読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

こどもの顔


(写真換えました。2012.4.26)

赤んぼうを連れていると、

必ずと言っていい程、親の私と(あるいは妻と)似ている、似ていない、という話になる。私自身、子供の顔をまじまじと見たとき、そういうことを考えた。文化的なものなのか、生物的なものなのかよくわからないが、血縁関係のある顔を「見比べる」という習性は、我々に根深く染みついている。養子縁組みの親子など、きっと聞かれるたびに心がチリとするだろう。

 ちょっと前に、人と話していたときに、その人が面白い言い回しをした。やはりそのときも何人かと私の息子がどっちに似ているか、というような話をしていて、私が両方に似ている、それどころか私の弟たちや義父にも似ている、というような答え方をしていたら、その人が「まだ、誰に似ようか決めかねてうろうろしてるんだよね〜」といったようなことを言った。日に日に変わっていく子供の顔を、あたかも彼が主体的に思い悩んでいるかのように言ってみた、面白い表現だった。

「家族的類似性」

という概念がある。
私たちは、野球/サッカー/かくれんぼ/チェス/囲碁/しりとり/なぞなぞ/・・・ などといったひとまとまりの集合を示されて、それを「ゲーム」というように知覚することができる。どれも本質的に共通する要素は持っていない。しかし、部分的に共通する要素は多く、それらが網状に重層して連関し合っている。そうしたすべてに共通する要素はないが互いに近似した要素の累積がゆるやかに形づくる集合を考える際に、ウィトゲンシュタインは「家族的類似性」という言葉を編み出した。人間の、いいかげんだが、高度な認知能力を名指した重要な概念で、認知科学の領域でもベーシックな概念になっているようだ。

 こうした概念に、「家族」の語を持ってきたウィトゲンシュタインは、とても明敏な人だと思う。全員が同じ目をしているわけではない。全員が同じ方をしているわけではない。しかし、誰それと誰それは似たような口を持ち、誰それたちは同じ肌を持ち、そのように耳や骨格や紙や声やが、ところどころで似通い/似通わず、そして「彼ら」が集合したときに「家族的類似」が立ち上がる。ああ、この人達は何となく似ている。家族なのだな――。

子供の顔が、

さまざまな親戚に似ているということは、不思議なことだ。たとえば私の子供は、私にも似ているが妻にも似ている。寝顔が私にそっくりだったときもあるが、目をあいて何かを見つけているときの顔が妻に似ていたりする。しかしそれだけでなく、ソファの上で取ったある一枚の写真は私の下の弟の子供時代と瓜二つであり、眉根にシワを寄せて(赤んぼうのくせに)何かを凝視するようすは、私の上の弟の表情以外の何物でもない。そして彼は義理の父にも似ており、義理の妹にも似ており、いとこたちにもしばしば似ている。どうしたことか。

 人の顔というのは、たぶん受容理論のいうところの「テキスト」の概念と同じようなものだろう。それは、物質でもなければ、人間の脳内のイメージでもない。その中間に、両者の相互作用によって現出する何物かだ。小説は、たしかにインクのシミによって紙の上に定着してある文字の連鎖を指すものである。それと同時に、小説は読者がその文字の羅列を読むことによって脳内に構築していくものでもある。ヤウスは、「テキスト」とは前者でもなければ後者でもなく、その間にあるものだと述べた。顔も同じだ。それは一群の生物的な器官の外貌が形作る輪郭、凹凸、肌理の総称である。と同時に、人の脳内に蓄えられた記憶としてのその人の顔である。そして私たちの世界の中の「顔」とはその両者のあわいに現出し、揺れ動くものなのだろう。

 私たちの脳内には、認知科学でフレームとかスキーマとかと呼ばれる記憶のピースがある。それはステーキの切り方とか、電話のかけ方、などというように私たちの行動をパッケージ化して格納しているものだ。(本当にあるかどうかではなく、そう考えるとうまく説明が付く、という操作概念だ) 私たちはそうしたスキーマを大量に蓄え、それを適宜参照することによって、日常生活を効率的に過ごしている、とされる。

 顔にも、きっとスキーマがある。それは個別の人間(個体)のイメージとしても格納されているだろうが、ある種の連関性をもたされて収蔵されているだろう。血縁や社会関係や時期、出会った場所などと紐づけられ、整理されていることだろう。そして私たちは、ある顔を見たときに、単にその顔を物体として認知しているだけではなく、脳内に格納した顔のスキーマを引っ張り出し、それと対照して、ためつすがめつしながらその顔を捉える。

 私の子供の、額に皺を寄せ、眉を寄せ、口をぶっと結び、じぃーっと物を見つめる表情を見たとき、なんとこの顔はTの顔に似ているだろうと思ったものだ。T、私の上の弟は、よくこの顔で物を見つめていた。そして私は、幼いその顔を、間近でよく眺めていた。その私も幼かった。弟のその表情を、その顔をする弟を、私はもう三〇数年忘れ去っていた。しかし、息子の表情が、その古い記憶を引きずり出してきた。顔のスキーマに紐づけられていた、私の古層の記憶だ。

なお、「似ている」ということは、

家族間にのみ言われることではない。赤の他人にだって(むしろあえてその方がよく)似ている云々、ということが言われる。

 私も息子が家族以外の誰に似ているかということは考えてみたりもし、職業柄、作家の顔の誰に似ているかということも考えたりする。いま、生後四ヶ月のトーゴ氏は、超デブ真っ盛りで、「ミシュランのキャラ(ビバンダムというらしい)みたい」とか「レンコンだね、手足が」あるいは「つながったソーセージみたいだ」などという失礼千万なことを言われ続けている。そしてこれは家族的類似性に連なる一員として、私のすこぶる遺憾なことに、彼の顔は、現在のところ、作家で言えば、菊池寛中上健次西村賢太系譜に連なっている。

 ・・・・どうしたことか。