日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

カトマンズ、たそがれ小路

仕事を終えた最終日、飛行機の出発まで時間があったので、土産物買いのついでにカトマンズの路地を歩いた。

R広場を目指していけばよいだろう、と大体の目星をつけて歩き出す。ぶらぶら歩きながら、店先を冷やかし、時々中に入ってみたり、値段を聞いてみたりしながらゆっくり進む。

道は、ホテルに近い観光客向けの、ネオンがあるような比較的整った街並みから、次第に古びた建物が密集する地区へと変わり、細かい路地が入り組むようになり、道幅もせまくなっていく。行きかう人々の密度も増し、埃が舞い上がり、バイクや、時に小さなタクシーまでもが侵入してクラクションを鳴らし、排気ガスをまき散らしながら人々を押しのけていく。Gは、こうした街の喧騒を指して、「これがカトマンズだよ」と私に言ったものだ。

カトマンズ中心部の広場や道筋には、本当に数多くの寺や塔、像といった宗教に関係する建築物や設置物が置かれている。大小さまざまのそうした建物や石像などに目を向けながら、私は同便に乗る予定のMと同行して歩いていた。私たちは、土産を探しながら、あわせてネパールの仏教寺院も見てみたいと考えていた。

スマートフォンを出して地図を見ながら、Mと一緒に道筋を相談していると、声をかけてきた男性がいた。それがGだった。

四、五十代に見える彼はさほど大柄ではないが、恰幅のよい体つきで、にこやかでエネルギッシュな雰囲気だった。「どこに行こうとしてるんだ」と聞くので、仏教の寺院を見てみたいと思って今行き先を探していると返事をした。「だったらこっちだ」と彼は応え、「案内してやるからついてこい」と言って歩き出した。
流暢な英語を話し、彼はときに日本語さえ混ぜた。こんにちは、ありがとう、とうきょう、きょうと、そんな言葉を交えながら、にこやかに、能弁に話した。

「自分はこの先の学校で先生をしているんだ」と言いながら、彼は歩いた。君らはいつまでカトマンズにいるんだ、何をしに来たんだ、そんなことを会話しながら進んでいくと、彼はふいに「こっちだ」と言って路地に入った。

私とMの2人だけでは、絶対に入っていかないような狭い路地だった、こんなところに寺?と思いながらついていくと、彼はさらに進んで建物の壁に空いた入り口に入った。続いて入ってみると、そこには中庭が開けており、その中庭全体が礼拝の施設となっていた。

Gは壁一面に埋め込まれた様々な像や装飾を指し、「これがヒンドゥーの寺の様式だ」と言いながらその細部について説明した。
そして手前の広場中央に近い祭壇を指し、「これが仏教のものだ」と彼は言って、さらにそれを細かく解説してくれた。

カトマンズではヒンドゥー教と仏教とがとても近い」と言いながら、彼はその2つが様々なものを共有していることを説明してくれた。
そしてさらに仏教について説明を続け、「カトマンズでは仏教は宗教ではない。それはある種の生き方であり、生活の仕方であり、考え方なんだ」と、そんなことを言った。

買い物の前に私たちはもう一つ別の大きな宗教施設も訪問していた。
そこでも、自分はヒンドゥー教徒だと言う1人の男性に、私たちは同じような説明を受けていた。ネパールでは、仏教は宗教ではない。それは人々の生活のあり方そのものなのだ、ということだった。輪廻や死生観のことを、彼は説いていた。

中庭の寺院での説明を終えると、Gはさらに我々を案内し続けた。寺だけではなく、彼は様々な地元の建物についても語ってくれた。この寺塔の壁面にはカーマスートラが掘り込んであるから見てみるといいとか、これが2015年のカトマンズの大地震でも崩れなかったこのあたりで最も古い建物だとか、そんなこと言いながら、いくつもの建物や寺を説明してくれた。「この崩れた建物の下で、10人が亡くなったんだ」とも彼は言った。
彼自身、大地震の被災者だったとも語った。「店も建物も失ったが、私は幸せだった。だって家族はみんな生き残ったからね」と彼は私に笑顔を向けながら言った。

地震より以前、別の地域からカトマンズに移り住んで、いまは仏教に関わる教師をしている、と自己紹介する彼の知識は、実際豊富だった。行く先々の寺院で礼拝を行い、身体の3つの「チャクラ」の前で印を結んで発声をし、3度の礼拝を繰り返す、そんな祈りの作法まで教えてくれた。
彼は歩きながら、輪廻転生のこと、物事が全部流転していくこと、分け与えることが大事であることを話し続けた。

また「教育は大事だ」と言いながら、「日本ではどれぐらいの子供たちが学校に行くんだ?」ともGは聞いた。小学校や中学校に関してはほとんど100%に近い、と私は答えた。「素晴らしい」と彼はいい、「ここではそうではない。60%ほどの子供たちしか学校に行かないのだ」と彼は説明した。「あなたは自分が幸せな国に生まれたのだということを理解しないといけないよ」と彼は言った。私はその通りだと思い、彼にそう答えた。

「だから私は教育はすごく大事だと思っている」とGは繰り返した。「だから自分は子供たちに教えているんだ。」

教えることと、与えること。
自分が幸せにな国に生まれ、取り立てて文句のない生活をしていること。
そんなことを考えながら、私はカトマンズの雑踏の中を歩いた。
道路はところどころめくれ上がり、建物はしばしば崩れたままになり、掘り起こされ地下水が染み出したところで、女性たちがしゃがみ込んで洗濯をしていた。

「特に女の子たちに勉強を教えるのが大事だ、と自分は思っている」とGは言った。「ここでは、女の子たちはしばしば売られてしまうのだから」と彼は説明した。

信心深く、にこやかで、見ず知らずの私たちにも何かを分け与えようとしてくれているこのカトマンズの男。

打ち明ければ、私はほとんど感動に近いものを感じていた。Gは、「僕はガイドをやっているのじゃないから、お金は要らないよ」と笑っていた。

かなり歩いた頃、Gは「着いたよ」と言いながら、小さな広場の横に立つ建物を指して、その中庭に入っていった。左手の建物を指さし、「こっち側が地震で崩れた元の学校」、そして180度くるりと振り返り、「こっちが新しい学校だ」と言った。「Harmony Handicraft House」という洒落た看板が、そこにはついていた。

何かが私の中で引っかかった。子供たちの「学校school」ではなかったのか?

彼は扉をくぐり、そこにいた2人の若者に私たちを紹介した。1人は西洋人の女性のように見え、彼女は地面に座って曼荼羅のようなものを書いていた。
部屋は意外なほどに小綺麗だったが、狭い。床にしゃがんで曼荼羅を書く女性の反対側に、大きなカウンターのような机があり、壁には曼荼羅が飾ってあった。カウンターの向こうには、巻いた大きな紙、おそらくは曼荼羅のポスターが、床から立ち上がるケースに入れてあった。疑念が、もやのように広がってくる。

それでもまだGは、机の上に取り出してきた曼荼羅を広げ、細かくそのデザインの意味について解説してくれた。その説明は詳しく専門的なものだったが、私は次第にその彼の英語が聞き取れなくなっていった。

この状況が、うまく飲み込めない。Gはいまなお仏教の思想を熱心に説き続けているが、おそらくは間違いなくその同じ口で、私にこれを買うように促し始めるだろう。

彼は若者たちの一人に声をかけ、「お茶を入れてくれないか」と言った。そして私たちにブラックティーがいいか、マサラティーがいいかと聞き、「これがもてなしのやり方なんだ、私たちの」と微笑んで付け加える。

私はすでに半分以上、そのお茶を、彼の心からの心遣いだとは思えなくなりつつあった。
ちらりと隣のMの顔を見る。やはり表情がこわばっているように見える。
頭の中でさらに疑念が駆け巡り始める。

この部屋に至るまでの半刻を超える彼の行為や解説は、すべてこの曼荼羅を買わせるための布石だったのではないのか。
疑念は加速する。もうすぐ出てくるだろうお茶を、私たちは飲んで良いだろうか。お茶は私たちを引き止めさせるためのものであり、私たちの心と体をこの場に縛り付けるためのものであることはもはや間違いない。
だが、もっと疑えば、そこに何も入っていない、ということが確かに言えるだろうか──そんなことさえ私は考え始めた。

彼が絵を取り替えるその間を見て、私はMに、「お茶を飲むのはやめましょう」と早口の日本語で言った。出てきたお茶は飲まないほうがいい、という意味のつもりだった。けれどMはその私の発言を聞いて、もう帰りましょうの意味だと取り、「そろそろ帰らないとね」と答えた。私ももう潮時だと思った。

彼は我々のその日本語のやりとりを理解してかどうか、ついに「この曼荼羅を買ってもらうことがこの学校への寄付につながるんだ」といった。彼の説明はまだ一貫していた。彼が学校で教えていること、私たちを支援して欲しいこと、曼荼羅を買うことがそれにつながること。

帰らなければならない。
この曼荼羅を買う気はもうない。

私は財布から日本の1000円札を出した。そして、これをこの「学校school」に寄付します、と言った。「これは私たちの気持ちです。この学校のために私たちはこれを置いていきます。」
彼は怪訝な顔をした。自分の計画が失敗したことを悟ったのかもしれない。

彼に1000円を受け取らせると、私とMは外に出た。
明るい日差しの下で、Gにお礼を言い、本当に素晴らしい体験だったと私は握手をした。そして別れを告げた。

助かった、という安堵とともに、Gに背を向けて歩き出す。どこをどう歩いてここにやってきたのか完全にわからなくなっていたので、GPSで自分の位置を確かめる。自分が、まだ動揺しているのを感じる。

動揺。初めて訪問する南アジアの街で、自分が手の込んだやり方で、おそらく法外な値段の何かを売りつけられようとしていたことに対する動揺。それはそうだ。

いやしかし、とスマートフォンの地図の上で青く光る自分の位置を見つめながら、自問自答する。教育は大事だと言い、分け与えることがたいせつだ、と言ったGの顔と言葉が蘇る。
彼が説いた言葉は、すべて嘘っぱちだったのだろうか。

日は、ゆっくりと傾きつつあった。
私は、カトマンズで出会ったG…と名乗る男のことを考え続ける。
私には彼が100%の詐欺師だとは思えなかった。彼とともに私とMはいくつもの寺院を礼拝した。彼は建築を説き、図像を説き、思想を説いた。礼拝の手順を教え、私とMの額に赤い印を施し、幸運を祈ってくれた。
日本の教育の現状を褒め、ネパールの状況を憂い、女の子どもたちが売られる現状を訴えた。

それに共感し、寄付をする観光客がいたとして、何が不思議なのか。
そのほとんどか富める国から来た彼らが、その富の一部を曼荼羅のポスターと交換し、宗教的な理念を示しながら活動する「クラフト・ハウス」を支えたとして、何が悪い。
分け与えよ。
富はめぐるべきなのだ。

Gは、そう言うだろうか。
いやこれは、私の言葉なのではないのか。

次にもしもこの街に来ることがあるとして、私はあの曼荼羅を買うだろうか。いや、やはり買わないだろう。
だが、もしも再びGに巡り会うことがあったら…、私はやはり彼の言葉に耳を傾けるのではないか。嘘と真実の混じり合ったその言葉を聞きながら、分け与えることの意味を、なお考えるのではないか。

カトマンズのたそがれの中で、私はなお道に迷いそうになる。