日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

沈丁花 記憶の遠い経路

香りの記憶を私たちは呼び起こすことはできないけれど、香りは私たちの記憶を呼び起こすことができる。

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f:id:hibi2007:20150322172434j:plain:right:w200沈丁花の花が咲いていた。子どもを連れて近所の寺に桜を見に行ったその道、見つけたその花に、顔を寄せてみた。沈丁花、いいにおいだよ、と子どもにも嗅がせる。「ぢんちょうげのにおいだね」とわかったようなことをいう。

胸の奥までその香りを吸い込んだとき、ふいと、いきなり記憶が蘇ってくる。

今はもう亡くなった母方の祖母の家。戦前に建てられた古い長屋の借家だった。夕方もうかなり暗くなった時間に、母と祖母と弟たちと、近くの銭湯に出かける。その、玄関を出て銭湯の方を見通したその風景だ。銭湯を通り越した先にはまだ当時地上を走っていた私鉄の線路があり、踏切の音が響いていた。街灯は薄暗く、道は半分闇に沈んでいる。

おそらく私は、そのとき、沈丁花の匂いを嗅いだのだろう。春の宵闇を、家族と銭湯へと向かって歩く道々、どこからか届いたやわらかく沈んだその匂いを。

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子どものときはたくさんの匂いを嗅いだように思う。自分の子どもを観察しているとわかるが、子どもとモノの距離は、大人とは比較にならないほど近い。土を、石を、壁を、草を、食べものを、人を、動物を、彼らはとてつもなく近い距離で触れる。私は子どもを育てるようになるまで、石の匂いを忘れていたし、草をちぎった後の手の匂いを忘れていた。

私たちは、香りの記憶をうまく呼び起こすことができない。そのとき住んでいた部屋の匂いであるとか、そのとき食べたはずの食べものの香りであるとか、そのとき嗅いだはずの肌の香りであるとか。思い起こそうとしても、それらはうまく蘇ってこないことが多い。

けれど、香りは、私たちの記憶を呼ぶことができる。いま胸に下りたその香りが、唐突に何かを想起させる。長く切れていた経路が突然つながり、私たちはめまいがするような想起の波の中に引きこまれる。

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あの著名なマドレーヌのエピソードがそうであるように、香りや味、そして音楽などが思い起こさせるその記憶のよみがえり方と、視覚がもたらす記憶の想起とは、まったくその質が異なるように思う。

私たちはやはり、目に支配されているのだろう。写真であるにせよ、ひさびさに目にする風景であるにせよ、それは懐かしさを呼ぶものであったとしても、秩序だった道筋の中で呼び覚まされる何かであるように思う。

それに対し、香りや味、音は、道筋を欠いたまま無秩序に放り込まれたなにものかとして、私たちの体の中に蓄えられている。その記憶は時間や論理によって秩序だってはおらず、てんでばらばらに、しかしとても強い結びつきで、私たちの身体に刻まれている。

視覚の記憶は、秩序に従うという点において私たちになじみ深く、呼び起こしやすいという点において、“近い”記憶である。それに対し香りの記憶は、秩序だって整理されておらず、私たちの意思に反した形で唐突にしか戻ってこないという意味において、“遠い”記憶なのだ。

しかし遠いからこそ、その香りの記憶が、突然到来し、ひきずり起こされた過去の中に私たちの体と脳とを投げ入れるその力強さは、圧倒的だ。

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f:id:hibi2007:20150322163907j:plain:left:w200いま、沈丁花の花びらに鼻を付けんばかりに寄せ、深々とその香りを嗅いだ子どもは、それを記憶の中にとどめたのだろうか。

幼かったある年の春の夕方、父親と沈丁花の香りを嗅いだことは、あっという間に忘れ去るだろう。だがいつか、どこかの街で彼が沈丁花の香りを嗅いだとき、唐突に父と訪れたその寺や、父と顔を寄せたその風景を、思い出すことがあるのだろうか。

思い出すかもしれない――、そう空想することは、それを知ることはおそらくかなわない私にとって、せつないが深い喜びである。