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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

 こどもと「虚構」

子供は「嘘」をつく、

トーゴ氏も嘘をつき始めた。ときどき、自分でやったことを、否定したりする。

ここで書いてみたいのは、だがそういうレベルの「嘘」ではない。トーゴ氏は、しばしばその必要もないのに「嘘」をつく。たとえば、私と一緒に珍しい車を見つけてうれしがった後、「とうくん、この車、乗ったことある」という。もちろん、そんな経験はない。あるいは、父や母の仕事の出張の話を横で聞いていて、「とうくん、東京いった」、という。もちろん、「嘘」である。

どうしてこんなことを言うのか、と最初不思議に思った。記憶が混乱しているからなのだろうか、というようにも、考えた。

先日、NHKスペシャルの、超常現象の特集を見た。

こういうの、好きなのである(笑)
そこで、「前世の記憶」について真面目に研究している学者を見た。三歳ぐらいから語りはじめて、たしか小学生ぐらいでそれをやめる子供が多い、と紹介されていた。

脱線するが、その研究者は2500例ぐらいのサンプルを集めて、数十例の「これはほんとにそうかも」という例を見つけている、という話だった。私はこれに懐疑的である。

これは「予言」と同じ構造を持っていて、ある断片的な言葉をもとに、現実世界に対応物を探す。現実世界は広いから、多少突飛な言葉であっても、現実に対応する事物や出来事が存在する例がしばしばある。しかも、解釈が存在する余地があるから、「●年に御使いが現れる」であっても、「クローゼットの中に銃がたくさん入っている場面のある映画」でも、そういう対応物が見つかってしまうことがある。
そうすると、その「予言」や「前世の記憶」は、本当のことだと思えてしまう。
検証例を増やせば増やすほど、そういう偶然の一致も増える。

さて、トーゴ氏の「嘘」であるが、

むろん予言でも前世の記憶でもない。悪意があったり、周囲をだまそうとしているわけでもない。私はこれは、コミュニケーションへの欲望からくる、会話の糸口さがしではないかと考えている。

トーゴ氏ぐらいの子供にとって、ものごとの真偽は、さほど重要ではない。しかも、記憶もあやふやだし、世の中で起こりうることとそうでないことの弁別も、ほとんどできない。
彼はたんに、周りと話したいのだと思う。きっと「前世の記憶」を語る子供達のスタートも、きっとそこにあるに違いない。

虚言癖というのがある。

つい嘘をついてしまう性癖のことである。もしかしたら肉体的な(すなわち脳の)形質に由来する病理なのかもしれないけれど、軽い日常的な意味でいう場合の虚言(癖)は、たいてい人間関係のプレッシャーからくる。目の前のトラブルや困難を避けるため、あるいはその場をよりよい雰囲気にしようという配慮が昂進して、虚言になる。この意味で、嘘はコミュニケーション円滑化のツールである。


保育園からの帰り道、ほぼ毎日のようにトーゴ氏と交わす会話がある。車が、ある白い壁、白い塀の家の前を通る。ここにはクリスマスシーズン、青い電飾が盛大に飾ってあった。あるとき、この電飾が片付けられた。トーゴ氏はそれに気づく。
「クリスマスの電気、ないねー」
「うん、なくなったねー。片付けたかな」
「なに?」
「お家の人が片付けたんだと思うよ。ナイナイしたんだと思うよ。もうクリスマス、終わったからね」
「とうくんが、やった」
「うん?」
「とうくんが、隠した」
「隠したの? とうくんが?」
「うん、隠した」
「隠したら困るじゃん。お家の人、見つけられないじゃん」
「うん、隠した。とうくんが」
「へー、どうすんの。困るじゃん」
3月になった今でも、飽きずにまだやっている。
会話に特に深い意味はないのだ。目の前のきっかけをもとに、言葉のキャッチボールをする楽しみを、たぶん彼は知りはじめた。だがら、大人にとってそれが虚構だったとしても、子供にとってはそれが本当だろうが嘘だろうが、どうでもよいのである。

なお、子供にとって内容はどうでもいいのだが、

大人にとっては、この虚構はけっこうおもしろかったりする。彼のレベルに合わせて、情報の切れ端を与えてやると──たとえば、東京には新幹線で行ったのか、とか。お家のどこに隠したのか、とか──、彼の虚構世界が膨らんでくる。意味のない会話だが、イマジネーションの拡張を共有するのは、なかなかおもしろい経験だ。