昨年度はサバティカルだった件
昨年度はサバティカル(=大学の特別研修期間)だった。
諸事情(主に家庭方面)あって、勤務校での研修となった。そして勤務校には子どもの保育園があるので、結果、ほぼ毎日大学に行くことになった。
春、私を見かけた同僚たちは、なぜサバティカルなのにいるのか、という顔をした。
夏、同僚たちはいなくなったが、私は大学にいた。
秋、誰も私が学内にいることについて、不思議と思わなくなった。
冬、どうしておまえは教授会に来ないのだ、とさえ思われている気がした。
いろいろ言いたいことはあるし、最終日に吐き出してやろうと思っていたけれど、やめた。
もらえただけで十分だ。そして俺は働いて、元気だ。血圧はちょっと上がり気味だが。
以前勤務していた大学で英語科の先生に、サバティカルsabbaticalはサバスsabbathから来ている言葉で、つまりはユダヤ教・キリスト教の「安息日sabbath」の発想なのだ、と教えてもらった。つまり、カミサマは6日働いて、1日休んだ。そういうカウントのしかたで、6年働いて1年休むのが、大学の研究休暇のSabbaticalである、と。
聖書の「創世記」を読み直してみた。安息日は、第2章の冒頭にあった。6日働いて1日休むのが1サイクルではないのだ。sabbathは新しい章の始まり。であるならば、sabbaticalもまたそうであろう。
今年度は、私の第2章の2年目である。
カミサマは人をここからエデンに住まわせた。
私の現在地がエデンとは到底思えず、むしろどうみても修羅道にしか見えないが、とりあえずここからまた始まる。
オリンピックと帝国のマイノリティ──田中英光「オリンポスの果実」の描く移民地・植民地
細川周平編『日系文化を編み直す──歴史・文芸・接触』ミネルヴァ書房、2017年3月31日所収、pp.287-300
[要旨]
この研究では、1932年のロサンゼルス・オリンピックと、それを描いた田中英光「オリンポスの果実」(1940)を分析しながら、1930年代における国際スポーツ・イベントが、いかなる〈接触領域〉として機能したのかを考えた。
まず、近代オリンピックおよびロサンゼルス・オリンピックの概略を整理し、オリンピックの理念が抱えていた理想と矛盾とを指摘した。また、1932年に米国太平洋岸で開催されたオリンピックが、日本人、日系移民、被植民地人(ここでは大日本帝国支配下の朝鮮半島の例を見る)にとって、それぞれどのような意味を持っていたのかについても考察する。
その上で田中英光のテクスト「オリンポスの果実」の分析に進む。要点としては、(a)「オリンポスの果実」が背景的な描写として書き込んだ「在留邦人」のようす、(b)テクストが描いた周縁的存在=オリンピックの光が照らしだした帝国の周縁部、(c) 田中英光のテクストがもつ、〈脱-焦点化〉という特徴、の3点を論じる。
以上の考察によって、1932年のロサンゼルス・オリンピックが照らし出した、日本内地、米国移民地、植民地朝鮮との接触・衝突のありさまを浮かび上がらせる。
枝垂れ桜、春に向かう
毎年楽しみにしている、近所の枝垂れ桜。今はこれくらい。
例年だと22日、23日ぐらいでこの桜は満開を迎えます。このあとの天候次第ですが、今年はこれと同じか、少し遅れるか、ですね。
いずれにしても、これから一週間で、満開に向かって駆け上がります。
そしてこの枝垂れ桜が散り始めると、街中の染井吉野が咲き始めます。
そうすると、もうカレンダーは変わって、新学期。
春は、駆け足です。
子どもの通う保育園でも、今日は卒園式。息子も来年は最上級生になります。小学校まで、あと一年。
畝部俊也さんの思い出に
今日は、亡くなった同僚の畝部俊也さんを偲ぶ会があった。研究科の有志が集まって、食事をしながらいろいろな思い出話をした。畝部さんは48歳で亡くなったのだった。
畝部さんとは、研究室が隣同士だった。音が、よく聞こえた。私の研究室のある建物の部屋は、音が聞こえる方の壁と、聞こえない方の壁がある。建物の構造をなしている分厚い壁と、仕切りのための簡易な壁の違いだろう。畝部さんの部屋と私の部屋との壁は、仕切りのため、音がよく通る方の壁だった。
話の内容までは聞こえないが、談笑しているようすや、電話の応対をしているようすは伝わった。私が同じようにしている声も、きっと畝部さんに聞こえていたことだろう。
いま、その声は聞こえない。物音も聞こえない。死とは、そういうものだ。
死は穴ぼこのように私たちの日常の只中に現れる。これまであったはずのところに、あったはずのものが、ない。あったはずの音がせず、あったはずの人がいない。
ない、いない、というとても単純なこの出来事に、私たちは慣れることができない。この欠落は、人生に何度訪れても、いつも慣れることがない。
インドの言語哲学などが専門だった畝部さんの研究については、私は語ることができない。私にとっての畝部さんは、穏やかな隣室の先輩であり、歳の近い同僚であり、いくつかの委員会を一緒に担った仲間だった。それだけにすぎない、ともいえる。そうした私のような比較的小さな穴ぼこから、生活と人生のほとんどを覆ってしまうかのような大きな穴ぼこに向き合うことになった人まで、さまざまな欠落を残して、畝部さんはいなくなった。
研究室で本を読んでいるふとした時に、隣室の静けさに思い当たる。メールを書くその合間に、物音がしたような気がして、彼はもういないと思い返す。
今日の偲ぶ会で、畝部さんの同僚でやはりインド思想の研究者でもある和田壽弘先生が、スピーチでこんなことを言っていた。浄土へ行くと言うけれど、最近はあまりこういう言い方は一般の心に響かないかもしれない。代わりに、たとえばこう表現してみたらどうだろうか、《彼は永遠の時間の流れの中に溶け込んでいったのだ》、と。千年単位で文化を見ている碩学の言うことは、やはりすごい。
時間はだれのところにも隔たりなく流れてきて、分け隔てをすることがない。過去のあらゆる人のもとでもそれは流れていて、未来のあらゆる人のもとでもやはり流れ続けている。死が、その滔々と流れる圧倒的な時間の大きさの中に《溶け込んでいく》ことであるとするならば、私たちは死者の行方を案ずることなく、そして残された私たちの行く末をも思い煩うことなく、ただそのすべてを飲み込んで流れ続ける大河の中にすべてを委ねていけばいいということになろう。それはなんという安心だろうか。
一方でふと、こうも思う。私たちが、とりわけなにかを創り出そうという私たちがもがくのは、その一切合切を飲み込む流れの中になんとか棹さして、自分がそこにいたということや、自分がその流れに何ものかをつけ加えたということを、言い張りたいがためではないだろうかと。
私は畝部さんが、どんなつもりで研究に取り組んでいたのか話したことはない。千数百年以上前のサンスクリット語を読みながら、それを今この時代に語り直していく作業に、彼はどんな価値や歓びを見い出していたのだろう。千年を超えてつらなる言語と思想の今いちばんこちら側の端に、そしてこれからも千年単位で受け継がれていくだろう文化の相続の中に、自分を置き、そこでなにごとかをなしたいと思っていたのではなかったか。聞いてみたかった気がするし、聞いても「そんな大したことは考えていないですよ」と、はにかんで笑って済まされるだけだった気もする。
流れ続ける時間の中に、死者への思いを放つことは、おだやかな安心をわたしたちにもたらす。ただ一方、わずかであってもその流れの中に小さな小さな杭を、流れていかない杭を立ててみたいと思うのも、やはり人の心に沿った考え方なのかもしれない。
静まりかえった壁の向こうのことを思いながら、私もほんの少しだけ、畝部俊也さんのことをここに書き残して、流れ去っていくものに抗っておきたい。
文科省的には教育勅語を活用してもいいらしい
文科省が予算委員会で、教育勅語を活用してもいいと答弁している。
夫婦仲良くしなさい、とか、友だち同士信じ合いなさい、ということを教えるのに、教育勅語が必要なのか、と考えてみればわかる。それくらいのことなら、ちびまる子ちゃんをつかってだって教えられる。教育勅語を使いたい人々は、夫婦仲とか友だち関係とかを向上させたくて、これを使うんじゃないんだよ。
文科省は、用意してきた答弁で言ってるから、でまかせじゃない。
政治家じゃなくて、役人がこういうことを言うのって、ほんとに肝が冷えていく気がする。
教員関係の人は、「本省」がこうなってること、覚えておいた方がいい。
教育勅語につきましては、明治二十三年以来およそ半世紀にわたって我が国の教育の基本理念とされてきたものでございますけれども、戦後の諸改革の中で、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念として扱うことなどが禁止され、これにかわって教育基本法が制定されたところでございます。
http://www.kiyomi.gr.jp/info/10841/
こうしたことも踏まえまして、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念として戦前のような形で学校教育に取り入れ指導するということであれば適当ではないというふうに考えますが、一方で、教育勅語の内容の中には、先ほど御指摘もありましたけれども、夫婦相和し、あるいは、朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれているところでございまして、こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えないものと考えております。
排除型社会とマイノリティー 現代文学はどう向き合っているのか(研究報告)
土曜日、韓国日本学会(@高麗大学、2017年2月18日、第94回国際学術大会)に行って参ります。
私の出番は日本文学分科2。
マイノリティーと文学・文化-ジェンダー・身體
1武内佳代(日本大)
松浦理英子『犬身』におけるジェンダーの錯綜―クィア化される「ケアの倫理」2 金孝眞(서울大)
女性向けメディアとしてのティーンズ・ラブ(TL)の分析:漫画作品の事例を中心に3 日比嘉高(名古屋大)
http://www.kaja.or.kr/modules/bbs/index.php?code=notice&mode=view&id=87&___M_ID=80
排除型社会とマイノリティー-現代文学はどう向き合っているのか