域ごとに追いかけています。
二つ目には、「町の本屋」を考えたところにあります。小売書店のことを考えた、という言い方もできるでしょう。本屋さんの研究も、文化の研究の一部です。文化の研究は、ほとんどの場合、作り手の研究、クリエーターの研究を行います。文学で言えば作家の研究です。出版でいえば、出版社や雑誌社、新聞社の研究です。
これに対し、私の研究は、運び手・売り手、それも末端の運び手・売り手の研究です。これまではわずかな例外的研究や回想を除いて、あまり価値がないとして顧みられなかった領域の研究です。
しかし私には、本屋の研究に意味がないとは思えませんでした。
本屋は、本が読者と出会う最前線です。文化が生み出されるクリエイションの場所も知の現場でしょうが、人びとが文化に出会うエンカウンターの場所も、やはり知の現場でしょう。
しかも戦前の大日本帝国は、多民族国家でした。植民地支配を伴うその構造の中で、日本人だけではない、各地域のさまざまな民族の読者が、書店人が、書店という場に集まることになります。書店は、この意味でも出会いの場であり、人類学でいうところの接触領域=帝国のコンタクト・ゾーンとなったのです。
ところで、皆さんの思い浮かべた「自分の本屋」は、まだあるでしょうか。
私の通った三光堂は、もう今はありません。金沢のうつのみやも本店を移転して縮小し、筑波の友朋堂も一時閉店するなど難しい経営の状態にあるようです。
ご承知の通り、書店業界は厳しい状況におかれ続けています。町の本屋は次々と潰れ、書店の床面積は縮小の一途をたどっています。私は一般の方よりは本屋に行く回数が多いとは思いますが、それでも紙の本を手に取っている時間よりも、圧倒的にスマートフォンの画面を見、パソコンのモニターを介して文字を読む時間の方が多いです。
残念ながら、この流れは不可逆でしょう。もう、電車の車内で人びとが新聞や雑誌、文庫本をめいめい手にしているような、あの社会が戻ってくることは二度とないと私は思います。
私の本は、本屋の研究ですが、現在の書店ビジネスに直接関わるような知見は、ほとんど書いていません。その意味で、下り坂を下り続けている書店業界に、なにか気の利いたアドバイス、うまい突破口が示せるということはありません。残念ながら私はビジネスのコンサルタントではなく、人文学の研究者です。
しかし私は、それでも、いやだからこそ、思います。
私たちは、本屋に、そして本に、出会い直さなければならない。
『帝国の書店』という自分自身が書いた本屋の歴史を振り返りながら、私は、本屋の役割とは何だったのであり、何であるべきなのかを、改めて考えてみています。
本は、だれにとっても必要というわけではありません。本を読まない人は昔はかなり多かったし、今も多い。けれど、本を読まずにいられない人たちがいます。19世紀の末、アメリカに出稼ぎに行った日本人たちがいます。1880年代、日本人がサンフランシスコに少しずつ出稼ぎコミュニティを作り始めた時、日本からの輸入雑貨を扱う商店もできました。その最初期の雑貨屋が題した広告を私は見つけました。取扱品目──それは味噌や醤油、日用品という生活必需品がほとんどです──の中に、私は「小説」という項目を見出しました。海外出稼ぎの生活の場で、一部の移民労働者には本が必要でした。いや、厳しい出稼ぎ労働をしてたからこそ、そうではない世界を見せる本が、小説が、必要だったのかもしれません。
本は、ここではない別の世界を見せてくれる窓口であり、本屋はその別の世界に行くためにくぐる門のようなものです。
戦前、上海の日本人租界地に、内山書店という大きな書店がありました。店主は内山完造、創業者はその妻のみきでした。内山書店には、一般の顧客もあつまりましたが、魯迅や田漢、金子光晴ほかの日中の知識人がつどい、日中の文化交流サロンのような体をなしていたことは有名です。内山書店は、一般の書籍を売り、同人誌の出版元ともなり、戦前の中国大陸における日本文化拡張の前線となり──もちろんそれは帝国日本の文化プロパガンダの一部でもありました──、そして同時に、当時弾圧されていた中国の左翼系知識人を匿ったり、亡命の手伝いさえしたりしていました。
書店は、人と人を出会わせる場であり、そこから文化的活動が生まれ出るゆりかごでもありました。
戦前の書店の活動を振り返ってみるとき、教育との関わりも目立ちます。とりわけ、それは大規模な書店においてそうでした。地域の中核となる書店は、かつて国定教科書を取り扱う権利を得た特別な書店でした。小学校中学校の教育制度との結びつきを持った書店は安定した収入が見込めるようになり、同業者間での地位も上昇します。さらに大都市部においては、そうした大書店は図書館との取引、大学や高等学校等といった高等教育機関との取引も行うようになります。
大書店だけではありません。内地外地を問わず、書店の売れ筋商品の一つは、子供向けの雑誌でした。子供向けの雑誌はもちろん娯楽の面も多かったですが、同時にそのコンテンツの中には親しみやすく書かれた教育的記事も含まれていました。
つまり書店は、私たちの社会の教育を支えるインフラの一つでもあったわけです。
先ほど私は、私の本『帝国の書店』には、3つの意義あるのではないか、と申し上げました。ここからはその3つめ、最後の一つに進みます。
私の本の特徴は、環太平洋を俯瞰するという空間的な視界の広さにあると思います。しかし同時に私はこの本において、時間的な挑戦も行ってみたつもりです。具体的には戦争を跨ぐということです。『帝国の書店』の「帝国」の語は、植民地帝国としての大日本帝国を指します。大日本帝国は敗戦とともになくなりました。戦前、海外に移住したり、商売に行ったり、兵隊として戦争に行ったりした日本人たちは、大慌てで日本列島に戻ってきます。いわゆる「引揚げ」です。
戦前、環太平洋の各地で本を売っていた本屋たちも、そのほとんどが引き揚げてきます。しかし、本は引き揚げませんでした。植民地宗主国の民族として大きな顔をしていた日本人たちは慌てふためいて去って行きましたが、日本語の書物は残りました。植民地時代の教育の結果、日本語の読み書き能力を身につけた現地の人びとの、日本語能力も、残りました。人は帰ったが、本は残った。現在も、戦前期に海外に運ばれたたくさんの本が、中国の大学に、朝鮮半島の図書館に、台湾の古本屋に、サンフランシスコの日本語学校の倉庫に、残っています。樺太(サハリン)の図書館にあった日本語の本は、その後モスクワに運ばれたと教えてもらいました。私は、『帝国の書店』を書くための調査の過程で、そのような時を超えて残った本の姿をいくつもこの目で見て来ました。
私は自分の本の結びとして、次のような一節を書きました。
「なにしろ、本の命は、人の命よりも長いのだから」
帝国の滅亡という大きな境目を越えて、本は残りました。第二次世界大戦後、朝鮮半島で、中国大陸で、台湾で、カラフトで、東南アジアで、さまざまな場所で戦後の新しい社会の構築が始まります。日本でももちろんそうです。
それぞれの地域の文脈に応じた、新しい社会の再構築の場で、書物は、時を超えた遺産となっていきます。人が変わり、社会が変わっても、本は生き延びます。たとえ普段は忘れられ、埃を被っていたとしても、そのときどきに、呼び出し、手に取り、ページをめくる人が現れます。その連鎖が、私たちの文化の歴史を紡いでいきます。
今回和辻哲郎文化賞をいただくにあたって、和辻哲郎が、本屋について何か言っているだろうかと思って少しだけ調べてみました。私の目に止まったのは、講談社学術文庫にも入っている『妻 和辻照への手紙』の記述でした。昭和初年のころ、和辻はヨーロッパを外遊していました。彼は滞在先のパリやベルリンなどで、新刊書店や古本屋などに足繁く通い、本を購入していたようです。彼の蔵書は、現在、法政大学で和辻哲郎文庫として保存管理されています。大量の書き込みがあり、和辻の思想の生成を考える際の、貴重の資料となっているそうです。和辻の本もまた、海を越え、時間を越えて、私たちのもとに残されています。
今、和辻哲郎という偉大な人文学の先達の名を冠した賞を頂戴するよろこびを、こうして話ながらあらためて噛みしめております。
私のささやかな本が、できれば時間を越えて、50年後、100年後の読者の元に届いてほしい、そう願っています。和辻哲郎さんが、ほんの少し、その後押しをして下さる、そう考えてもいいのかもしれない、そう感じています。
この本の調査と執筆の過程で、数多くの皆さんのサポートがありました。そのそれぞれのお名前をここで列挙するわけには参りませんが、この場を借りて全ての方に、心より御礼申し上げたいと思います。
本屋の形は、これからもどんどん変わっていくでしょうし、変わるべきでしょう。社会が変わっていくわけですからしかたがありません。
しかし、私たちが本というモノとともに作っている時間は、短期的なものではない。そう、考えましょう。時を超えて残っていく本とともに、私たちの社会の時間を進めていきましょう。
本の命は、人の命よりも長いのです。
どうもありがとうございました。










