日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

最近いただいた本

和泉司さん、笹尾佳代さん、安藤宏さん、高橋修さんよりいただいた本の紹介です。


和泉さんよりいただいた。慶應大学に出された博士論文をおまとめになったもの。最近、外地の出版文化に興味を持っているので、非常に有り難く拝領。本は、懸賞、中央/地方/植民地、をキーワードに、日本統治期の台湾日本語文学を読み解くもの。
 まえがきや序に書かれているように、台湾の文学を、抵抗や民族意識に重点を置くのではなく、その背後にあった欲望――文学を書き、読み、自身を賭ける欲望――に注目しながら分析する。その姿勢はよくわかる。抵抗や民族意識に注意を払うのは当然のことだ。だがそこにのみとどまってはいられない。その先でなにをするか、という和泉さんなりの模索が、この本なのだと思う。
 中央/地方/植民地という視座は、妥当。ただし、すこし図式が単純になるきらいはある。序章に示された図式を元に言っており、本の全体像に対しては、的を外したことを言う可能性があるが、そうした同心円状の構図ではない、重層や飛躍、堆積などが、日本と中国という「〈中央〉を二つ持」(同書p.6)たざるをえなかった地域としての台湾の文学・文化にはあるのではないか。複数言語・翻訳・書物流通などから、和泉さんの構図をさらに複雑化できないか、というようなことも考えた。後半を読むのが楽しみ。
 しかし、こうした植民地や移民の研究を、直接の当事者ではないが、しかし歴史を考えれば当事者でないとは言えない、というような立場から研究をすることには、迷いや躊躇が付きものだ。「旧宗主国」の人間であるとすれば、なおさらだ。その“居たたまれなさ”を、どのように研究の言葉につなげていくのか。きっと和泉さんもこの本を書く過程で、そして書いたあとのいまも、いろいろ考えるところがあるだろう。


結ばれる一葉―メディアと作家イメージ

結ばれる一葉―メディアと作家イメージ

笹尾さんよりいただいた。同志社大学に出した博士論文がもとになっている。笹尾さんは私の前任校の時代からいろいろな場面でご縁があったので、研究がこのような形でまとまったことを、ともかくも祝いたい。
 この本のコンセプトは、一葉の受容史×作者概念の再検討×ジェンダー×メディア。私自身も永井荷風の受容と作家イメージの形成のことを少し考えたことがあるのでわかるが、作家像がどのように形成されていくのかを追跡する研究は、やっていてかなり面白い。Before / Afterの変容がはっきりみえたり、うまくいくと認識論的な布置ががらりと変わる現場を押さえることができたりしてする。当然、自分自身の立っている足場を問い直すことにもなる。
 一葉を選んでそれをやった、ということ自体で、すでにかなりポイントは高い。面白くなること受けあいだろう。笹尾さんの研究は、それを日記、映画、ドラマ、児童文学、教育、ラジオなどさまざまな局面において、精緻に分析して見せた。分析は多少粗いところがあるし、バランスを欠いている部分もあるように思うが、それだけまじめに資料に向き合ったということなのかもしれない。自戒を込めて言うが、バランスの良すぎる論文は、嘘くさい。
 作家像の再検討は、結局フーコーの作家の機能分析の図式の中に収まった。残念といえば残念だが、フーコーの図式自体、それほど特別なことを言っているわけではなく(誰でも思いつくなどということがいいたいのではない)、要はその機能が、個別の文脈のなかでどのように展開するかにこそ面白みがあるとも言えるので、それは不満というわけではない。が、フーコーに挑戦してもよかったかもしれない。
 なお労作の「資料 〈樋口一葉〉受容史に関する文献目録」が付されている。1907年から1955年までカバーしている。すばらしい。


近代小説の表現機構

近代小説の表現機構

安藤宏さんからいただいた重量級の一冊。値段も重量級だが。簡単にはコメントできず、いま書きながら困っているが、とりあえず初出の時に読んだものと、序章まで読んだ感想をあわせて書かせてもらうことにしよう。
 どれくらい重量級かというと、第Ⅰ部の各章のタイトルは次のようになっている。「「小説家」という機構」「「言文一致」のよそおい」「一人称の近代」「「個人主義」という幻想」「反照装置としての「自然」」「表現機構としての「文壇」」「「私小説」とは何か」「自意識と「死」の形象」「交差する「自己」」。(ちなみに第Ⅱ部は各論の作品分析が並ぶ) どれも射程が大きく、簡単にはコメントできません。すいません。あとがきで著者自身が言っているが、これらの多くは、海外での講演などがもとになっているという。「近代文学研究」から距離を置いた場に身をおくからこそ、選び取れるスケールがある。個別の論旨にたとえ疑義があったとしても、その姿勢に私は賛成する。細かいことばかりやっていても、自分用の言葉、身内の言葉しか話せなくなるばかりだ。
 安藤さんの理論の特徴は、人間の主体をいったん消してから立論するところにある。「機構」というキーワードがそれを示すだろう。そして「小説」というものをあえて擬人化し、「騙り」や「よそおい」といった言葉で、その振る舞いを記述しようとする。「騙り」「よそおい」「事実」「伝承」「状況」「とらわれ」など、安藤さん独特のやわらかい術語が選ばれて配置されていくが、目指すところは小説の語りの仕組みを、いかに内部的に記述し、そして外部その相互関係のもとに置くのか、という近代文学研究の王道の問題設定である。だからこそ、小説家や言文一致、一人称、自然、文壇、私小説、自己などという大きなキーワードが並ぶ。作品論とその一バージョンである語り論が、文化研究という外部志向の大波をかぶった後、どのような一歩をさらに進めるのか、その試みの足跡として読んでよいのではないだろうか。

主題としての“終り”―文学の構想力

主題としての“終り”―文学の構想力

高橋さんからいただきました。二葉亭四迷、森田思軒、徳冨蘆花夏目漱石坪内逍遙芥川龍之介深沢七郎村上春樹などのテクストを論じたご単著。
〈終り〉を論じるというと、普通はその小説がどのように終わっているかとか、終末というテーマをもつ小説を論じるとか、そのように想像することが多いでしょうが、著者の問題設定は違います。人間は、ものごとをカオスのまま捉えることを得意としない。それを整序づけて捉えようとしてしまう。つまり始まりがあり、途中があり、終わりがある。その整序の構造を与えるときに、イデオロギーが付与され、暴力が潜む。テキストの内部的な分析だけではなく、「テクストの外部たるその時代の想像力」(p.6)を考えていこう、というのが著者のもくろみです。著者自身、あとがきで仰っていますが、この内部と外部をつなぐ手つきこそ、文学研究が文化研究へ舵を切った道筋の一つがあります。院生の頃、そうか、こうやって内と外をつなぐのか、と勉強したことを思い出します。
 ただし、そういう方法論的なところへの注目だけではなく、高橋さんの真骨頂は綿密な調査と精読の両輪にこそあると思います。この前、「浮雲」シンポでご一緒し、準備の過程でこの論集に収められた数々の論文を読み直しましたが、その質の高さに打ちのめされ、ううう怖いと思いながら当日会場へ足を運びました。。。
 各作品の研究史のなかでも必読の論文が並びます。待望の論集ですね。