書店、ヘイト本、ストックとフロー
『現代思想』2月号の反知性主義特集掲載の福嶋聡さん「憎悪・排除・批判――闘技場としての書店」が面白く、考えさせられたのでメモしておく。
ヘイト本に書店(員)はどう向き合うか
福島さん(ジュンク堂難波店の店長さん)の文章は、ヘイト本に書店(員)がどう向き合うかべきかを書いている。
コンピュータの導入によって自他のPOSデータ=販売記録が速やかに、正確に見られるようになり〔…〕書店員はデータに縛られ操られるようになった。こぞって売れ行きの良いものを追いかけるようになり、書店の風景は、どこも変わらないものになってしまった。書店員は、「数字を見て考えている」と言うかもしれないが、売れ数のインプットに応じて注文数をアウトプットするのは、極めて機械的な作業であり、「考えている」のではない。そのような作業が積み重なってできている書店は、今ある社会とその欲望、格差の増幅器になるだけで、決して社会の変換器にはなれない。新しい書物に期待されているのは、社会の閉塞状況を突破するオルタナティブである。
福嶋さんの言っているのは、ヘイト本に対するカウンター(対抗)の本も並べよう。自粛するのではなく、また規制するのではなく。言論には言論をもって対抗させよう。そして、書店員が自身で考えた主体性を、棚に反映させよう、ということである。共感する。
「中立性」という名の自主規制・言論規制
この問題は、現在の日本の公共空間、メディア空間の課題の一つ「中立性」の問題につながる。いま日本では、公共スペースで護憲集会の開催が断られたり。公民館の刊行物で平和憲法の俳句が掲載を見合わせられたり。平和を訴えようとした小学生の作文が文集に載らなかったり、NHKが同じ番組の枠内における両論併説を求められたり、という状況が頻発している。
「中立性」という名の自粛、「中立性」という名の言論規制が、幅を利かせ始めている。
もちろん、反対側の問題もあるのが難しい。拝外主義的集会が、公共スペースで開催さえることは認められるだろうか。公民館の刊行物にヘイト俳句(?)を掲載して良いだろうか。
公共性とはなんだろうか。公共空間はどうあるべきだろうか。表現の自由とは、何をどう言ってもいいということなのだろうか。
公的施設、雑誌、書物、放送、書店、ネット、それぞれに場の特質がある。情報や言論がそこで発せられる/接触可能な状況に置かれるあり方も違う。利用者・受け手の接触のし方も違う。
安易な規制論は危険だろう。それは規制する側を利するだけだ。とくに現在の政治状況では、言論を規制する方向でなにかの法的措置をこうじることは、不安が大きい。ただし、暴力的言説の垂れ流しは、問題が多すぎる。政治的規制に頼ることなく、書店で、公共空間で、教室で、言論の場で、カウンターの言論を辛抱強く、効果的に出し続けていくしかないだろう。
整理しておくと、表現の自由の「自由」はなにをしても良い、という意味の「自由」ではないというのが大原則。その上で、多様な意見の併存の場を確保しつつ、場のアクセス可能性を受け手のあり方に応じて制御する工夫を行う。また、現在「中立性」の主張が、最近、言論の制限や自主規制の言い換えとなっていることには、くれぐれも敏感になっておいた方がいい、というあたりか。
書店空間を再考する:ストック、フロー、コンタクト・ゾーン
なお、福嶋さんの論には、反知性特集とは直接関係ないことについても教えられたので、自分メモしておこう。
最近私は外地書店と書物流通の研究をしているのだが、つい流通網をフローに、書店をストックとしてイメージしてしまっている。そうじゃない、と教えられた。福嶋さんは、嶋浩一郎さんを引用しながら、書店を、絶えず変わり続けるサグラダファミリア教会に喩えている。なるほど、と思った。
つまり書店は、ストックの場ではないのだ。書店は取次を経由して流れてきた本が留まる空間であると同時に、それが絶えず入れ替わり生成変化し続ける動的な流れの一部でもある。そしてその書店空間の動態は、本の世界だけで完結しない。書店員の選書という関わりがある。さらには、客=読者がもつ知の体系が、棚の接触して売り上げてという回路でフィードバックを返す。書店は、ストックでありフローであり、そしてコンタクトの空間なのだ。