日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

ツイッターは教祖/信者の構造を強化する、と言ってみる

ユルゲン・ハーバーマスツイッターを始めたらしい。始めたらしい、といっても今確認してきたら、最初の投稿は昨年の11月30日のようであるが。それから今まで23のツイートしかしていないようだが、フォロワーは7139人である。すぐに5桁行くだろう。何がすごいって彼自身がフォローしているのは0人だということだ。かっこいい(笑)

ハーバーマスはその後なりすましと判明(笑) が、私がひっかかった事自体、このエントリの言いたいことを補強する(要は私も「信者」の一人だったということね)ので、恥をさらしついでに上げっぱなしにしておく。…ええ、強弁ですよw〕

ツイッターはフラットか

我々はツイッターによって、ハーバーマスの「つぶやき」が手元に届けられ、まさにリアルタイムでそれを読めるようになった。すごいことだ。そしてさらにすごいことは、彼に「返信」できる(正確に言うと電子メールの返信とはかなり違うが)ということだ。ツイッターは、コミュニケーションのフラット化をさらに推し進めた、という議論は、こういう事態を目の当たりにすると、たしかにその通りだと思わせられる。

だが、とここしばらくツイッターにハマっていて、私は首をかしげる。本当にそうだろうか。

「返信」は届かない

ツイッターのもう一つの側面は、多少誇張していえば、教祖/信者の構造を再生産し、強化するというところにあると感じている。ツイッターの利用者への訴求力の一つに、有名人の個人的なつぶやきが読める、ということがある。広瀬香美がなんとかとか、バラク・オバマがなんとかとか、鳩山由紀夫です散歩しましたとか、そういうのが同時性の感覚とともに手元に届く楽しみである。そして「返信」できる。

だがその「返信」は本当に「届く」のだろうか。私がハーバーマスの「つぶやき」に「返信」したとして、ハーバーマスのもとに私の反応は「届く」だろうか。仕組みとしては「届く」。ハーバーマスは私をフォローしていないからそのままでは届かないが、私が私の返信の中に@JHabermasと埋め込み、彼が自分の「ホーム」にある「@JHabermas」をクリックすれば、私の「返信」は彼の見るモニタ上に現れるはずである。

だがその可能性は、ゼロとは言わないが限りなく低いだろう。ハーバーマスは「フォローしている人」0というまさに極限的な例だが、フォロワーが集中している著名人は、「フォローしている人」に比べ「フォローされている人」の数が圧倒的に多いのが普通である。後者の数が200、300を越えたあたりから、一般フォロワーの「返信」は現実的には届かなくなるのではないかと思う。4桁になり、5桁になると、ほぼ見ず知らずの「有名人」に何かを届けられる確率は激減する。そして、ツイッターはこのとき、著名人=教祖のつぶやきを、一般フォロワー=信者がまちうける、というトップダウン型の相貌を現す。

教祖は「お立ち台」に上る

このことは、書き手の側の意識からもたぶん言える。私のフォロワーは60数名という零細小売業状態なので、教祖の気持ちは想像するしかないが、あまり外していない気がする(たぶん)。 ツイッターの書き手は、フォロワーの数を相当気にしている。一人増える度に「増えました」とメールが届くので、当たり前である。そして、ツイートを投稿するとき、その言葉がそれらのフォロワーのもとに、リアルタイムでダイレクトに届いていくことを強く意識する。数千人〜数万人の読者のところに直接言葉が届く場において、何かを発言する、書くという行為を想像してみるといい。そこにはある種の陶酔をともなった高揚があるはずである。

私がフォローしている著名人の中には、何人かそういう場に身を置いてほぼ毎日、毎晩のように発言と返信を行っている人たちがいる。最初ツイッターに慣れない間は、彼らはひたすら本当に一人で「つぶやいている」のだ奇特なことだと思っていたが、すぐにそうではないことに気がついた。何人かのフォロワーたち(私は彼らをフォローしていないので私からは見えない)に、個人的に、あるいはいくつかまとめて返信を投げつつ、また新しくツイートしつつ、という形で、長時間の持続的投稿を行っている、というのが実態のようだ。

私には、この風景は、「お立ち台」に見える。特定の存在がオーディエンスのアテンションを惹きつつ舞台にのぼり、周囲のレスポンスを受けながら、パフォーマンスをしてみせる。パフォーマーはオーディエンスの反応を受けて演技を変える、という意味においてそれは双方向的だが、両者の関係性はフラットではない。

つぶやきを浴びると

人は、ある人の姿や言葉、身体に接触する回数が増えると、その人についての関心度が上がり、好意的な感情を持っていればその好意は増大する傾向がある。ここ二週間ほど、かなりツイッターにつきあってきた私は、いま述べた大量ツイートをする著名人たちの言葉をうんざりするほど(失礼)浴び続けた。また、大量ではないけれど、ぼそぼそとした他の著名人たちのつぶやきを聞いてきた。どちらも、ツイッター以前にはありえなかった著名人への接し方である。面白かった。が、その結果、私の彼らへの関心度は、確実に上昇してしまった。あぶないことだ。

自分が好きでフォローしているわけだから、あぶないもなにもなかろう、というのが正しい反論だが、ツイッターには、こういう面があるということを書き留めておきたい。これって、あぶない、と。

念のため補足すると、私は、ツイッターがフラットではなく教祖/信者のコミュニケーションだ、ということを言いたいのではない。ツイッターというシステムは、フラットな関係性を築くツールにもなりうるが、同時に同じシステムの上で、教祖/信者の関係性の再生産と強化も起こりうる、ということが言いたいのである。とくにそれはフォロー/被フォロー関係の非対称性が増大する規模に相関して、その様相を変えるだろう。

p.s.

しかし、なんだろね。ツイッターというのは、どうしてこうツイッター自体について論じたくなるのだろうね。これはこれで面白い問題かもしれない。

あー、このエントリ、最初はツイッターに投稿しようと思っていたけど、こっちに書いてよかったわ。こんな長文投稿したら、良識を疑われる(笑) ブログのエントリとしてだって、長すぎる。(この文章、エディタで書いてブログに貼っているからね。論文と同じ書き方。だからだらだら長くなるんだろな。ツールエクリチュールを縛るね(笑))