日比嘉高研究室

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比喩からことばをひらく(講演)

先日、尾張地区の高校の国語の先生方向けの研修で、講演をしてきました。テーマはこちらにまかせて下さったので、以前からの持ちネタの一つである、比喩の話をしてきました。題は「比喩からことばをひらく」。

私の専門は日本文学・文化研究ですが、認知言語学の議論に前から興味があって、我流で勉強をしています。そのなかで、私が最初に一番興味を持ち、また今の仕事とか、前の職場(教育大の国語教員養成)で役に立ったものの一つが、認知意味論の比喩、とくにメタファー(隠喩)の話でした。

メタファー、たとえば「滝のような汗」のようなやつのことです。

学校教育だと、ふつう隠喩は「たとえを用いながらも、表現面にはそれ(「如し」「ようだ」等)を出さない方法。白髪を生じたことを「頭に霜を置く」という類」(広辞苑)みたいに説明すると思います。

しかし認知意味論的にいうと、メタファーというのは、写像関係・転写関係です。ソースになる領域についてのイメージ(滝)を、ターゲットになる領域(汗)に写像する。我々はこの認知プロセスによって、ものごとを、より簡単に・効率的に・生き生きと理解しているわけです。

それだけではない。認知意味論の主張によれば、メタファーの理解とはこうなります。

「メタファーというのは、ただ単に言語の、つまり言葉遣いの問題ではないということである。それどころか、筆者らは人間の思考過程(thought processes)の大部分がメタファーによって成り立っていると言いたいのである」
レイコフ&ジョンソン『レトリックと人生』7頁

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面白いですよねぇ。

それで、こんな感じの話をしながら、教科書の文章や、一般的な文章をもとに、比喩の前で立ち止まり、それをかみ砕いて味わってみよう!というような方向の話を、10年ぐらい前から、前任校時代の授業とか講演とかで話していました。

今回、久々に話すにあたって、これをちょっとだけバージョンアップしました。ネタもとは、鍋島弘治朗『メタファーと身体性』でした。この本、文学研究者にとっても超重要です。今年の後期、名古屋大大学院の私のゼミで取り上げますよ。

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この本の眼目は、メタファー理解に1990年代以降、いろんな分野で進行した身体(性)の議論を導入した点にあります。鍋島さんによる、メタファーの再定義はこうなります。

「「メタファーとは、現実とは異なるフレームの経験を想起し、その仮想的経験から生じた推論、知覚・運動イメージ、情動を現実に対応づける行為である。」
鍋島弘治朗『メタファーと身体性』ひつじ書房、2016年、89頁

私は単に、メタファーとは写像関係だとざっくり理解していましたが、「推論」「知覚・運動イメージ」「情動」が転写されると言われると、マジでうなります。例を出します。

「この前行った歯医者は、ほとんど拷問だった。」(日比・作)

リアルに想像すると、

ひー…。
ひー (>_<)

となりませんか。

なぜ、「ひー(>_<)」となるのか。それを解く鍵が、メタファーのもつ身体性にあります。写像のプロセスの中で、われわれは「推論」し「知覚・運動イメージ」を再現し、「情動」を喚起する。そしてそれらは、単に想像の中だけでなく、実際の身体・脳の反応として現れる、というわけです(鍋島さんはミラーニューロンなんかの話もされています)

たいていの人は、歯医者に行ったことがあるでしょう。あのベッド、そこから見上げるまぶしいライト、マスクと眼鏡をした歯科医、キュイーンという削る機械やら、唾液を吸い取るゴゴゴーというチューブやら、歯ぐきにブッ刺される注射針やら、なにやらかにやら、という音やら痛みやら匂いやら姿勢やら記憶やら、というのが私たちの身体/脳に埋まっています。歯医者に行くとはこういうこと、という一連の〈歯医者フレーム〉が、身体化されているわけです。

歯科治療を拷問で喩えた(歯医者さんすいません)上記のメタファーは、そうした〈歯医者フレーム〉を呼び起こします。拷問を受けたことのある人はほとんどいないでしょうが、そのイメージを持っているはずです。自由を奪われて、身体的あるいは精神的な痛みを一方的に与えられるというその拷問ついてのイメージや推論が、〈歯医者フレーム〉を喚起し、歯科医院における知覚やら運動イメージ、情動を呼び起こす、というのですね。

いやー、面白い!

という話をしてきました。鍋島さん、ありがとうございます。ご著書、宣伝しました。ちなみに前段では、高橋英光『言葉の仕組み――認知言語学の話』(北海道大学出版会2010年)を参照したのでした。高橋さんのも宣伝して来ました。(あ、わたしは鍋島さんとも高橋さんとも知り合いではないです)

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