日比嘉高研究室

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主人公になる――『かいじゅうたちのいるところ』を再読しつつ


以前、「内面という境目」というエントリを書いたことがあった。子供がだんだん目の前の他人のなかに、「内面」を見いだしているらしいということを、本を読む経験の共有から考えてみたものだった。昨年の11月あたまだったから、二歳直前だ。今日はその半年後の続編を書いてみよう。

「心の理論」の成長

ここ数ヶ月になって言うようになった言葉に、「おとうさん、いま何考えてたの」とか、「とうくん、いま何しよっかな、って考えてたんだよ」などというのがある。自分や目の前の他人の心の中についての発話だが、かなり複雑なことをするようになっているようだ。

「おとうさん、いま何考えてたの」という言葉から、彼の中の「心の理論」が成長しつつあるのがわかる。「心の理論」、要するに他人がどう考えているはずか、というのを推察するヒトの能力である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
トーゴは、私の心がいまここにないようすを観察して、お父さんは何かを心の中でしているのだと思い、それがなんなのか確かめたいと感じるようになったようである。

「とうくん、いま何しよっかな、って考えてたんだよ」というのは、自分がおもちゃの前などで立ち止まっているのを、私が見ているときなどに言う。ここで彼が言おうとしているのは、僕が何を考えているかお父さんにはわからないだろうから僕が何を考えているのかを教えて上げる、ということである。つまり、自分の心の内を、他人がどう推測するだろうかということを考えて、他人によるその推測が上手くいかないだろうと思って、自ら伝達しているわけである(実際にはもっと直感的に、自分の事を教えたいと思っているのだろうが)。

こうしたことから、彼の中の「人の心」をめぐるやりとりが複雑になっていることがうかがえる。そしてまた、彼がそうした内面の忖度の仕合=「心の理論」の応酬によって、心を伝達し合いたいという欲求をもってきていることもわかる。

絵本の読み方の進化

こうした心の成長と連動して、絵本を読むときに面白い変化が現れた。絵本の登場人物に、自分や家族を当てはめるようになってきたのである。主人公の少年や親子連れを指し、「これ、とうくん」とか「これ、とうくんとおかあさん」などと言うようになった(例によって絵本は〈お母さん帝国〉なのでお父さんの出番は少ない)。

文学研究をしている人間として、ヒトのこの「成り代わる能力」が獲得されていくようすを見ることができたのは、とても興味深かった。これは、ごっこ遊びと同質の能力だなと思った。子供は成長するに従って、お母さんになったり、お医者さんになったり、犬になったり、ワニになったりして遊びはじめる。依然、このブログでも「ゴトーさんごっこ」について書いたことがある。ちなみに最近のトーゴの流行は、宅急便やさんごっこである。息子よ、佐川萌えを目指せ(いや、やめとけ)。

佐川萌え

佐川萌え

この自分ではない者に仮想的になりきる能力が、本の中に振り向けられるようになったとき、子供にとって絵本の読み方の革命的変化が起こるに違いない。この能力を獲得して始めて、子供は絵本の中の世界で生きることができるようになる。

幼児向け絵本の登場人物たちの心理には、描かれない空白が多い。主人公の行動は描写されるが、心理はほとんど描写されない。比較的ストーリー性をもつ絵本でもそうだ。たとえば『かいじゅうたちのいるところ』『ぼくがとぶ』でも、「おかあさんはおこった」と出てくるが、主人公マックスが怒られてどう思ったかは描出されない。怪獣たちが騒ぎ始めてマックスは「うるさい、しずかにしろ!」というが、彼がどうしてそう言い、こう言うことによって彼が何をしたいのかが説明されることはない。『ぼくがとぶ』は飛行機を作成してとぶ男の子の一人称の話――聞き手は読者と一致する構成――だが、彼は自分の行為は説明するが、心理は語らない。「ぼくが何を作っているかわかるかい?」「ひこうきだよ。ほんとうに、そらをとぶひこうきだよ」「あがれ、ぼくのひこうき、あがれ」(暗唱できる自分を発見(笑)) だが、どうして「ぼく」が飛行機を作りたいのかは説明されない。

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

ぼくがとぶ

ぼくがとぶ

トーゴは、このマックスや、「ぼく」を指して、「これ、とうくん」という。

心理描写の空白の多い絵本は、「心の理論」が素朴な状態である幼児にとっては、読みやすいものだろう。たとえば「マックスは、晩ご飯を抜きだと言って怒っているお母さんを見て、それはおかしいと感じた。だってそうじゃないか。おかあさんは仕事が忙しくて晩ご飯を作るのがいつも遅くなるんだもん。それを待っている間に僕がちょっと部屋の中で遊んでいて、何が悪い?」という描写がなされたとしたら、幼児は付いてこない(当たり前だw)

空白を埋める

空白を埋めるという作業は、その人が持っている既存の知識や行為の枠組み(フレーム)の豊かさに依存する。細密な心理描写をもつ近代小説でさえ、実際の人間のあまりに広く豊かな心の動きを捉えきれているわけはないから、必ずそこには空白が残る。私たちは登場人物たちの心や行動の空白を、自然と、(意識しないうちに)穴埋めして補いながら読み進めている。(参考:読解の「デフォルト値」の問題として論文を書いたことがあります) 子供は持ち合わせている知識や枠組みが少ないので、空白だらけの内面しかない登場人物たちを、わかる範囲で穴埋めしながら読んでいるのだろう。

しかし、心の理論が育っていけば、どんどんと読みは豊かになっていく。たとえば、マックスが南の島から帰ってきて、自分の部屋にごはんがあるのを見た時に、感じたはずの心を、推定して同調することが可能になる。一度目は失敗し、二度目に空へ飛び立っていく時の、ひこうきとひこうき乗りの少年の後ろ姿の大写し画面を見ながら、少年と同じように期待と興奮をもつこともできる。

「心の理論」は、こういうことを繰り返すことによって、成長する。本は、やはり〈感情教育〉の道具というべきなのだろう。私たち大人もまた、そうした本との応答によって、感情や思考を複雑にしたり、単純にしたりしているはずである。

ところで、

かいじゅうたちのいるところ』をお持ちの方、最後にマックスが帰ってきた部屋に変化が起こっているのに気づいていただろうか? 私は最初気づいていなかったが、妻が、月が満月になっているということに気づいた。なるほどよく見ると、木の枝振りも変化しているようである。この月の変化を気にせずに読むと、『かいじゅうたちのいるところ』は、おかあさんのところから出て行ったと思ったけれど、いつの間にか(その日その部屋に)帰ってきた、よくある異界訪問譚となる。が、この月の変化に気がつくと、少し読み方が変わってくる。

  

ネットで検索すると、このことに気づいている人の文章もいくつか出てくる。月の変化は心の変化を現す、とか、月の変化は実は月蝕なのだとか。

妻はこれを、実際に時間が経過したのだと解釈する。おかあさんは、その間、ずっと晩ご飯を運び続けてきていたのだと。とても温かい物語になる。

このエントリを書くために読み直していて、私は月が満月になったときの描写に目をとめた。それはマックスとかいじゅうたちが、もっとも盛り上がって踊り狂うときだ。「「では みなのもの!」 マックスは おおごえを はりあげた。「かいじゅうおどりを はじめよう!」マックスのこのかけ声とともにページをめくると、そこには満月がある(下図)。それまでの月は、三日月。このあと月は終わりまでずっと満月がつづく。

おおかみ、満月、かいじゅう、と来たら、これは狂気の印である。幼児の(大人の目から見て)度外れた暴れっぷりが、おおかみのぬいぐるみを着て暴れまくるマックスの狂気に託されているとすると、その狂気はかいじゅうたちの島で頂点を迎える。

物語はこのあと「やさしい だれかさん」への郷愁と、「おいしい におい」に呼ばれてマックスが日常へと回帰する軌跡をたどる。お母さんの晩ご飯のある部屋へと戻ってきて、一件落着めでたしめでたしと読むべきところだが、満月に着目すると、読みは変わってくる。


マックスの狂気は、継続する。満月がまだ満月なのだから。
あなたの家のマックスも、まだまだ暴れやめることはないだろう。