日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

本の命は、人の命よりも長いのだ──和辻哲郎文化賞(一般部門)受賞の言葉

このたび、思いもかけず第38回和辻哲郎文化賞(一般部門)をいただくことになりました。拙著『帝国の書店──書物が編んだ近代日本の知のネットワーク』(岩波書店、2025)に対する賞でした。
www.himejibungakukan.jp

3月1日に、姫路市において授賞式があり、出かけて参りました。以下は、その折に「受賞の言葉」としてお話をさせてもらったスピーチの原稿です。



ご紹介いただきました、日比嘉高と申します。
この度、和辻哲郎文化賞という栄えある賞を受賞できましたこと、心よりうれしく思っております。
わたくしの今回の本、『帝国の書店』は、本屋さんについての本です。受賞の言葉として、少し本屋さんの話をさせて下さい。

少なくはない人たちが、「自分の本屋」を持っている、あるいは持っていたかもしれません。
私の場合、「自分の本屋」は、私の育った名古屋市北部の国道沿いの小さな店「三光堂」から始まりました。足を運ぶようになったのは、中学生の頃からだったと思います。横長に伸びた狭い店でしたが、西向きの硝子窓の大きい、明るい店でした。私はそこで、オカルト系の月刊雑誌を買うことを覚え、超長篇のファンタジー小説の最新刊を楽しみに待つことを覚えました。

大学は石川県の金沢に行きました。うつのみや、という老舗の大きな店があり、繁華街の香林坊にありましたから、私は遊びに出かけたときに、ふらりと店頭を覗くような使い方をしていました。大学院は茨城県のつくばでした。そこには、友朋堂といういい本屋がありました。大学の構内には、丸善が大小の店舗をいくつか構えており、私は毎日のようにそのどこかを覗きました。

こうした私の思い出話を聞きながら、皆さんの中にも、それぞれの「自分の本屋」「自分の町の本屋」が思い浮かんだかもしれません。
私が『帝国の書店』で行おうとしたのは、そうした町の本屋の研究です。第二次世界大戦以前には、そうした「町の本屋」が、海外の日本の支配域・進出域──いわゆる「外地」の町にも、たくさんあったのです。

私の本『帝国の書店』には、3つの意義があったと自分では考えています。一つには、本屋の歴史を、日本国内だけではなく、環太平洋のスケールで考えたことです。ご承知の通り、戦前の大日本帝国は植民地国家であり、移民を送り出す移民送出国でした。北は樺太から南はインドネシア、東はブラジルから西は中国大陸の奥深くまで、人びとは移住したり出稼ぎに出たり、商社や軍によって派遣されたりしていました。
人が集まって住むところには、必ず娯楽が生まれます。戦前期において、本や雑誌は、今よりもずっと主要な娯楽のメディアでした。海外の植民地や移民地に移り住んだ人びとの後を追いかけるように、さまざまな地域に本屋ができました。私の本は、その歴史を、台湾、朝鮮、満洲、樺太、北米、南米、南方というように、地域ごとに追いかけています。


二つ目には、「町の本屋」を考えたところにあります。小売書店のことを考えた、という言い方もできるでしょう。本屋さんの研究も、文化の研究の一部です。文化の研究は、ほとんどの場合、作り手の研究、クリエーターの研究を行います。文学で言えば作家の研究です。出版でいえば、出版社や雑誌社、新聞社の研究です。
これに対し、私の研究は、運び手・売り手、それも末端の運び手・売り手の研究です。これまではわずかな例外的研究や回想を除いて、あまり価値がないとして顧みられなかった領域の研究です。
しかし私には、本屋の研究に意味がないとは思えませんでした。

本屋は、本が読者と出会う最前線です。文化が生み出されるクリエイションの場所も知の現場でしょうが、人びとが文化に出会うエンカウンターの場所も、やはり知の現場でしょう。
しかも戦前の大日本帝国は、多民族国家でした。植民地支配を伴うその構造の中で、日本人だけではない、各地域のさまざまな民族の読者が、書店人が、書店という場に集まることになります。書店は、この意味でも出会いの場であり、人類学でいうところの接触領域=帝国のコンタクト・ゾーンとなったのです。


ところで、皆さんの思い浮かべた「自分の本屋」は、まだあるでしょうか。
私の通った三光堂は、もう今はありません。金沢のうつのみやも本店を移転して縮小し、筑波の友朋堂も一時閉店するなど難しい経営の状態にあるようです。
ご承知の通り、書店業界は厳しい状況におかれ続けています。町の本屋は次々と潰れ、書店の床面積は縮小の一途をたどっています。私は一般の方よりは本屋に行く回数が多いとは思いますが、それでも紙の本を手に取っている時間よりも、圧倒的にスマートフォンの画面を見、パソコンのモニターを介して文字を読む時間の方が多いです。
残念ながら、この流れは不可逆でしょう。もう、電車の車内で人びとが新聞や雑誌、文庫本をめいめい手にしているような、あの社会が戻ってくることは二度とないと私は思います。
私の本は、本屋の研究ですが、現在の書店ビジネスに直接関わるような知見は、ほとんど書いていません。その意味で、下り坂を下り続けている書店業界に、なにか気の利いたアドバイス、うまい突破口が示せるということはありません。残念ながら私はビジネスのコンサルタントではなく、人文学の研究者です。
しかし私は、それでも、いやだからこそ、思います。

私たちは、本屋に、そして本に、出会い直さなければならない。


『帝国の書店』という自分自身が書いた本屋の歴史を振り返りながら、私は、本屋の役割とは何だったのであり、何であるべきなのかを、改めて考えてみています。
本は、だれにとっても必要というわけではありません。本を読まない人は昔はかなり多かったし、今も多い。けれど、本を読まずにいられない人たちがいます。19世紀の末、アメリカに出稼ぎに行った日本人たちがいます。1880年代、日本人がサンフランシスコに少しずつ出稼ぎコミュニティを作り始めた時、日本からの輸入雑貨を扱う商店もできました。その最初期の雑貨屋が題した広告を私は見つけました。取扱品目──それは味噌や醤油、日用品という生活必需品がほとんどです──の中に、私は「小説」という項目を見出しました。海外出稼ぎの生活の場で、一部の移民労働者には本が必要でした。いや、厳しい出稼ぎ労働をしてたからこそ、そうではない世界を見せる本が、小説が、必要だったのかもしれません。
本は、ここではない別の世界を見せてくれる窓口であり、本屋はその別の世界に行くためにくぐる門のようなものです。

戦前、上海の日本人租界地に、内山書店という大きな書店がありました。店主は内山完造、創業者はその妻のみきでした。内山書店には、一般の顧客もあつまりましたが、魯迅や田漢、金子光晴ほかの日中の知識人がつどい、日中の文化交流サロンのような体をなしていたことは有名です。内山書店は、一般の書籍を売り、同人誌の出版元ともなり、戦前の中国大陸における日本文化拡張の前線となり──もちろんそれは帝国日本の文化プロパガンダの一部でもありました──、そして同時に、当時弾圧されていた中国の左翼系知識人を匿ったり、亡命の手伝いさえしたりしていました。
書店は、人と人を出会わせる場であり、そこから文化的活動が生まれ出るゆりかごでもありました。

戦前の書店の活動を振り返ってみるとき、教育との関わりも目立ちます。とりわけ、それは大規模な書店においてそうでした。地域の中核となる書店は、かつて国定教科書を取り扱う権利を得た特別な書店でした。小学校中学校の教育制度との結びつきを持った書店は安定した収入が見込めるようになり、同業者間での地位も上昇します。さらに大都市部においては、そうした大書店は図書館との取引、大学や高等学校等といった高等教育機関との取引も行うようになります。
大書店だけではありません。内地外地を問わず、書店の売れ筋商品の一つは、子供向けの雑誌でした。子供向けの雑誌はもちろん娯楽の面も多かったですが、同時にそのコンテンツの中には親しみやすく書かれた教育的記事も含まれていました。
つまり書店は、私たちの社会の教育を支えるインフラの一つでもあったわけです。


先ほど私は、私の本『帝国の書店』には、3つの意義あるのではないか、と申し上げました。ここからはその3つめ、最後の一つに進みます。

私の本の特徴は、環太平洋を俯瞰するという空間的な視界の広さにあると思います。しかし同時に私はこの本において、時間的な挑戦も行ってみたつもりです。具体的には戦争を跨ぐということです。『帝国の書店』の「帝国」の語は、植民地帝国としての大日本帝国を指します。大日本帝国は敗戦とともになくなりました。戦前、海外に移住したり、商売に行ったり、兵隊として戦争に行ったりした日本人たちは、大慌てで日本列島に戻ってきます。いわゆる「引揚げ」です。

戦前、環太平洋の各地で本を売っていた本屋たちも、そのほとんどが引き揚げてきます。しかし、本は引き揚げませんでした。植民地宗主国の民族として大きな顔をしていた日本人たちは慌てふためいて去って行きましたが、日本語の書物は残りました。植民地時代の教育の結果、日本語の読み書き能力を身につけた現地の人びとの、日本語能力も、残りました。人は帰ったが、本は残った。現在も、戦前期に海外に運ばれたたくさんの本が、中国の大学に、朝鮮半島の図書館に、台湾の古本屋に、サンフランシスコの日本語学校の倉庫に、残っています。樺太(サハリン)の図書館にあった日本語の本は、その後モスクワに運ばれたと教えてもらいました。私は、『帝国の書店』を書くための調査の過程で、そのような時を超えて残った本の姿をいくつもこの目で見て来ました。
私は自分の本の結びとして、次のような一節を書きました。

「なにしろ、本の命は、人の命よりも長いのだから」

帝国の滅亡という大きな境目を越えて、本は残りました。第二次世界大戦後、朝鮮半島で、中国大陸で、台湾で、カラフトで、東南アジアで、さまざまな場所で戦後の新しい社会の構築が始まります。日本でももちろんそうです。
それぞれの地域の文脈に応じた、新しい社会の再構築の場で、書物は、時を超えた遺産となっていきます。人が変わり、社会が変わっても、本は生き延びます。たとえ普段は忘れられ、埃を被っていたとしても、そのときどきに、呼び出し、手に取り、ページをめくる人が現れます。その連鎖が、私たちの文化の歴史を紡いでいきます。


今回和辻哲郎文化賞をいただくにあたって、和辻哲郎が、本屋について何か言っているだろうかと思って少しだけ調べてみました。私の目に止まったのは、講談社学術文庫にも入っている『妻 和辻照への手紙』の記述でした。昭和初年のころ、和辻はヨーロッパを外遊していました。彼は滞在先のパリやベルリンなどで、新刊書店や古本屋などに足繁く通い、本を購入していたようです。彼の蔵書は、現在、法政大学で和辻哲郎文庫として保存管理されています。大量の書き込みがあり、和辻の思想の生成を考える際の、貴重の資料となっているそうです。和辻の本もまた、海を越え、時間を越えて、私たちのもとに残されています。

今、和辻哲郎という偉大な人文学の先達の名を冠した賞を頂戴するよろこびを、こうして話ながらあらためて噛みしめております。
私のささやかな本が、できれば時間を越えて、50年後、100年後の読者の元に届いてほしい、そう願っています。和辻哲郎さんが、ほんの少し、その後押しをして下さる、そう考えてもいいのかもしれない、そう感じています。

この本の調査と執筆の過程で、数多くの皆さんのサポートがありました。そのそれぞれのお名前をここで列挙するわけには参りませんが、この場を借りて全ての方に、心より御礼申し上げたいと思います。

本屋の形は、これからもどんどん変わっていくでしょうし、変わるべきでしょう。社会が変わっていくわけですからしかたがありません。
しかし、私たちが本というモノとともに作っている時間は、短期的なものではない。そう、考えましょう。時を超えて残っていく本とともに、私たちの社会の時間を進めていきましょう。
本の命は、人の命よりも長いのです。

どうもありがとうございました。


カトマンズ、たそがれ小路

仕事を終えた最終日、飛行機の出発まで時間があったので、土産物買いのついでにカトマンズの路地を歩いた。

R広場を目指していけばよいだろう、と大体の目星をつけて歩き出す。ぶらぶら歩きながら、店先を冷やかし、時々中に入ってみたり、値段を聞いてみたりしながらゆっくり進む。

道は、ホテルに近い観光客向けの、ネオンがあるような比較的整った街並みから、次第に古びた建物が密集する地区へと変わり、細かい路地が入り組むようになり、道幅もせまくなっていく。行きかう人々の密度も増し、埃が舞い上がり、バイクや、時に小さなタクシーまでもが侵入してクラクションを鳴らし、排気ガスをまき散らしながら人々を押しのけていく。Gは、こうした街の喧騒を指して、「これがカトマンズだよ」と私に言ったものだ。

カトマンズ中心部の広場や道筋には、本当に数多くの寺や塔、像といった宗教に関係する建築物や設置物が置かれている。大小さまざまのそうした建物や石像などに目を向けながら、私は同便に乗る予定のMと同行して歩いていた。私たちは、土産を探しながら、あわせてネパールの仏教寺院も見てみたいと考えていた。

スマートフォンを出して地図を見ながら、Mと一緒に道筋を相談していると、声をかけてきた男性がいた。それがGだった。

四、五十代に見える彼はさほど大柄ではないが、恰幅のよい体つきで、にこやかでエネルギッシュな雰囲気だった。「どこに行こうとしてるんだ」と聞くので、仏教の寺院を見てみたいと思って今行き先を探していると返事をした。「だったらこっちだ」と彼は応え、「案内してやるからついてこい」と言って歩き出した。
流暢な英語を話し、彼はときに日本語さえ混ぜた。こんにちは、ありがとう、とうきょう、きょうと、そんな言葉を交えながら、にこやかに、能弁に話した。

「自分はこの先の学校で先生をしているんだ」と言いながら、彼は歩いた。君らはいつまでカトマンズにいるんだ、何をしに来たんだ、そんなことを会話しながら進んでいくと、彼はふいに「こっちだ」と言って路地に入った。

私とMの2人だけでは、絶対に入っていかないような狭い路地だった、こんなところに寺?と思いながらついていくと、彼はさらに進んで建物の壁に空いた入り口に入った。続いて入ってみると、そこには中庭が開けており、その中庭全体が礼拝の施設となっていた。

Gは壁一面に埋め込まれた様々な像や装飾を指し、「これがヒンドゥーの寺の様式だ」と言いながらその細部について説明した。
そして手前の広場中央に近い祭壇を指し、「これが仏教のものだ」と彼は言って、さらにそれを細かく解説してくれた。

カトマンズではヒンドゥー教と仏教とがとても近い」と言いながら、彼はその2つが様々なものを共有していることを説明してくれた。
そしてさらに仏教について説明を続け、「カトマンズでは仏教は宗教ではない。それはある種の生き方であり、生活の仕方であり、考え方なんだ」と、そんなことを言った。

買い物の前に私たちはもう一つ別の大きな宗教施設も訪問していた。
そこでも、自分はヒンドゥー教徒だと言う1人の男性に、私たちは同じような説明を受けていた。ネパールでは、仏教は宗教ではない。それは人々の生活のあり方そのものなのだ、ということだった。輪廻や死生観のことを、彼は説いていた。

中庭の寺院での説明を終えると、Gはさらに我々を案内し続けた。寺だけではなく、彼は様々な地元の建物についても語ってくれた。この寺塔の壁面にはカーマスートラが掘り込んであるから見てみるといいとか、これが2015年のカトマンズの大地震でも崩れなかったこのあたりで最も古い建物だとか、そんなこと言いながら、いくつもの建物や寺を説明してくれた。「この崩れた建物の下で、10人が亡くなったんだ」とも彼は言った。
彼自身、大地震の被災者だったとも語った。「店も建物も失ったが、私は幸せだった。だって家族はみんな生き残ったからね」と彼は私に笑顔を向けながら言った。

地震より以前、別の地域からカトマンズに移り住んで、いまは仏教に関わる教師をしている、と自己紹介する彼の知識は、実際豊富だった。行く先々の寺院で礼拝を行い、身体の3つの「チャクラ」の前で印を結んで発声をし、3度の礼拝を繰り返す、そんな祈りの作法まで教えてくれた。
彼は歩きながら、輪廻転生のこと、物事が全部流転していくこと、分け与えることが大事であることを話し続けた。

また「教育は大事だ」と言いながら、「日本ではどれぐらいの子供たちが学校に行くんだ?」ともGは聞いた。小学校や中学校に関してはほとんど100%に近い、と私は答えた。「素晴らしい」と彼はいい、「ここではそうではない。60%ほどの子供たちしか学校に行かないのだ」と彼は説明した。「あなたは自分が幸せな国に生まれたのだということを理解しないといけないよ」と彼は言った。私はその通りだと思い、彼にそう答えた。

「だから私は教育はすごく大事だと思っている」とGは繰り返した。「だから自分は子供たちに教えているんだ。」

教えることと、与えること。
自分が幸せにな国に生まれ、取り立てて文句のない生活をしていること。
そんなことを考えながら、私はカトマンズの雑踏の中を歩いた。
道路はところどころめくれ上がり、建物はしばしば崩れたままになり、掘り起こされ地下水が染み出したところで、女性たちがしゃがみ込んで洗濯をしていた。

「特に女の子たちに勉強を教えるのが大事だ、と自分は思っている」とGは言った。「ここでは、女の子たちはしばしば売られてしまうのだから」と彼は説明した。

信心深く、にこやかで、見ず知らずの私たちにも何かを分け与えようとしてくれているこのカトマンズの男。

打ち明ければ、私はほとんど感動に近いものを感じていた。Gは、「僕はガイドをやっているのじゃないから、お金は要らないよ」と笑っていた。

かなり歩いた頃、Gは「着いたよ」と言いながら、小さな広場の横に立つ建物を指して、その中庭に入っていった。左手の建物を指さし、「こっち側が地震で崩れた元の学校」、そして180度くるりと振り返り、「こっちが新しい学校だ」と言った。「Harmony Handicraft House」という洒落た看板が、そこにはついていた。

何かが私の中で引っかかった。子供たちの「学校school」ではなかったのか?

彼は扉をくぐり、そこにいた2人の若者に私たちを紹介した。1人は西洋人の女性のように見え、彼女は地面に座って曼荼羅のようなものを書いていた。
部屋は意外なほどに小綺麗だったが、狭い。床にしゃがんで曼荼羅を書く女性の反対側に、大きなカウンターのような机があり、壁には曼荼羅が飾ってあった。カウンターの向こうには、巻いた大きな紙、おそらくは曼荼羅のポスターが、床から立ち上がるケースに入れてあった。疑念が、もやのように広がってくる。

それでもまだGは、机の上に取り出してきた曼荼羅を広げ、細かくそのデザインの意味について解説してくれた。その説明は詳しく専門的なものだったが、私は次第にその彼の英語が聞き取れなくなっていった。

この状況が、うまく飲み込めない。Gはいまなお仏教の思想を熱心に説き続けているが、おそらくは間違いなくその同じ口で、私にこれを買うように促し始めるだろう。

彼は若者たちの一人に声をかけ、「お茶を入れてくれないか」と言った。そして私たちにブラックティーがいいか、マサラティーがいいかと聞き、「これがもてなしのやり方なんだ、私たちの」と微笑んで付け加える。

私はすでに半分以上、そのお茶を、彼の心からの心遣いだとは思えなくなりつつあった。
ちらりと隣のMの顔を見る。やはり表情がこわばっているように見える。
頭の中でさらに疑念が駆け巡り始める。

この部屋に至るまでの半刻を超える彼の行為や解説は、すべてこの曼荼羅を買わせるための布石だったのではないのか。
疑念は加速する。もうすぐ出てくるだろうお茶を、私たちは飲んで良いだろうか。お茶は私たちを引き止めさせるためのものであり、私たちの心と体をこの場に縛り付けるためのものであることはもはや間違いない。
だが、もっと疑えば、そこに何も入っていない、ということが確かに言えるだろうか──そんなことさえ私は考え始めた。

彼が絵を取り替えるその間を見て、私はMに、「お茶を飲むのはやめましょう」と早口の日本語で言った。出てきたお茶は飲まないほうがいい、という意味のつもりだった。けれどMはその私の発言を聞いて、もう帰りましょうの意味だと取り、「そろそろ帰らないとね」と答えた。私ももう潮時だと思った。

彼は我々のその日本語のやりとりを理解してかどうか、ついに「この曼荼羅を買ってもらうことがこの学校への寄付につながるんだ」といった。彼の説明はまだ一貫していた。彼が学校で教えていること、私たちを支援して欲しいこと、曼荼羅を買うことがそれにつながること。

帰らなければならない。
この曼荼羅を買う気はもうない。

私は財布から日本の1000円札を出した。そして、これをこの「学校school」に寄付します、と言った。「これは私たちの気持ちです。この学校のために私たちはこれを置いていきます。」
彼は怪訝な顔をした。自分の計画が失敗したことを悟ったのかもしれない。

彼に1000円を受け取らせると、私とMは外に出た。
明るい日差しの下で、Gにお礼を言い、本当に素晴らしい体験だったと私は握手をした。そして別れを告げた。

助かった、という安堵とともに、Gに背を向けて歩き出す。どこをどう歩いてここにやってきたのか完全にわからなくなっていたので、GPSで自分の位置を確かめる。自分が、まだ動揺しているのを感じる。

動揺。初めて訪問する南アジアの街で、自分が手の込んだやり方で、おそらく法外な値段の何かを売りつけられようとしていたことに対する動揺。それはそうだ。

いやしかし、とスマートフォンの地図の上で青く光る自分の位置を見つめながら、自問自答する。教育は大事だと言い、分け与えることがたいせつだ、と言ったGの顔と言葉が蘇る。
彼が説いた言葉は、すべて嘘っぱちだったのだろうか。

日は、ゆっくりと傾きつつあった。
私は、カトマンズで出会ったG…と名乗る男のことを考え続ける。
私には彼が100%の詐欺師だとは思えなかった。彼とともに私とMはいくつもの寺院を礼拝した。彼は建築を説き、図像を説き、思想を説いた。礼拝の手順を教え、私とMの額に赤い印を施し、幸運を祈ってくれた。
日本の教育の現状を褒め、ネパールの状況を憂い、女の子どもたちが売られる現状を訴えた。

それに共感し、寄付をする観光客がいたとして、何が不思議なのか。
そのほとんどか富める国から来た彼らが、その富の一部を曼荼羅のポスターと交換し、宗教的な理念を示しながら活動する「クラフト・ハウス」を支えたとして、何が悪い。
分け与えよ。
富はめぐるべきなのだ。

Gは、そう言うだろうか。
いやこれは、私の言葉なのではないのか。

次にもしもこの街に来ることがあるとして、私はあの曼荼羅を買うだろうか。いや、やはり買わないだろう。
だが、もしも再びGに巡り会うことがあったら…、私はやはり彼の言葉に耳を傾けるのではないか。嘘と真実の混じり合ったその言葉を聞きながら、分け与えることの意味を、なお考えるのではないか。

カトマンズのたそがれの中で、私はなお道に迷いそうになる。

「なんで、どうやって私は「英語でも」研究をするようになったのか」

シュミット 堀 佐知さん編集の『なんで日本研究するの?』(文学通信)に、私もエッセイを書かせていただきました。題して「なんで、どうやって私は「英語でも」研究をするようになったのか」。

大学院を出たころから、英語で日本文学研究を行う学問世界のことが気になって、試行錯誤したこと、考えたことを振り返ったものです。単なる思い出話でしかない、という気もしますが、なにかのヒントになれば幸いです。

本はまだ手元に届いていないので、私自身も全体像は分かっていません。
が、目次をみれば、刺激的で、挑発的で、そして我々を考えさせるような一冊になっていると思います。
ぜひ手に取っていただければ幸いです。

bungaku-report.com

【英文文献編】続・Chat-GPT3 に文献目録を整えてもらった話:Chicago Manual, MLA, APA...

昨日、エクセルで管理している文献リストを、論文末の参考文献一覧的なスタイルに Chat-GPTに直してもらった話を書いた。
それを Facebookでシェアしたところ、MLA 準拠の文献一覧を、Chicago Manual 方式に変換とかできるのでしょうか、という質問をいただいた。
結論から書きますと、できました。ただ、いくつかの工夫が必要でした。つまづきになった原因を列挙すると:

  1. 斜体 italicsの処理が思うように行かない
  2. スタイルAからスタイルBの変換が上手くいったとしても、同じ命令文を使って逆向き(BからA)がうまくいかないことがある
  3. そもそも変換をしないことがある

などでした。これらを、
2,3については、 命令文を変えてみる(詳しくする、省略する、別の言い方にする、日/英語を切り替える)ことによって反応を見ながらクリアしました。
1については、markdownを使え、と指示することによってクリアできました。以下のサイトに方法が書いてありました。
me.linkedin.com

成功したパターンの命令文とその結果を以下に貼り付けておきます。
なお、それぞれの書式スタイルには完全に一致していないようです。人の最終チェックが必要です。
「まあ省力にはなるな」ぐらいの気持ちでご覧/お使い下さい。

MLA styleからChicago Manual styleへ

Chat-GPTへの命令文は以下の通り。なお、日本語でやっても表現次第ではうまくいきます。

Here is the reference list [rl] written according to MLA.
Convert it to the Chicago Manual.
For the following, write in italics: *book titles*, *journal titles*, *newspaper titles*.
Use markdown:
italics: *italicized text*


[bib]
Baron, Dennis. What’s Your Pronoun? Beyond He & She. Liveright, 2020.
Bausch, Richard, and R. V. Cassill, editors. The Norton Anthology of Short Fiction. 8th ed., W.W. Norton, 2015.
Woolf, Virginia. “Kew Gardens.” The Norton Anthology of Short Fiction, edited by Richard Bausch and R. V. Cassill, 8th ed., W.W. Norton, 2015, pp. 43-62.
Ioannidou, Elena. “Greek in Enclave Communities: Language Maintenance of the Varieties of Cypriot Romeika in Cyprus and Cretan Greek in Cunda, Turkey.” Mediterranean Language Review, vol. 26, 2019, pp. 157-186. JSTOR, www.jstor.org/stable/10.13173/medilangrevi.26.2019.0157.
Brundan, Katy. “What We Can Learn From the Philologist in Fiction.” Criticism, vol. 61, no. 3, summer 2019, pp. 285-310.
Larry, Gordon. “Sending Mom and Dad Off to College for the Day.” Los Angeles Times, 11 Feb. 2020, pp. B1-B2.

上記では[bib]の下に、手で(コピペで)文献リストを貼り付けています(貼り付けるので、本来あったイタリックが消えています。)。全体をChat-GPTのダイアログ・ボックスに渡します。
結果は以下。

出版地がない(元データにないので当たり前)など不備はあるようですが、実用に耐えそうな感じでしょうか。

MLA styleからChicago Manual の Author-Date 形式へ

命令文は以下。太字の部分だけが変わっています。

Here is the bibliography [bib] written according to MLA.
Convert it to the Chicago Manual Author-Date style.
For the following, write in italics: *book titles*, *journal titles*, *newspaper titles*.
Use markdown:
italics: *italicized text*


[bib]
Baron, Dennis. What’s Your Pronoun? Beyond He & She. Liveright, 2020.
Bausch, Richard, and R. V. Cassill, editors. The Norton Anthology of Short Fiction. 8th ed., W.W. Norton, 2015.
Woolf, Virginia. “Kew Gardens.” The Norton Anthology of Short Fiction, edited by Richard Bausch and R. V. Cassill, 8th ed., W.W. Norton, 2015, pp. 43-62.
Ioannidou, Elena. “Greek in Enclave Communities: Language Maintenance of the Varieties of Cypriot Romeika in Cyprus and Cretan Greek in Cunda, Turkey.” Mediterranean Language Review, vol. 26, 2019, pp. 157-186. JSTOR, www.jstor.org/stable/10.13173/medilangrevi.26.2019.0157.
Brundan, Katy. “What We Can Learn From the Philologist in Fiction.” Criticism, vol. 61, no. 3, summer 2019, pp. 285-310.
Larry, Gordon. “Sending Mom and Dad Off to College for the Day.” Los Angeles Times, 11 Feb. 2020, pp. B1-B2.

結果は以下の通り。

Chicago Manual から MLA

命令文は以下。

Here is the bibliography [bib2] written according to the Chicago Manual.
Convert it to MLA.


[bib2]
Smith, Zadie. Swing Time. New York: Penguin Press, 2016.

Thoreau, Henry David. “Walking.” In The Making of the American Essay, edited by John D’Agata, 167–95. Minneapolis: Graywolf Press, 2016.

Satterfield, Susan. “Livy and the Pax Deum.” Classical Philology 111, no. 2 (April 2016): 165–76.

Manjoo, Farhad. “Snap Makes a Bet on the Cultural Supremacy of the Camera.” New York Times,
March 8, 2017. https://www.nytimes.com/2017/03/08/technology/snap-makes-a-bet-on-the-cultural-supremacy-of-the-camera.html.

命令が簡単になっています。なぜか、逆向きの時と同じ命令文だとうまくいきませんでした。理由は不明。
結果はおおむね良いようです。


Chicago Manual から APA

最後はAPA。命令文は以下。

だいたい、いいのではないでしょうか。

いったんうまくいかない場合でも、命令文を工夫することで乗り切れるようです。(手でやった方が早いんじゃ?というツッコミは御法度)

Chat-GPT3に文献目録を整えてもらった話

Chat-GPT3が話題になり始めたとき、シラバスを書かせてみたり、文学者クイズを答えさせてみたりして、すごいなぁ、けどまあ仕事には使えんな、と思っていたのだけれど、最近認識を改めつつある。こやつ、助手として、ものすごく優秀だ。

たとえば今日は、参考文献リストをフォーマットAからフォーマットBに書き直してもらった。

研究をしていたり、大学教員の就職活動をしていたりすると、参考文献リストや自分の業績リストを、フォーマット甲からフォーマット乙に書き換えなければならない、ということがしばしばある。そしてこれは、以外にめんどいのだ。

今日、Chat-GPTに手伝ったもらったのは以下のような作業だった。

エクセルで管理していた文献リストAがある。

文献リストA(部分)

これを、

工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2011)「村上春樹の『1Q84』における因子分析を用いたチャプターの特徴と共起ネットワーク」『じんもんこん2011論文集』

みたいに直したい、というわけである。よくありますわね。
数件ならコピペして手で直していった方が結局早いのだけれど、数が多いと嫌になる。

そこで、おお、こういうのこそ、Chat-GPTの出番じゃないのかと思ったのである。
それで、以下のようにお願いしてみた。
【表】の本体部分は、エクセルの表をそのままコピーしてChat-GPTのダイアログ・ボックスに貼り付けている。

【表】として与えるデータのリストを、指示する書式に書き換えて下さい。


条件:
【表】は、タブ記号でデータごとに区切られています。
【表】の一行目がデータの項目名です。


【表】の二行目以降に含まれる各データを、以下の書式に並べ直して下さい。
著者(出版年)「題名」『雑誌名』巻号


【表】のデータは次のとおりです。
著者 題名 雑誌名 巻号 出版年
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 村上春樹の『1Q84』における因子分析を用いたチャプターの特徴と共起ネットワーク じんもんこん2011論文集 2011
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 小説の進行を特徴づける指標としての動詞生起頻度 情報知識学会誌 21(2) 2011
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 村上春樹の計量的変遷と共時的フィクションの語彙形成 じんもんこん2010論文集 2010
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 計量分析による村上春樹文学の語彙構成と歴史的変遷 情報知識学会誌 20(2) 2010
佐藤 知恵 , 村井 源 , 徃住 彰文 文学作品群の特徴的語彙と概念カテゴリーの抽出 : 星新一ショートショートの計量分析 情報知識学会誌 19(2) 2009
劉宇婷 文化としての「桜桃忌」と新聞の関連報道 日本研究 57 2018


以上です。
では始めて下さい。

お答えは、以下だった。

工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2011)「村上春樹の『1Q84』における因子分析を用いたチャプターの特徴と共起ネットワーク」『じんもんこん2011論文集』
工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2011)「小説の進行を特徴づける指標としての動詞生起頻度」『情報知識学会誌』21(2)
工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2010)「村上春樹の計量的変遷と共時的フィクションの語彙形成」『じんもんこん2010論文集』
工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2010)「計量分析による村上春樹文学の語彙構成と歴史的変遷」『情報知識学会誌』20(2)
佐藤 知恵, 村井 源, 徃住 彰文(2009)「文学作品群の特徴的語彙と概念カテゴリーの抽出 : 星新一ショートショートの計量分析」『情報知識学会誌』19(2)
劉宇婷(2018)「文化としての「桜桃忌」と新聞の関連報道」『日本研究』57

ばっちりだ。(追加で、半角の空白消してね、とかも余裕でやってくれるだろう)

これ、プログラミングのコードを書くのが得意な人は、ささっと書けるのだろうけど、私は正規表現とかで試行錯誤するのがオチ。
Chat-GPTなら日本語でお願いできるし、失敗命令を修正するのも簡単だし、楽すぎる。

ありがたい時代になったものだ。

ちなみにみなさんは、Chat-GPTにタメ口で命令していますか。私は気が小さいので、丁寧語です。なんなら「始めて下さい。お願いします」まであります。

(ちな、このあと頁数も付けてますから突っ込まないでね)

お礼と紹介:小松靖彦著『戦争下の文学者たち 『萬葉集』と生きた歌人・詩人・小説家』

歴史上、『万葉集』がもっとも政治的・社会的影響力をもったのは、日中戦争・太平洋戦争の時代だった、と著者はいう(286)。万葉学史の専門家でもある小松さんの言である。小松さんは、2016年から「戦争と萬葉集研究会」を立ち上げ、この歌集が戦争に向かう社会の中でどのように読まれ、用いられてきたのかを追究してきた。

小松靖彦『戦争下の文学者たち 『萬葉集』と生きた歌人・詩人・小説家』花鳥社2021.11

本書は、その小松さんの一連の成果をまとめたもの。与謝野晶子、齋藤瀏、半田良平、今井邦子、北園克衛、高木卓ら、6名の文学者たちが取り上げられ、彼らがいかにして「愛国」「報国」へと転換していったのかが克明に追いかけられる。
たとえば、「君死にたまふことなかれ」と明治に歌った与謝野晶子が、いかにして戦時中に「愛国短歌」を詠むに至ったのか。変わっていく世情と雰囲気のなか、文学者たちも敏感にそれに反応していく。そのとき彼らが向かったものの一つが、『万葉集』だった。『万葉集』はこの時代、古いゲマインシャフト(地縁・血縁など自発的自然的な共同体)へ復帰しようとする「非合理的切望」の受け皿となったと小松さんは指摘している(18)。

挙国して戦争へ向かう空気の中で、それに抗うのは容易ではない。その感覚、その恐ろしさは、現代に生きる私たちもわずかながら感知しているはずだ。小松さんの原動力には、「戦争は今もなお続いている」という考えがあるという。そう考える時、70年前、文学者たちが時代にどう飲み込まれたのか、という問いは歴史の問いではなくなる。

専門的な知見、情報が多く含まれた本ですが、丁寧に語句や周辺状況の説明が加えられているので、読みやすい文章になっています。専門家以外でも、ぜんぜん読めます。おすすめ!
頂戴してから一年近く経ってしまいました。学恩に感謝申し上げます。

紹介と感想  川口隆行『広島 抗いの詩学 原爆文学と戦後文化運動』琥珀書房2022

www.hanmoto.com

近年出た近代文学、戦後文化史関係の研究書では、最良の成果の一つだと思う。近代文学研究の現在の議論の水準、関心の持ち方がどのあたりにあるのか。隣接分野の方にも、この分野の大学院生たちにも、テーマの遠近を問わず読んで欲しい。

内容は、『われらの詩』『われらのうた』などの被爆地広島のサークル詩誌、峠三吉の『原爆詩集』、四國五郎の辻詩、在日朝鮮人たちの文芸誌『ヂンダレ』、沖縄の『流大文学』、山代巴の小説と朝鮮戦争被爆者支援運動と手記集、大田洋子の『夕凪の町と人と』についての論。さまざまな話題が並ぶが、読後の感想は「いろいろ論じた」というバラバラ感とは逆だ。それは川口さんの持っている強靱な問題意識が、全体の議論を貫いているからだろう。

川口さんは、あとがきでこう言っている。「原爆文学とは、一九四五年八月の惨劇とそれに続く現代という時代に向き合うために、先人たちが発見した世界認識の方法をめぐる仮構意識なのだ」。川口さんは、過去の経験とその表象を論じながら、それを常に「現代という時代に向き合」わせようとする。

そしてその回路として、原爆を描き、経験を語った、詩や小説や手記を分析する。その言葉の襞と、亀裂と、沈黙に、耳を傾け、吟味する。「世界認識の方法をめぐる仮構意識」という言葉で彼が言おうとしたことは、文学研究のそうした姿勢と方法のことだと私は理解した。

その論に導かれながら、私たちは加害と被害の入りくんだようすを知り、当事者概念を揺さぶられ、難民や動物を起点に現代ののっぺりした人間理解や口当たりのいい平和語りを再考するよう導かれていく。

前著『原爆文学という問題領域』から一四年。視野と知識がさらに広く深くなり、表現の読みこみは切れ味をました。そして押さえられてはいるが、川口さんという人間の感受性や問題関心についての自己投企の深さが、論述の背後に横たわっていると感じる。川口隆行という研究者の成熟と到達だろう。

同世代の研究者として、こういう人がいることはとてもうれしいことだが、まあ、、、くそう負けてたまるかと思うよね(笑)