紹介『怪異を読む・書く』、あるいは木越治先生の追想
最近共著として国書刊行会から出版した『怪異を読む・書く』について紹介をしたいのだが、順を追って木越治先生との思い出から書く。本書は、木越先生の古稀記念出版として企画され、そして予想もしなかったご逝去を受けて、御霊前に捧げる追悼論文集となってしまったものである。
- 作者: 木越治,勝又基
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2018/11/22
- メディア: 単行本
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木越治先生のこと
近世文学研究、なかでも上田秋成の研究者として知られる木越治先生は、教養教育を担当する先生のお一人として、私の前に現れた。金沢大学の学部生のときだった。
先生の教え方は、必ずしも体系的なものではなかった。そのときそのときの先生の関心を直接的に反映させたテーマ設定がされていて、江戸文芸を扱うこともあれば、源氏物語を扱ってパソコンへのテキスト入力と組み合わせるような授業をされたこともあったと記憶する。
近代文学で卒論を書こうとしていた私にとって、近世がご専門の木越先生は近い先生とは言えなかったはずだが、いくつかのきっかけがあって卒業後もお付き合いをさせていただくような関係となった。
一つは、源氏物語を扱った授業のレポートで、比較的良い評価をもらったことだと私は思っている。先生の点は辛く、普通に受講し、普通にレポートを書いた学生たちが、何人も単位を落としていた。私は、六条御息所の生霊の歌を軸にしながら、同じぐらいの時代のいくつかの似たような魂が離脱する表現の歌と組み合わせ、クリステヴァのインターテクスト論の味付けをしてレポートに書いて、良い点をもらった。「クリステヴァ使わなくても言えるよね、これ」と先生に笑いながら言われたことを覚えている。角間キャンパスの国語国文研究室にいたときだった。文学理論をつかってレポートを書いたのはこれが初めてだった私は、それを受け入れてくれた木越先生という先生に親しみを持ったし、おそらく先生も、授業でやったこととは異なる妙なレポートを書いた学生に関心を持たれたのかもしれない。そのときの先生の採点は、完全に、授業を理解したかという観点ではなく、それが論考として面白いかというただ一点からされていたように思う。
もう一つのきっかけは、パソコン講習会だった。1993年とか94年のことだったはずである。木越先生はパソコンに関心があり、正規表現を使ってデジタル・テキストを比較したり置換したり並べ替えたりという作業が、文学作品の本文校訂や本文理解の手助けになるという見込みをもたれていたと思う。(たんに新しもの好きだった、という面もきっとある)
当時、文学部の学生の大半は、ワープロ専用機を使っていて、数%はまだ手書きでレポートや卒論を書く時代だった。そんな中、パソコンを使うということは、とても珍しいことだった。先生が授業外でパソコン・ゼミをすると学生を誘ったとき、私はなんだか面白いことが始まりそうだという強い関心を持っていそいそと参加した。
この部分を詳しく書くと長くなりそうなので端折るが、私はそのゼミや、そのゼミ以外の私的な交流の中で、先生やその周囲の人たち(本書に執筆されている高橋明彦さんもそのお一人だった)から、正規表現を使ったgrepやsedなどというコマンドの使い方を習い、短いバッチファイルを書くことを覚え、MS-DOSの中古ノートパソコンを買い、そのカスタマイズの仕方を教えてもらった。vzエディタを薦められ、後にLatexで組版して印刷するようになった。現在、HTMLで個人ページを作り、ブログを書き、TwitterやFacebookをやっている私の、パソコン文化との接点を作って下さったのは、木越先生である。
金沢市大場のご自宅にも、二三度お邪魔したことがある。すきやき会をして下さった。奥様の秀子さんやお嬢さんもいらした。俊介さんとも、そのどこかでお目にかかったのだと思う。
自分の肉体を形作っているのは、両親から受け継いだ形質であるわけだが、大学教師としての自分を形作っているのは、自分が教えを受けてきた数多くの先生方なのだと最近しばしば感じる。私は学部と大学院が別だったし、大学院では二つの研究室の授業を半々ずつぐらいで取っていたから、「先生」の数が多い。直接の指導教員だった金沢大学の上田正行先生や、筑波大学大学院の名波弘彰先生はもちろんだが、金沢の島田昌彦先生、古屋彰先生、西村聡先生、筑波の荒木正純先生、阿部軍治先生、今橋映子先生、宮本陽一郎先生、池内輝雄先生、新保邦寛先生の授業や学生への接し方の端々が、自分が自己認識する教師像を形作っていることを感じる。むろん、人は他人にはなれないので、先生たちの「いいとこ取り」を我流で目論んでいるだけなわけであるが。
木越先生も、もちろんそのお一人である。私は木越先生のざっくばらんな学生との接し方が好きだったからそれをまねたいと思っているし、先生の厳しく戦闘的な研究者としての態度はあこがれであるし、何事に付けても好奇心旺盛で研究の世界に留まらず周りの人を巻き込んでいく人間としてのあり方に、学びたいと思っている。
先生はもう去られてしまったが、先生の残してくださったもの──情けないことにそのわずか一部であるが──は、私の中に残っていると感じている。
先生、ありがとうございます。
『怪異を読む・書く』
本書は、『怪異を読む・書く』と題した論文集である。集まったのは近世文学と近代文学の研究者26名である。490頁に迫る大冊となった。
方法論的な統一性があるわけでもないし、時代ももちろんバラバラである。したがって、通読してなにか全体像やビジョンのようなものが見えてくるようなそういう本ではない。
だが収められた論文は、高質である。不勉強と怠惰から、古典文学の論文に目を通す機会が少ないのだが、今回「怪異」を軸にした論考を読み重ねていって、その精緻さと、同時に展開する時代へのまなざしの鋭さ、面白さに何度も感嘆した。
やはり、「わからないこと」ににじり寄っていく挑戦的な研究には読み応えがある。近現代の材料を扱っていると、テキストの中も外も見当がつくことが少なくない。けれど、古典の世界はそうではない。古典の世界を「現代風に」読むことはよくあるし、それも裾野を広げる意味では重要だけれども、現代人とは違う世界観、感性を生きていた人々の姿が、そうした現代化によって消し去られてしまうことも確かだ。
今回の論文集のなかのいくつかは、作品の表現を精読し、同時代の資料と組み合わせながら、怪異をめぐる「時代の感性」をあざやかに切り取っていた。西村先生の「〈鉄輪〉の女と鬼の間」、西田耕三さんの「怪異の対談」、風間誠史さんの「怪異と文学――ラヴクラフト、ポオそして蕪村、秋成」、勝又基さんの「都市文化としての写本怪談」が私は好きである。
近代文学を対象とした論考もいくつか入っている。夏目漱石、泉鏡花、小林秀雄、徳田秋聲、そして拙論の日系アメリカ移民文学である。(拙論については、記事を改める)
もちろん、木越治先生の御論考もある。既出論文の再掲となったが、上田秋成の『雨月物語』を論じた「Long Distant Call――深層の磯良、表層の正太郎」が収められている。また丸井貴史さん編の「木越治教授略年譜・著作目録」も付された。
目次の詳細は、以下にある。どうか、関心のあるところから読んでみていただければ幸いである。
www.kokusho.co.jp