日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

カトマンズ、たそがれ小路

仕事を終えた最終日、飛行機の出発まで時間があったので、土産物買いのついでにカトマンズの路地を歩いた。

R広場を目指していけばよいだろう、と大体の目星をつけて歩き出す。ぶらぶら歩きながら、店先を冷やかし、時々中に入ってみたり、値段を聞いてみたりしながらゆっくり進む。

道は、ホテルに近い観光客向けの、ネオンがあるような比較的整った街並みから、次第に古びた建物が密集する地区へと変わり、細かい路地が入り組むようになり、道幅もせまくなっていく。行きかう人々の密度も増し、埃が舞い上がり、バイクや、時に小さなタクシーまでもが侵入してクラクションを鳴らし、排気ガスをまき散らしながら人々を押しのけていく。Gは、こうした街の喧騒を指して、「これがカトマンズだよ」と私に言ったものだ。

カトマンズ中心部の広場や道筋には、本当に数多くの寺や塔、像といった宗教に関係する建築物や設置物が置かれている。大小さまざまのそうした建物や石像などに目を向けながら、私は同便に乗る予定のMと同行して歩いていた。私たちは、土産を探しながら、あわせてネパールの仏教寺院も見てみたいと考えていた。

スマートフォンを出して地図を見ながら、Mと一緒に道筋を相談していると、声をかけてきた男性がいた。それがGだった。

四、五十代に見える彼はさほど大柄ではないが、恰幅のよい体つきで、にこやかでエネルギッシュな雰囲気だった。「どこに行こうとしてるんだ」と聞くので、仏教の寺院を見てみたいと思って今行き先を探していると返事をした。「だったらこっちだ」と彼は応え、「案内してやるからついてこい」と言って歩き出した。
流暢な英語を話し、彼はときに日本語さえ混ぜた。こんにちは、ありがとう、とうきょう、きょうと、そんな言葉を交えながら、にこやかに、能弁に話した。

「自分はこの先の学校で先生をしているんだ」と言いながら、彼は歩いた。君らはいつまでカトマンズにいるんだ、何をしに来たんだ、そんなことを会話しながら進んでいくと、彼はふいに「こっちだ」と言って路地に入った。

私とMの2人だけでは、絶対に入っていかないような狭い路地だった、こんなところに寺?と思いながらついていくと、彼はさらに進んで建物の壁に空いた入り口に入った。続いて入ってみると、そこには中庭が開けており、その中庭全体が礼拝の施設となっていた。

Gは壁一面に埋め込まれた様々な像や装飾を指し、「これがヒンドゥーの寺の様式だ」と言いながらその細部について説明した。
そして手前の広場中央に近い祭壇を指し、「これが仏教のものだ」と彼は言って、さらにそれを細かく解説してくれた。

カトマンズではヒンドゥー教と仏教とがとても近い」と言いながら、彼はその2つが様々なものを共有していることを説明してくれた。
そしてさらに仏教について説明を続け、「カトマンズでは仏教は宗教ではない。それはある種の生き方であり、生活の仕方であり、考え方なんだ」と、そんなことを言った。

買い物の前に私たちはもう一つ別の大きな宗教施設も訪問していた。
そこでも、自分はヒンドゥー教徒だと言う1人の男性に、私たちは同じような説明を受けていた。ネパールでは、仏教は宗教ではない。それは人々の生活のあり方そのものなのだ、ということだった。輪廻や死生観のことを、彼は説いていた。

中庭の寺院での説明を終えると、Gはさらに我々を案内し続けた。寺だけではなく、彼は様々な地元の建物についても語ってくれた。この寺塔の壁面にはカーマスートラが掘り込んであるから見てみるといいとか、これが2015年のカトマンズの大地震でも崩れなかったこのあたりで最も古い建物だとか、そんなこと言いながら、いくつもの建物や寺を説明してくれた。「この崩れた建物の下で、10人が亡くなったんだ」とも彼は言った。
彼自身、大地震の被災者だったとも語った。「店も建物も失ったが、私は幸せだった。だって家族はみんな生き残ったからね」と彼は私に笑顔を向けながら言った。

地震より以前、別の地域からカトマンズに移り住んで、いまは仏教に関わる教師をしている、と自己紹介する彼の知識は、実際豊富だった。行く先々の寺院で礼拝を行い、身体の3つの「チャクラ」の前で印を結んで発声をし、3度の礼拝を繰り返す、そんな祈りの作法まで教えてくれた。
彼は歩きながら、輪廻転生のこと、物事が全部流転していくこと、分け与えることが大事であることを話し続けた。

また「教育は大事だ」と言いながら、「日本ではどれぐらいの子供たちが学校に行くんだ?」ともGは聞いた。小学校や中学校に関してはほとんど100%に近い、と私は答えた。「素晴らしい」と彼はいい、「ここではそうではない。60%ほどの子供たちしか学校に行かないのだ」と彼は説明した。「あなたは自分が幸せな国に生まれたのだということを理解しないといけないよ」と彼は言った。私はその通りだと思い、彼にそう答えた。

「だから私は教育はすごく大事だと思っている」とGは繰り返した。「だから自分は子供たちに教えているんだ。」

教えることと、与えること。
自分が幸せにな国に生まれ、取り立てて文句のない生活をしていること。
そんなことを考えながら、私はカトマンズの雑踏の中を歩いた。
道路はところどころめくれ上がり、建物はしばしば崩れたままになり、掘り起こされ地下水が染み出したところで、女性たちがしゃがみ込んで洗濯をしていた。

「特に女の子たちに勉強を教えるのが大事だ、と自分は思っている」とGは言った。「ここでは、女の子たちはしばしば売られてしまうのだから」と彼は説明した。

信心深く、にこやかで、見ず知らずの私たちにも何かを分け与えようとしてくれているこのカトマンズの男。

打ち明ければ、私はほとんど感動に近いものを感じていた。Gは、「僕はガイドをやっているのじゃないから、お金は要らないよ」と笑っていた。

かなり歩いた頃、Gは「着いたよ」と言いながら、小さな広場の横に立つ建物を指して、その中庭に入っていった。左手の建物を指さし、「こっち側が地震で崩れた元の学校」、そして180度くるりと振り返り、「こっちが新しい学校だ」と言った。「Harmony Handicraft House」という洒落た看板が、そこにはついていた。

何かが私の中で引っかかった。子供たちの「学校school」ではなかったのか?

彼は扉をくぐり、そこにいた2人の若者に私たちを紹介した。1人は西洋人の女性のように見え、彼女は地面に座って曼荼羅のようなものを書いていた。
部屋は意外なほどに小綺麗だったが、狭い。床にしゃがんで曼荼羅を書く女性の反対側に、大きなカウンターのような机があり、壁には曼荼羅が飾ってあった。カウンターの向こうには、巻いた大きな紙、おそらくは曼荼羅のポスターが、床から立ち上がるケースに入れてあった。疑念が、もやのように広がってくる。

それでもまだGは、机の上に取り出してきた曼荼羅を広げ、細かくそのデザインの意味について解説してくれた。その説明は詳しく専門的なものだったが、私は次第にその彼の英語が聞き取れなくなっていった。

この状況が、うまく飲み込めない。Gはいまなお仏教の思想を熱心に説き続けているが、おそらくは間違いなくその同じ口で、私にこれを買うように促し始めるだろう。

彼は若者たちの一人に声をかけ、「お茶を入れてくれないか」と言った。そして私たちにブラックティーがいいか、マサラティーがいいかと聞き、「これがもてなしのやり方なんだ、私たちの」と微笑んで付け加える。

私はすでに半分以上、そのお茶を、彼の心からの心遣いだとは思えなくなりつつあった。
ちらりと隣のMの顔を見る。やはり表情がこわばっているように見える。
頭の中でさらに疑念が駆け巡り始める。

この部屋に至るまでの半刻を超える彼の行為や解説は、すべてこの曼荼羅を買わせるための布石だったのではないのか。
疑念は加速する。もうすぐ出てくるだろうお茶を、私たちは飲んで良いだろうか。お茶は私たちを引き止めさせるためのものであり、私たちの心と体をこの場に縛り付けるためのものであることはもはや間違いない。
だが、もっと疑えば、そこに何も入っていない、ということが確かに言えるだろうか──そんなことさえ私は考え始めた。

彼が絵を取り替えるその間を見て、私はMに、「お茶を飲むのはやめましょう」と早口の日本語で言った。出てきたお茶は飲まないほうがいい、という意味のつもりだった。けれどMはその私の発言を聞いて、もう帰りましょうの意味だと取り、「そろそろ帰らないとね」と答えた。私ももう潮時だと思った。

彼は我々のその日本語のやりとりを理解してかどうか、ついに「この曼荼羅を買ってもらうことがこの学校への寄付につながるんだ」といった。彼の説明はまだ一貫していた。彼が学校で教えていること、私たちを支援して欲しいこと、曼荼羅を買うことがそれにつながること。

帰らなければならない。
この曼荼羅を買う気はもうない。

私は財布から日本の1000円札を出した。そして、これをこの「学校school」に寄付します、と言った。「これは私たちの気持ちです。この学校のために私たちはこれを置いていきます。」
彼は怪訝な顔をした。自分の計画が失敗したことを悟ったのかもしれない。

彼に1000円を受け取らせると、私とMは外に出た。
明るい日差しの下で、Gにお礼を言い、本当に素晴らしい体験だったと私は握手をした。そして別れを告げた。

助かった、という安堵とともに、Gに背を向けて歩き出す。どこをどう歩いてここにやってきたのか完全にわからなくなっていたので、GPSで自分の位置を確かめる。自分が、まだ動揺しているのを感じる。

動揺。初めて訪問する南アジアの街で、自分が手の込んだやり方で、おそらく法外な値段の何かを売りつけられようとしていたことに対する動揺。それはそうだ。

いやしかし、とスマートフォンの地図の上で青く光る自分の位置を見つめながら、自問自答する。教育は大事だと言い、分け与えることがたいせつだ、と言ったGの顔と言葉が蘇る。
彼が説いた言葉は、すべて嘘っぱちだったのだろうか。

日は、ゆっくりと傾きつつあった。
私は、カトマンズで出会ったG…と名乗る男のことを考え続ける。
私には彼が100%の詐欺師だとは思えなかった。彼とともに私とMはいくつもの寺院を礼拝した。彼は建築を説き、図像を説き、思想を説いた。礼拝の手順を教え、私とMの額に赤い印を施し、幸運を祈ってくれた。
日本の教育の現状を褒め、ネパールの状況を憂い、女の子どもたちが売られる現状を訴えた。

それに共感し、寄付をする観光客がいたとして、何が不思議なのか。
そのほとんどか富める国から来た彼らが、その富の一部を曼荼羅のポスターと交換し、宗教的な理念を示しながら活動する「クラフト・ハウス」を支えたとして、何が悪い。
分け与えよ。
富はめぐるべきなのだ。

Gは、そう言うだろうか。
いやこれは、私の言葉なのではないのか。

次にもしもこの街に来ることがあるとして、私はあの曼荼羅を買うだろうか。いや、やはり買わないだろう。
だが、もしも再びGに巡り会うことがあったら…、私はやはり彼の言葉に耳を傾けるのではないか。嘘と真実の混じり合ったその言葉を聞きながら、分け与えることの意味を、なお考えるのではないか。

カトマンズのたそがれの中で、私はなお道に迷いそうになる。

「なんで、どうやって私は「英語でも」研究をするようになったのか」

シュミット 堀 佐知さん編集の『なんで日本研究するの?』(文学通信)に、私もエッセイを書かせていただきました。題して「なんで、どうやって私は「英語でも」研究をするようになったのか」。

大学院を出たころから、英語で日本文学研究を行う学問世界のことが気になって、試行錯誤したこと、考えたことを振り返ったものです。単なる思い出話でしかない、という気もしますが、なにかのヒントになれば幸いです。

本はまだ手元に届いていないので、私自身も全体像は分かっていません。
が、目次をみれば、刺激的で、挑発的で、そして我々を考えさせるような一冊になっていると思います。
ぜひ手に取っていただければ幸いです。

bungaku-report.com

【英文文献編】続・Chat-GPT3 に文献目録を整えてもらった話:Chicago Manual, MLA, APA...

昨日、エクセルで管理している文献リストを、論文末の参考文献一覧的なスタイルに Chat-GPTに直してもらった話を書いた。
それを Facebookでシェアしたところ、MLA 準拠の文献一覧を、Chicago Manual 方式に変換とかできるのでしょうか、という質問をいただいた。
結論から書きますと、できました。ただ、いくつかの工夫が必要でした。つまづきになった原因を列挙すると:

  1. 斜体 italicsの処理が思うように行かない
  2. スタイルAからスタイルBの変換が上手くいったとしても、同じ命令文を使って逆向き(BからA)がうまくいかないことがある
  3. そもそも変換をしないことがある

などでした。これらを、
2,3については、 命令文を変えてみる(詳しくする、省略する、別の言い方にする、日/英語を切り替える)ことによって反応を見ながらクリアしました。
1については、markdownを使え、と指示することによってクリアできました。以下のサイトに方法が書いてありました。
me.linkedin.com

成功したパターンの命令文とその結果を以下に貼り付けておきます。
なお、それぞれの書式スタイルには完全に一致していないようです。人の最終チェックが必要です。
「まあ省力にはなるな」ぐらいの気持ちでご覧/お使い下さい。

MLA styleからChicago Manual styleへ

Chat-GPTへの命令文は以下の通り。なお、日本語でやっても表現次第ではうまくいきます。

Here is the reference list [rl] written according to MLA.
Convert it to the Chicago Manual.
For the following, write in italics: *book titles*, *journal titles*, *newspaper titles*.
Use markdown:
italics: *italicized text*


[bib]
Baron, Dennis. What’s Your Pronoun? Beyond He & She. Liveright, 2020.
Bausch, Richard, and R. V. Cassill, editors. The Norton Anthology of Short Fiction. 8th ed., W.W. Norton, 2015.
Woolf, Virginia. “Kew Gardens.” The Norton Anthology of Short Fiction, edited by Richard Bausch and R. V. Cassill, 8th ed., W.W. Norton, 2015, pp. 43-62.
Ioannidou, Elena. “Greek in Enclave Communities: Language Maintenance of the Varieties of Cypriot Romeika in Cyprus and Cretan Greek in Cunda, Turkey.” Mediterranean Language Review, vol. 26, 2019, pp. 157-186. JSTOR, www.jstor.org/stable/10.13173/medilangrevi.26.2019.0157.
Brundan, Katy. “What We Can Learn From the Philologist in Fiction.” Criticism, vol. 61, no. 3, summer 2019, pp. 285-310.
Larry, Gordon. “Sending Mom and Dad Off to College for the Day.” Los Angeles Times, 11 Feb. 2020, pp. B1-B2.

上記では[bib]の下に、手で(コピペで)文献リストを貼り付けています(貼り付けるので、本来あったイタリックが消えています。)。全体をChat-GPTのダイアログ・ボックスに渡します。
結果は以下。

出版地がない(元データにないので当たり前)など不備はあるようですが、実用に耐えそうな感じでしょうか。

MLA styleからChicago Manual の Author-Date 形式へ

命令文は以下。太字の部分だけが変わっています。

Here is the bibliography [bib] written according to MLA.
Convert it to the Chicago Manual Author-Date style.
For the following, write in italics: *book titles*, *journal titles*, *newspaper titles*.
Use markdown:
italics: *italicized text*


[bib]
Baron, Dennis. What’s Your Pronoun? Beyond He & She. Liveright, 2020.
Bausch, Richard, and R. V. Cassill, editors. The Norton Anthology of Short Fiction. 8th ed., W.W. Norton, 2015.
Woolf, Virginia. “Kew Gardens.” The Norton Anthology of Short Fiction, edited by Richard Bausch and R. V. Cassill, 8th ed., W.W. Norton, 2015, pp. 43-62.
Ioannidou, Elena. “Greek in Enclave Communities: Language Maintenance of the Varieties of Cypriot Romeika in Cyprus and Cretan Greek in Cunda, Turkey.” Mediterranean Language Review, vol. 26, 2019, pp. 157-186. JSTOR, www.jstor.org/stable/10.13173/medilangrevi.26.2019.0157.
Brundan, Katy. “What We Can Learn From the Philologist in Fiction.” Criticism, vol. 61, no. 3, summer 2019, pp. 285-310.
Larry, Gordon. “Sending Mom and Dad Off to College for the Day.” Los Angeles Times, 11 Feb. 2020, pp. B1-B2.

結果は以下の通り。

Chicago Manual から MLA

命令文は以下。

Here is the bibliography [bib2] written according to the Chicago Manual.
Convert it to MLA.


[bib2]
Smith, Zadie. Swing Time. New York: Penguin Press, 2016.

Thoreau, Henry David. “Walking.” In The Making of the American Essay, edited by John D’Agata, 167–95. Minneapolis: Graywolf Press, 2016.

Satterfield, Susan. “Livy and the Pax Deum.” Classical Philology 111, no. 2 (April 2016): 165–76.

Manjoo, Farhad. “Snap Makes a Bet on the Cultural Supremacy of the Camera.” New York Times,
March 8, 2017. https://www.nytimes.com/2017/03/08/technology/snap-makes-a-bet-on-the-cultural-supremacy-of-the-camera.html.

命令が簡単になっています。なぜか、逆向きの時と同じ命令文だとうまくいきませんでした。理由は不明。
結果はおおむね良いようです。


Chicago Manual から APA

最後はAPA。命令文は以下。

だいたい、いいのではないでしょうか。

いったんうまくいかない場合でも、命令文を工夫することで乗り切れるようです。(手でやった方が早いんじゃ?というツッコミは御法度)

Chat-GPT3に文献目録を整えてもらった話

Chat-GPT3が話題になり始めたとき、シラバスを書かせてみたり、文学者クイズを答えさせてみたりして、すごいなぁ、けどまあ仕事には使えんな、と思っていたのだけれど、最近認識を改めつつある。こやつ、助手として、ものすごく優秀だ。

たとえば今日は、参考文献リストをフォーマットAからフォーマットBに書き直してもらった。

研究をしていたり、大学教員の就職活動をしていたりすると、参考文献リストや自分の業績リストを、フォーマット甲からフォーマット乙に書き換えなければならない、ということがしばしばある。そしてこれは、以外にめんどいのだ。

今日、Chat-GPTに手伝ったもらったのは以下のような作業だった。

エクセルで管理していた文献リストAがある。

文献リストA(部分)

これを、

工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2011)「村上春樹の『1Q84』における因子分析を用いたチャプターの特徴と共起ネットワーク」『じんもんこん2011論文集』

みたいに直したい、というわけである。よくありますわね。
数件ならコピペして手で直していった方が結局早いのだけれど、数が多いと嫌になる。

そこで、おお、こういうのこそ、Chat-GPTの出番じゃないのかと思ったのである。
それで、以下のようにお願いしてみた。
【表】の本体部分は、エクセルの表をそのままコピーしてChat-GPTのダイアログ・ボックスに貼り付けている。

【表】として与えるデータのリストを、指示する書式に書き換えて下さい。


条件:
【表】は、タブ記号でデータごとに区切られています。
【表】の一行目がデータの項目名です。


【表】の二行目以降に含まれる各データを、以下の書式に並べ直して下さい。
著者(出版年)「題名」『雑誌名』巻号


【表】のデータは次のとおりです。
著者 題名 雑誌名 巻号 出版年
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 村上春樹の『1Q84』における因子分析を用いたチャプターの特徴と共起ネットワーク じんもんこん2011論文集 2011
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 小説の進行を特徴づける指標としての動詞生起頻度 情報知識学会誌 21(2) 2011
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 村上春樹の計量的変遷と共時的フィクションの語彙形成 じんもんこん2010論文集 2010
工藤 彰 , 村井 源 , 徃住 彰文 計量分析による村上春樹文学の語彙構成と歴史的変遷 情報知識学会誌 20(2) 2010
佐藤 知恵 , 村井 源 , 徃住 彰文 文学作品群の特徴的語彙と概念カテゴリーの抽出 : 星新一ショートショートの計量分析 情報知識学会誌 19(2) 2009
劉宇婷 文化としての「桜桃忌」と新聞の関連報道 日本研究 57 2018


以上です。
では始めて下さい。

お答えは、以下だった。

工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2011)「村上春樹の『1Q84』における因子分析を用いたチャプターの特徴と共起ネットワーク」『じんもんこん2011論文集』
工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2011)「小説の進行を特徴づける指標としての動詞生起頻度」『情報知識学会誌』21(2)
工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2010)「村上春樹の計量的変遷と共時的フィクションの語彙形成」『じんもんこん2010論文集』
工藤 彰, 村井 源, 徃住 彰文(2010)「計量分析による村上春樹文学の語彙構成と歴史的変遷」『情報知識学会誌』20(2)
佐藤 知恵, 村井 源, 徃住 彰文(2009)「文学作品群の特徴的語彙と概念カテゴリーの抽出 : 星新一ショートショートの計量分析」『情報知識学会誌』19(2)
劉宇婷(2018)「文化としての「桜桃忌」と新聞の関連報道」『日本研究』57

ばっちりだ。(追加で、半角の空白消してね、とかも余裕でやってくれるだろう)

これ、プログラミングのコードを書くのが得意な人は、ささっと書けるのだろうけど、私は正規表現とかで試行錯誤するのがオチ。
Chat-GPTなら日本語でお願いできるし、失敗命令を修正するのも簡単だし、楽すぎる。

ありがたい時代になったものだ。

ちなみにみなさんは、Chat-GPTにタメ口で命令していますか。私は気が小さいので、丁寧語です。なんなら「始めて下さい。お願いします」まであります。

(ちな、このあと頁数も付けてますから突っ込まないでね)

お礼と紹介:小松靖彦著『戦争下の文学者たち 『萬葉集』と生きた歌人・詩人・小説家』

歴史上、『万葉集』がもっとも政治的・社会的影響力をもったのは、日中戦争・太平洋戦争の時代だった、と著者はいう(286)。万葉学史の専門家でもある小松さんの言である。小松さんは、2016年から「戦争と萬葉集研究会」を立ち上げ、この歌集が戦争に向かう社会の中でどのように読まれ、用いられてきたのかを追究してきた。

小松靖彦『戦争下の文学者たち 『萬葉集』と生きた歌人・詩人・小説家』花鳥社2021.11

本書は、その小松さんの一連の成果をまとめたもの。与謝野晶子、齋藤瀏、半田良平、今井邦子、北園克衛、高木卓ら、6名の文学者たちが取り上げられ、彼らがいかにして「愛国」「報国」へと転換していったのかが克明に追いかけられる。
たとえば、「君死にたまふことなかれ」と明治に歌った与謝野晶子が、いかにして戦時中に「愛国短歌」を詠むに至ったのか。変わっていく世情と雰囲気のなか、文学者たちも敏感にそれに反応していく。そのとき彼らが向かったものの一つが、『万葉集』だった。『万葉集』はこの時代、古いゲマインシャフト(地縁・血縁など自発的自然的な共同体)へ復帰しようとする「非合理的切望」の受け皿となったと小松さんは指摘している(18)。

挙国して戦争へ向かう空気の中で、それに抗うのは容易ではない。その感覚、その恐ろしさは、現代に生きる私たちもわずかながら感知しているはずだ。小松さんの原動力には、「戦争は今もなお続いている」という考えがあるという。そう考える時、70年前、文学者たちが時代にどう飲み込まれたのか、という問いは歴史の問いではなくなる。

専門的な知見、情報が多く含まれた本ですが、丁寧に語句や周辺状況の説明が加えられているので、読みやすい文章になっています。専門家以外でも、ぜんぜん読めます。おすすめ!
頂戴してから一年近く経ってしまいました。学恩に感謝申し上げます。

紹介と感想  川口隆行『広島 抗いの詩学 原爆文学と戦後文化運動』琥珀書房2022

www.hanmoto.com

近年出た近代文学、戦後文化史関係の研究書では、最良の成果の一つだと思う。近代文学研究の現在の議論の水準、関心の持ち方がどのあたりにあるのか。隣接分野の方にも、この分野の大学院生たちにも、テーマの遠近を問わず読んで欲しい。

内容は、『われらの詩』『われらのうた』などの被爆地広島のサークル詩誌、峠三吉の『原爆詩集』、四國五郎の辻詩、在日朝鮮人たちの文芸誌『ヂンダレ』、沖縄の『流大文学』、山代巴の小説と朝鮮戦争被爆者支援運動と手記集、大田洋子の『夕凪の町と人と』についての論。さまざまな話題が並ぶが、読後の感想は「いろいろ論じた」というバラバラ感とは逆だ。それは川口さんの持っている強靱な問題意識が、全体の議論を貫いているからだろう。

川口さんは、あとがきでこう言っている。「原爆文学とは、一九四五年八月の惨劇とそれに続く現代という時代に向き合うために、先人たちが発見した世界認識の方法をめぐる仮構意識なのだ」。川口さんは、過去の経験とその表象を論じながら、それを常に「現代という時代に向き合」わせようとする。

そしてその回路として、原爆を描き、経験を語った、詩や小説や手記を分析する。その言葉の襞と、亀裂と、沈黙に、耳を傾け、吟味する。「世界認識の方法をめぐる仮構意識」という言葉で彼が言おうとしたことは、文学研究のそうした姿勢と方法のことだと私は理解した。

その論に導かれながら、私たちは加害と被害の入りくんだようすを知り、当事者概念を揺さぶられ、難民や動物を起点に現代ののっぺりした人間理解や口当たりのいい平和語りを再考するよう導かれていく。

前著『原爆文学という問題領域』から一四年。視野と知識がさらに広く深くなり、表現の読みこみは切れ味をました。そして押さえられてはいるが、川口さんという人間の感受性や問題関心についての自己投企の深さが、論述の背後に横たわっていると感じる。川口隆行という研究者の成熟と到達だろう。

同世代の研究者として、こういう人がいることはとてもうれしいことだが、まあ、、、くそう負けてたまるかと思うよね(笑)

NDL Ngram Viewerを使って「私小説」概念の歴史を大づかみしてみた

[目次]


国会図書館のNDL Lab.で、NDL Ngram Viewerというサービスの公開が始まったので、ちょっと使ってみた感想を書く。
が、ちょっとのつもりで書いていたらものすごく長くなってしまった。結論だけ知りたい人は目次から「まとめ 〈点と線の文学史〉から〈量の文学史〉へ」へどうぞ。

lab.ndl.go.jp


どんなサービスなのかということは、NDL Lab.のページに簡潔に書いてあるので、そちらをご覧いただくとよいのだけれど、要するに、国会図書館の蔵書の全文テキスト(ただし今回の対象は「国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されている資料のうち、著作権保護期間が満了した図書資料約28万点」)を検索して、検索語の出現頻度を折れ線グラフで表示してくれるサービスである。

1.文芸用語「私小説」の使用頻度を調べる

たとえば、「私小説」という言葉で検索すると、こんな結果が示される。

私小説」出現頻度

言葉が過去にどのように使われてきたのか、ということに関心がある人ならば、このグラフを見ただけで、「ちょっとまって、私に○○で検索させて!」と直感的に思うぐらい、面白いサービスだ。
実際私も、この「私小説」のグラフを見て、おいまじかピークはそこにあるのかよ(❶)と赤い折れ線を凝視したほどである。
 ちなみに、上記グラフに見えるいくつかの増加の山部分について補足的に解説すると、1927年ごろの山は「私小説」概念誕生後に迎えた最初の評論のピークで、中村武羅夫(1924)、久米正雄(1925)、宇野浩二(1925)らが、中村の言った「本格小説」と対比しながら私小説の善し悪しを論じた時期である。
 1935年ごろの山は、小林秀雄の著名な評論「私小説論」の連載(1935)を受けて、『早稲田文学』や『新潮』の特集が続いた時期。
 1940年代の山は、小説作品としての私小説の流行が観察され(無署名1941)、続いて尾崎士郎(1941a,1941b)や矢崎弾(1941,1943)、山本健吉(1943)などの評論単行本の刊行があり、『新文学』(1942)『新潮』(1944)などの雑誌特集が組まれた時期だ。
 予備知識があってグラフを見ると、背景の議論の動態がだいたい推定できる。できるんだが、後述するように、「なんとなく感じてた」ことが具体的な「量」とか「グラフ」とかで示されるということは、十分にすごいことだし、そうした「量」になんて文学研究者はかつてまともに向き合ってきたことなどないのである。

2.複数の検索語彙を重ねて表示させる

さて、このサービスが面白いのは、検索できる言葉がひとつではない、という点にある。たとえば、利用者は「私小説」と同時に別の語――たとえば「心境小説」という言葉を同時に検索し、その折れ線グラフを重ねて表示させることができる。

ああそれならば、とここで思いつくのは、出現頻度から関連概念の歴史的変遷を比較検討してみよう、というアイデアである。たとえば、「私小説」という文芸用語が誕生したのは1920年だといわれているが(中村友1977)、この時期には「心境小説」というよく似ているが、少しニュアンスの違う言葉と同時に用いられていたり、対義語的なニュアンスで「本格小説」という用語が使用されたりしていたことが知られている。評論家中村武羅夫や小説家の久米正雄宇野浩二らは、この時期、こうした「私小説」「心境小説」「本格小説」という語彙を使いながら、作家が自分自身のことを書くこの不思議な小説の形態を批判したり擁護したりと論じ合った。議論の構図をざっくりまとめると、西洋的な長く構築的な「本格小説」に対し、身辺雑記風のせせこましい日本の「私小説」を比べ、後者のありかたを非難したり、逆に擁護したりしていたという感じである。

そしてこの「私小説」と「本格小説」の対比構図は、使用する用語をいろいろと変えながら、戦後にいたるまで延々と続いていく。小林秀雄平野謙伊藤整中村光夫といった著名な批評家達が、その議論の戦列に加わっていったのである。そしてその積み上げられた議論は、戦後昭和の途中まで、純文学、そして日本の近代文学史をを論じる際の強力なパラダイムでありつづけた。

3.「私小説/心境小説/本格小説

さて、NDL Ngram Viewerが複数の概念の出現頻度を重ねて表示させられるならば、「私小説」とそれにまつわる隣接的概念の歴史的布置を、量的な見地から大づかみにできるんじゃないかという気がする。

まず、前述の中村武羅夫久米正雄的な語彙体系の出現頻度を確かめてみる。対象となるのは「私小説/心境小説/本格小説」である。
(*) なお、NDL Ngram Viewerには「年代ごとに何回出現したかを表す出現頻度」と「出現頻度を出版年代ごとの総ngram数で割った値を表す出現比率」との2つを表示させる機能がある。ただ、私が今回使った検索対象語に関しては、後者の「出現比率」は使いにくかった。グラフの下限(1966年付近)に大きな山が出現してしまい、戦前部分のグラフの増減が圧縮されてしまって、見にくいのである。

図2 私小説/心境小説/本格小説 の出現頻度

グラフから読み取れるのは
❶1941年、1943年に「私小説」の語を使用する大きな山がある。
❷「私小説」の語の誕生後10年弱ほどは、あまり使われていた気配がない。
❸「心境小説」の初出は1924年、「本格小説」の初出は1925年あたりらしく、その前の用例が出てこない。
❹1925年当初においては[私小説]より「心境小説」「本格小説」の使用の方が多い。
❺1930年代後半からは「心境小説」「本格小説」の使用頻度は下がる。とくに「本格小説」はあまり使われない言葉となっていく。

というあたりであろうか。❶❷❹のような使用頻度の多い少ないは、人間の目視で資料を読むやり方では、「感触」レベルでしか伝達できないが、コンピュータを用いた計量的分析では、それが可能になる。❸❺のような語の誕生/衰退についても、目視では簡単には言えない。とくに衰退や消滅については、正確に言い当てることは相当難しいだろう。

4.「私小説/純文学/通俗小説」「通俗小説/大衆小説」

検討する用語を変えて、さらに探ってみる。「通俗小説」という語はどうだろうか。「通俗小説」は、「純文学」と対比的に用いられてきた歴史がある。そして「純文学」の一つの代表として「私小説」があった(その考えを批判する議論も同時にあった)。たとえば、横光利一は1935年の評論で次のように言っている。

文学といふものはどんなに「私」を使用しないときといへども、作家が私である以上は私といふ言葉から小説が始まるにちがひないが故である。日本人が私小説でなければ純文学でないと思ふ一つの理由も、このあたりの「私」の複雑さに根づよい原因があるのではないであらうか。横光利一1935)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232735/121

(*) ちなみに、上記の使用事例も国会図書館の次世代デジタルライブラリで探せる。次世代デジで全文検索して文献を見つけた後、その文献の「書誌」タブから国会デジタルライブラリに跳ぶ。そこで出典ページのURLを得ることができる。すると上掲のように元の文脈が容易にリンクで示せる。

さて、グラフをみてみよう。

図3 私小説/純文学/通俗小説 出現頻度

❻「私小説」と「純文学」の波形は、1930年代を通じておおむね揃っているように見える。
❼「私小説」と「通俗小説」の波形も、1931年から1940年ごろにおいてはおおむね相似しているように見える。
❽「純文学」と「通俗小説」は1914年ごろから1937年ごろまでは、1928年からの5年間を除いて、増減の波形が似通っている。
この観察が正しいとすれば、頻度の増減パターンが似ている時期においては、「私小説」「純文学」「通俗小説」という語を使う際の文脈における共有性があったと推定できるかもしれない。
一方で、目立つのは1940年代前半の動きである。
❽1940年からの4年ほどの間、「私小説」「純文学」「通俗小説」の出現頻度の波形に大きなばらつきがあるように見える。
「通俗小説」や「純文学」が論じられる文脈と離れたところで、「私小説」の語が使われていたことが、含意されているのだろうか。


なお、「通俗小説」と似通った語に「大衆小説」がある。重ねて検索すると以下のようになった。「大衆」の語がよく使われるようなったのは1930年代以降だと認識していたが、グラフはそれを証している。使われる頻度の波形もおおむね似ているように見える。

図4 通俗小説/大衆小説 出現頻度

5.「探偵小説/歴史小説/家庭小説/私小説

波形の類似性を観察するときに気になったのは、単純に出版件数や採録データ数の増減が同じだと、同じ波形になったりしないか、ということだった。念のため、相互に関連のないサブジャンル的文芸用語を重ねてみたのが以下である。

図5 探偵小説/歴史小説/家庭小説/私小説 出現頻度

ばらけている、と見ていいように思う。関連のない語・薄い語は、やはり波形がずれると考えていいのではないか。これに加えて、
❾使用頻度の規模感が相対的に掴める
ということもここで気づいた。モダニズムの時代に探偵小説への言及は、この規模で増えていたのか、とかそういうことである。

図5の折れ線グラフは、どの時代にどのサブジャンル語がどの程度の規模で使われていたのか、を示しているが、私にはこれはそのまま明治から昭和戦前期の、近代小説史の略図を見ているかのように感じられた。

6.冷静になってちょっとデータを補正する

最初にNDL Ngram Viewer を使って「私小説」を検索したとき、大きなピークが1941, 1943年に現れた。他の時期を圧する大きさなので、少なからず驚き、これはこれまでの認識を改めなければならぬ…と思った。が、いろいろデータを見ているうちに、少しこの結果を検証してみようと思うようになった。
Ngram Viewerは出現頻度を単純に積算しているようだ。たとえばAという文献に「私小説」の語が5回現れた場合、カウントは5となる。つまり、一冊の本で、100回「私小説」と連呼した文学者がいた場合、その年はその一人の一冊のために、+100を獲得してしまう。これはちょっと差っ引いて考えたい。
そこで、Ngram Viewerから跳んで(グラフ上の●をクリックするとその年の次世代デジタルライブラリに跳ぶ)、何件の文献がヒットしているのかを、逐一確かめてみた。結果は以下である。「私小説」という語の、次世代デジタルライブラリのヒット件数(文献点数)と、Ngram Viewerの示した頻度(語の出現頻度)、そしてその比率が示してある。

西暦 次世代デジ 国Nグラ Nグラ/次世代デジ
1920 0 1 #DIV/0!
1921 1 1 1.0
1922 2 2 1.0
1923 2 2 1.0
1924 1 5 5.0
1925 5 11 2.2
1926 7 14 2.0
1927 7 50 7.1
1928 2 2 1.0
1929 4 17 4.3
1930 8 21 2.6
1931 8 27 3.4
1932 5 22 4.4
1933 0 1 #DIV/0!
1934 8 22 2.8
1935 18 81 4.5
1936 16 42 2.6
1937 11 43 3.9
1938 9 17 1.9
1939 17 53 3.1
1940 22 75 3.4
1941 20 226 11.3
1942 15 108 7.2
1943 19 360 18.9
1944 3 67 22.3


この結果わかったのは、実は文献数的には1930年代のピークと、1941,43年のピークとは、ほとんど大差がないということであった。別の言い方をすると、1941, 43年のピークは、矢崎弾や尾崎士郎などといった批評家や小説家が、著述の中で「私小説」を主題化し、繰り返しこの後を用いたという事態によって形成されていたようである。これは最初の直感からはズレることになるが、それはそれで大事な知見である。また❽に挙げた、1940年代前半の特異性を考える際の参考にもなりそうである。

最後にしつこいようだが、次世代デジタルライブラリの件数(全文中に「私小説」の語を含む文献点数)と、Ngram Viewer(「私小説」の語の出現頻度)と、国会デジタルライブラリ(タイトルおよび目次に「私小説」の語を含む文献点数)と、朝日新聞(目次およびキーワード?に「私小説」の語を含む記事数)を、一つのグラフにまとめておいた。これはエクセルを用いた。
(*) ただしNgram Viewerだけ突出して数字が大ききので、グラフが読みにくい、4で割って見た目を補正している。

図6「私小説」DBごとの件数

7.まとめ〈点と線の文学史〉から〈量の文学史〉へ

今回、文芸用語としての「私小説」の使用のされ方を、Ngram Viewerを使って探ってみた。使ってみて従来の人力による分析ともっとも異なると感じたのは、
・量の規模
・増減の波形
・持続期間
についての知見が得られる
ということである。これらは、いずれも人の目と手だけを使っていたのでは、説明・証明が非常に難しい。大量の資料を読まなければならない上に、結局規模や増減のようすを個人の「感触」としてしか伝達できなかったり、語の出現と消滅の証明が非常に困難だったりするからである。
これに対して、コンピュータを用いた計量分析は、「量の規模」「増減の波形」「持続期間」などをはっきりした数やグラフで表現してくれる。

これまでの文学史は、点と線によって書かれてきたといってもいい。中村武羅夫本格小説を礼讃し、久米正雄私小説を称揚し、小林秀雄が「私小説論」を連載して注目を集め、伊藤整平野謙私小説と心境小説とを対比しながら私小説作家の2類型(逃亡奴隷/仮面紳士とか、破滅型/調和型とかいうやつ)を作ったとか、中村光夫の「風俗小説論」が影響力をもった、というような著名な〈点〉を取り上げ、それらをつなぐことによって〈線〉としての文学史が描かれる。

これに対し、膨大な本文データを読み込み分析するコンピュータは、我々の問いかけ=検索語に対して、〈量〉としての回答を出力してみせる。私たちはこのとき、誰が何を書いたの連鎖ではなく、いつどれだけの言葉が生まれ、増え、消えていったのかという量の持続や消長として、文学史が書かれうるのではないかという夢想に導かれる。

〈点と線の文学史〉から〈量の文学史〉へ。国会図書館の蔵書の全文検索という資料面でのかつてない大変動に、自然言語についての分析技術の進化がかけ合わさっていく時代が到来している。文学史もまた、その姿を変えていくはずではないか?



言及した文献(年代順)

中村武羅夫(1924)「文芸時評 本格小説私小説と」『新小説』29-1
久米正雄(1925)「創作指導講座 「私小説」と「心境小説」(一)(二)」『文芸講座』文藝春秋
宇野浩二(1925)「「私小説私見」『新潮』43-4
小林秀雄(1935)「私小説論」『経済往来』10-5~10-8
横光利一(1935)「雑感」『覚書』沙羅書店
私小説特集(1935)『早稲田文学』2-9〔徳永直、矢崎弾、谷崎精二ら〕
私小説特集(1935)『新潮』32-10〔尾崎士郎中村武羅夫河上徹太郎ら〕
無署名(1941)「〈新潮評論〉「私小説」の流行」『新潮』38-7
尾崎士郎(1941a)『文学論』平凡社
尾崎士郎(1941b)『人生読本』学芸社
矢崎弾(1941)『文芸の日本的形成』山雅房
伊藤整上林暁丹羽文雄(1942)「『私小説』論」『新潮』39-5
私小説特集(1942)『新文学』1-5〔福田恆存高橋義孝、高木卓ら〕
私小説特集(1944)『新潮』41-3〔森山啓、渋川暁ら〕
矢崎弾(1943)『近代自我の日本的形成』鎌倉書房
山本健吉(1943)『私小説作家論』実業之日本社
中村友(1977)「大正期私小説にまつわる覚書(一)『学苑』445