(論文)亡霊と生きよ――戦時・戦後の米国日系移民日本語文学
木越治・勝又基編『怪異を読む・書く』国書刊行会、2018年11月所収、pp.443-461
(要旨)
この論考は、米国日系移民の日本語文学を主な検討の対象としながら、亡霊と記憶と文学をめぐって考えたものである。分析の対象とする作品は、戦後の米国日系人が刊行した日本語雑誌『南加文藝』所収の小説や詩歌、追悼記事、そして戦後の米国日系新一世による短編小説であるスタール富子「エイミイの博物館(ミユジアム)」、最後に戦時下の反米プロパガンダ移民小説である久生十蘭『紀ノ上一族』である。
亡霊とあわせて本論考が焦点をあわせるのは、記憶とその相続である。導きとなるのは、ジャック・デリダの亡霊論(『マルクスの亡霊たち』)である。米国に限らず、日系人の日本語文学に固有の問題として、継承の困難さがある。日本で生を受け、その後移住地へとわたった移民一世は当然日本語を話すが、二世の多くは現地の言葉を主言語とするようになる。これにより、世代間のコミュニケーションの難しさが生まれるだけでなく、文学的にも断絶が引き起こされる。日系人の日本語文学は彼らの経験を伝える記憶のメディアだといえるが、そのメディアの中に形作られた記憶は、誰に手渡しうるのかという問いにさらされる。消え失せていく一世とその日本語の文学は、いかにして忘却にあらがうのかという問題系がここに立ち上がる。
戦時をくぐり抜け戦後を生きながらえた日系日本語文学は、数多くの仲間の、家族の、そして作り手たち自身の死を経験する。そこで文学の言葉は、死を語り、死者を語り、ときに死者に語らせはじめる。記憶の継承を求めた日系人の文学は、言葉を換えれば、のちの読者であるわれわれに、死者の言葉に耳を澄ませるよう求めているといえるかもしれない。死者を語る移民の言葉に耳を澄ませ、亡霊をして語らしめたい。