電子ジャーナルと学問のコスト
最近、所属先の大学が、
ある電子ジャーナルのパッケージの購読を止めた。「電子ジャーナルのパッケージ」というのは、販売会社がまとまった数の雑誌を一括して販売している商品のことである。べらぼうに、高い。
部局で割って負担していたので全額ではないが、所属部局がその某E社の商品の購読のために負担していた金額は200〜300万円/年だったような気がする(不正確ですいません)。パッケージで買うことはやめたので、代替措置が提案されてきた。
1.図書館から他大学等へ複写依頼を行う(無料〜数百円)
2.クレジットカードで支払う(1論文30ドル)
3.「トランザクション料金」の前払い制度を利用 (100件の場合 1論文 28ドル 予定価格28万円/200件の場合 1論文 25ドル 予定価格 50万円)
現実的には1を利用するからよいだろうが、もしそれが不可能な場合、1論文につき約3000円である。ばかげている。
電子ジャーナルの価格の高騰
については、以前から興味があった/腹を立てていたので、ちょっとググってみた。やはり同様に怒っている人々がいた。まず紹介するのは、ハーバード大学図書館が2012年4月17日に職員に対して出したあるメールである。(私はio9.comというサイトに掲載されていた「世界で最も金持ちの大学でさえ学術雑誌の購読料が支払えない」と題する記事によって知った http://io9.com/5904601/the-wealthiest-university-on-earth-cant-afford-its-academic-journal-subscriptions)
ハーバード大学図書館の諮問協議会が、教員たちに送ったメール「Faculty Advisory Council Memorandum on Journal Pricing : Major Periodical Subscriptions Cannot Be Sustained」に曰く、
- 同大学図書館は主要な雑誌、とくに電子ジャーナルの購入を続けることができない
- ハーバード大学図書館が雑誌の販売会社に支払う金額は、年額で3,750,000ドルに達しようとしている
- いくつかの雑誌は、単独で年40,000ドルもする
- 二つの販売会社の販売レートは、過去6年で145%も値上がりしている
- いくつかの販売会社は、著名な利用率の高い雑誌と、そうでもない雑誌を抱き合わせ販売している
- ハーバード大学の構成員には以下のことを薦める:
自分のすべての研究成果物をオープンアクセスな状態にする
http://isites.harvard.edu/icb/icb.do?keyword=k77982&tabgroupid=icb.tabgroup143448
論文の投稿は、オープンアクセスの雑誌か、まっとうな値段設定の雑誌に行う
もし雑誌の編集委員などになっているなら、その雑誌がオープンアクセスになるように努力する。さもなくば委員を辞めることも検討する
など
ちなみに、ここで名指しは避けられているが、おそらく批判の対象となっている販売会社E社にたいしては、研究者たちの抗議署名も募られているようである。
The Cost of Knowledge
http://thecostofknowledge.com/
学問をするのにお金がかかる
ということは、残念ながら真実である。実験機器や資材の購入、旅費、人件費、資料費その他もろもろ。より研究資金を集めやすい機関に勤めている研究者の方が、研究上有利なことは言うまでもない。
だが、だからといって、不合理なまでに高価な費用がかかることは許されるべきではない。とくに論文というのは、研究者にとって水や空気にも等しい「環境」である。それなしには息(=研究成果)を吸うことも、吐くこともできない。寡占性を盾にとって、そこから暴利をむさぼるとは、けしからんことこの上ない。
日本の人文科学系の多くでは、
ここで危惧されているような状況はまだ起こっていない。それは良くも悪くも、日本語という言語障壁によって守られている/のなかに閉じこもっているからである。だから、英語で書かれた主要な雑誌に投稿する意味も価値も少ないし、それらを読む必要性も低い。私自身の感覚では、日本語の中でだけ生きている限り、今後もこれに巻き込まれることはそれほどないのではないかと思う。(ただし、他部局が巻き込まれているので、学内の予算の割り当てで間接的に被害を受けるが)
だが、安心はできないし、似たような市場主義は、形を変えてさまざまに押し寄せてくるだろう。ハーバード大図書館の、《オープンアクセスにシフトしろ》という提言は、今後のすべての研究者/図書館にとっての金言である。研究は、活発で自由な情報の交流があってはじめて活性化するのだから。
ところでちょっと方向の違うことも
ついでに書いてしまうが、この件をアメリカ人の人文科学系の友人と話したことがある。彼ももちろんオープンアクセスの方向に賛成だったが、気になることを言った。アメリカで人文科学系の雑誌は、おおむね財政難だった。ところが、電子ジャーナル化して、大きな販売会社の供給網に入ったあとは、その悩みがなくなった。販売権を売ることで、経営が安定したらしいのだ。
これは考えさせられてしまった。潰れるよりは、高かろうが存続した方がマシだから。人文系の住人としては身につまされる話だった。市場の力は一方的では無いということだろうか。メリットも、たしかに運んでくる。
私の所属大学ではいくつかの電子ジャーナルのパッケージを買っている。そのおかげで私は、有料の、つまりノン・オープンアクセスの論文を研究室の椅子に座ったまま、検索と同時に読むことができる。その数は、飛躍的に増大した。各雑誌が、個別に経営をしたままであったら、この状況はもっと遅く到来したか、あるいはついに生まれなかったか、どちらかだろう。巨大な資本を集めた会社が全世界に売り捌いたからこそ、極東の一地方都市に住む私の机上にも、その論文は瞬時に届くようになった。
恐るべし、市場主義。
まあとにかく、
敵は巨大である。簡単に倒せないし、息の根を止めるべきでもないだろう。というか、いくら騒いでも、相手は聞く耳持たず、成長を続けるんじゃないだろうか。
オルタナティブな道を、なんとか確保すべきである。電子ジャーナルのからみで言うなら、各大学図書館が進めているリポジトリは、もっとみんな(私も含めて)活用した方がいい。オープンアクセスなリソースを増やす努力を、研究者と機関との両方が、進めていきたいものだ。
(2014.2.6 朝 追記)
研究室に届いたチラシに、
某書店の電子書籍サービスのがあった。『漱石全集』(全35巻、岩波書店、1956年版)が617,580円とある。最初一桁間違えて6万円だと思っていた。60万だった。
失礼ながら、阿呆かと思う。その書店に個人的には恨みはないが(というか営業の方にはお世話になっている)、だれがこんな企画を考えて、だれがゴー・サインを出したんだろう。この値段設定は、個人向けでなく、機関向けである。ところで、漱石全集を備えていない大学図書館があるのだろうか。。 あるかもしれない。では漱石全集を備えていない図書館は、新しく漱石全集を購入するために60万払うだろうか。漱石全集を備えていない図書館は、おそらくその他の日本近代文学の書籍の揃いも著しく悪いに相違ない。60万あれば、別の関連書籍を数多く買える。まっとうな担当者なら、そうする。
専門家には言わずもがなだが、1956年版というのも??である。新書版だ。研究の底本として使う意味は今やまったくない。というか、使ってはいけない。もっと新しく、よく練られた全集が出ているから。この版でなければならない、という特殊な事情を持った研究者以外、参照する理由はない。あるいはこの版の解説が読みたい、とか。そしてそういうマニアックな研究者は、この本のために60万払わない。そこら中の図書館にあるし、複写は頼めるし、なにより古本屋で全巻揃いで5000円程度で売っているからである。
ばかばかしい。(すいません、昨晩の勢いで、つい怒りに駆られてしまいました(笑) 悪しからず)