「モデル問題」の発生──内田魯庵『破垣』
『国文学 解釈と教材の研究』第47巻第9号、2002年7月、pp.31-35、7月臨時増刊号・特集「発禁・近代文学誌」のち国文学編集部編『発禁・近代文学誌』共著,2002年11月,学燈社,pp.31-35,他共著者36名(臨時増刊号の書籍版)
[紹介]
「モデル問題」は実在の人物を小説の題材としたことが原因となって発生する。近代文学の歴史において、この問題がある程度社会的に共有された事件にまではじめて発展したのが、内田魯庵の『破垣』(1901年)の場合である。本論は発売頒布停止の処分を受けた理由を整理しつつ、この事件が魯庵のその後の小説作法に与えた影響を考えている。また、発禁処分に対する魯庵の態度を、「士君子」意識に立脚した「恥」の倫理であるとし、権力とそれに対する抵抗といった左翼的ビジョンで捉えることの危うさを指摘した。
(商業誌に発表したため、全文のweb公開は当面控えます。以下やや詳細な内容紹介です)
[要旨]
「モデル問題」はあらゆる局面でつねに起こりうるが、それがある程度社会的に共有された事件にまで発展したかどうかという規準で考えれば、その「発生」を語ることも不可能ではない。作品の登場人物にある実在の人物が当てはめられ、その問題性ゆえに発行が停止されたはじめての小説が、内田魯庵の『破垣やれがき』である。『破垣』は、内田不知庵の署名で「文芸倶楽部」第七巻第一号、一九〇一(明治三四)年一月一日に掲載され、発売三日後の一月四日に風俗壊乱を理由に発売頒布停止の処分を受けている。これまで指摘されているとおり、『破垣』発禁の背後に、当時からモデルに比定された末松謙澄の存在があったのは、おそらく確かである。『破垣』は「モデル問題」を起こしたがゆえに、処分を受けた。だが、小説の表現や、『弊風一斑 蓄妾の実例』(「万朝報」)との比較を通じて考えてみても、その判断の規準は、曖昧であったとしか言いようがないものだった。
発禁処分後の魯庵の対応について考えてみる。その後も魯庵はいわゆる〈社会小説〉を書き続けており、一見彼の過激さは影を潜めていないように見える。だが『破調』などに見られる華族の表象を検討すれば、魯庵が周到に『破垣』の轍を踏まないようにしていたことがわかる。
魯庵が発禁当時に抱いたのは、「云ふべからざる恥辱」という感覚であった。魯庵は、国家の命令であるから風俗を壊乱してはならないと考えていない。彼を律していたのは、「士君子」意識に立脚した「恥」の倫理である。発禁をめぐる文学史を、左翼的ビジョンにもとづいた単純な抑圧と抵抗の歴史として書いてしまうと、魯庵の時代の感覚は埋もれてしまうだろう。