日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

図書館ではなぜ本が無料で読めるのか


最近、twitterではぶつぶつ言っているが、ブログは書いていなかった。ブログは長文なので、多少気合いがいるんですよね。それがよいところでもありますが。twitterは言いっぱなしになる(私の場合)。それがいいところでもあり、悪いところでもあり。

今回、その境目ぐらいのネタをtwitterに書いたので、こっちに多少手を入れて転載しておく。「ブログを更新せよ」という声もいただいたので。手抜きですいません。

さっきマーク・ポスターの『情報様式論』を読んでいて、「消費者たちは書籍の製造に対して支払っていたのであって、公共図書館でただで利用できるその中の情報には支払わない」(岩波現代文庫、p.166)という一節に出会った。


乱暴にまとめると、情報が電子化されて、パッケージ(書籍とかレコードとか)と切り離すことが可能になって、市場のシステムが変わった、という文脈ででてくる文である。もとの議論も、それはそれで関心があったのだが、この一節を読んで、私は別のことを考え始めてしまった。

なんで、本は図書館でタダで読めるんだろう?

音楽CDや映画のビデオ/DVDに囲まれた世界に生きている今、本をめぐる我々の環境は実は「特別」なことだ、ということにあらためて気づく。 大学図書館公共図書館でも、一部わずかにCDやDVDは入っているが、本の新刊が入ってくるようには入ってこない。

これは媒体としての歴史的な出自が違うためなのだと思う。音楽は、かつてライブでしかあり得なかった。映画も、映画館でしか見られなかった。どちらも、個人の所有物になってとても日が浅い。 それに対して、本の歴史は、驚くほど古い。 つまり、市場化が強力働いて知的な文化財を商品化する時代の産物であるCDやレコード、ビデオ、DVDと、、それ以前からある本と。

本は、貴重な「財産」ではあっただろうけれど、「商品」ではなかった時代が長い。図書館、図書室、文庫なども、そういう本が「商品」でなかった時代の仕組みを、いまに受け継いでいるのだと考えてみる。 だから、本には値段があって、値段がない。

自分が何に反応してtweetし出したのか、書いているうちに分かってくる。本を、経済の言葉で語る奴がいま多すぎる。本の電子化に反対するわけではない。それは必然的な流れだと思うし、一方でモノとしての本は根強く生き残るとも思う。だが、そういう趨勢とは別に、どうも本のことをカネの論理でしか語れない/語らない言説が多すぎるように感じる。それは、本の文化に対し、あまりに無知で悲しい現象である。