日比嘉高研究室

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生涯学習は私たちの社会の新しい管理形態なのか――教育再生実行会議・ドゥルーズ・学びの両義性

 現首相の私設諮問会議である「教育再生実行会議」が、先日、「学び続ける」社会と銘打って、生涯学習についての提言をしていた。

 大学にいろいろな人がいつでも戻ってきて勉強しやすくなる、というのは基本的にはすばらしいことだと思う。18才人口が減って入学者確保に躍起になっている大学にとっても利点のある話だし、一定の年齢に達したあと、もう少し/もう一回勉強したいな、と思っている人にとっても魅力的な話である。

 両者めでたしめでたしで、私も基本的には賛成なのだけれど、話はそれほど単純でもないということを書いてみる。取り上げるのは今触れた教育再生実行会議の第六次提言と、哲学者ジル・ドゥルーズの管理社会論である。

 話の骨子を先に書いておくと、教育再生実行会議のいう生涯学習は、人々の「再-学生化」ではなくて「再-人材化」の方策で、教育政策の顔をした経済政策の色が強いということ。そしてそれは現政権の問題であるが同時に「管理社会」としての広汎な現代社会の問題でもある、ということである。

教育再生実行会議の第六次提言とは

 提言は「「学び続ける」社会、全員参加型社会、地方創生を実現する教育の在り方について」というタイトルで出されている(2015年3月4日付)。全文は以下から読むことができる。http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/pdf/dai6_1.pdf

 冒頭、提言では、これからの教育のあり方を二つの点から考える必要があると主張されている。

 一つは、急速な経済社会の変化に応じて、職業の在り方が様変わりしている中で、生涯を通して社会で活躍していくためには、学校卒業までに身に付けた能力だけでは不十分であり、社会に出た後も、学び続けることにより、新たに必要とされる知識や技術を身に付けていくことが不断に求められるということです。
 もう一つは、働き方の多様化により、フルタイム労働以外の柔軟な雇用形態が増え、また、仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)の進展もあいまって、労働時間の短縮も見込まれる中で、これからは、一人一人が仕事以外の時間をいかに創造的、生産的に過ごすかということが、それぞれの幸せや生きがいにとって重要性を増してくるということです。そうした時間をいかし、更にチャンス・可能性を拡大できるようにすることが重要であり、そのための学びの機会を、いかに社会全体で提供できるかが大きな意味を持ってきます。

 つまり、提言は(1)社会の変化に適応し活躍するために、「学び続けること」が必要である、(2)仕事以外の時間を創造的、生産的に過ごすために個人は仕事以外の時間において学ぶ必要があり、その機会を社会全体で提供する必要がある、と言っている。それを実現するのが「社会に出た後も、多様な全ての人が、都市でも地方でも、学び、輝き続ける社会」であり、現政権の「国家戦略」なのだという。

 理念はよい、と私は思う。「~ねばならない」的な強さにするのか、「~することもできる」的なゆるさにするのかで相当違うとは思うが、「学び続ける」ことはよいことだし、仕事以外の時間で幸せや生きがいを見つけることはすばらしいことだ。

教育の提言なのか、経済・経営の提言なのか

 ところがこの提言、冒頭の導入以下、妙な方向へ進行していく。全体の構成は、生涯学習に関すること、多様な人材による全員参加型社会に関すること、教育による地方活性化に関すること、の三つからなっているのだが、特に最初の生涯学習のところに注目する必要がある。

 提言の5ページから6ページにかけて、具体的な項目が列挙されているのだが、要約するとこんな感じである。

◎ 社会人の多様なニーズに対応する教育プログラムの充実

  • 大学、専修学校等は、社会人や企業のニーズに応じた実践的・専門的な教育プログラムの提供を推進する。
  • 大学、専修学校等は、民間企業などの多様な主体の参画の下で社会人教育プログラムを開発・提供する取組を推進する。
  • 国は、アスリートの引退後のキャリア形成について企業等とのマッチングや職業能力育成などの支援を行う。

◎ 学びやすい環境の整備

  • 大学等は、社会人が仕事等と両立しつつ必要な単位を取得しやすい教育プログラムの提供を進める。
  • 社会人が24 時間いつでも学べるよう、大学等は、e-ラーニングを活用した教育プログラムの提供を推進する。
  • 国は、大学、専修学校等で、社会人が産業界のニーズに対応した実践的・専門的な学びを行う際の受講料等の経済的支援を充実する
  • 国は、大学等の学修に加え、大学等の公開講座、各種の検定試験、通信教育などを評価・活用できる仕組みを構築する。

◎ 教育行政と労働、福祉行政の連携強化

  • 文部科学省厚生労働省が連携するなど、教育行政と労働、福祉行政の連携強化を図る。
  • 事業主の協力も得て、社会人が、新たな知識・技能を身に付けるための支援策を行政が考える。

 いろいろ並んでいるが、「社会人や企業のニーズ」「民間企業など〔…〕の参画」「企業等とのマッチング」「職業能力の育成」「産業界のニーズ」「事業主の協力」などという言葉が目に付く。とりわけ◎印を付した一つ目のセクションが、教育プログラムの内容を提案しているわけだが、三つある項目の三つとも企業・就業指向であることに目を留めたい。そこでは「社会人が職業に必要な能力や知識を高める機会を拡大するため」であるとか、「就業、起業、地域活動への従事」だとか、「公的職業訓練を一層推進」だとか、「企業等とのマッチングや職業能力育成のための研修」だとかが、いわれている。

 学び続け、仕事以外の時間において幸せや生きがいを見つけることはすばらしいことだと思うのだが、教育再生実行会議の考える「学び続ける」社会とは、どうも「学ぶことによって再び企業の求める人材になること」であるかのようである。

 提言はこのあと「全員参加型社会」と「地方創生」を教育の観点から考える提言が続き、、ここはここで興味深い論点がたくさん入っている。とくに、「多様性ダイバーシティ)を認め合う社会へ」という項目については、それって「多様性ダイバーシティ)」なの?など言いたいこともいろいろあるのだけれど、長くなりすぎるのでここでは触れない。

ドゥルーズの管理社会論

 いま紹介してきた教育再生実行会議の第六次提言を読んで思い起こしたのが、ジル・ドゥルーズが言っていたことである。ドゥルーズは、『記号と事件』の中でこんなことを述べていた。

いま、手探りの状態でその形をととのえつつあるのは、新しいタイプの懲罰であり、教育であり、また治療であるわけです。開放病棟とか、在宅介護チームなどは、もうかなり以前から実現している。これから先は教育が閉鎖環境の色合いをうすめ、もうひとつの閉鎖環境である職業の世界との区別も弱まっていくだろうし、やがては教育環境も職業環境も消滅して、あのおぞましい生涯教育が推進され、高校で学ぶ労働者や大学で教鞭をとる会社幹部を管理するために「平常点」の制度がととのえられていくにちがいありません。学校改革を推進するかに見せかけながら、実際には学校制度の解体が進んでいるのです。管理体制の中では何ひとつ終えることができない。


(「管理と生成変化」『記号と事件』河出書房新社1992.4、pp.288-289。もとのインタビューは1990年に行われたもの)

 「管理」の体制の中では、我々は勉強を終えることができない! うーん、そう来たか、ドゥルーズ

「管理」の体制とはどんなものか

 ドゥルーズは、ミシェル・フーコーの考えたことを下敷きにしながら、私たちの社会が「監禁」の体制から、「管理」の体制へと徐々に移行していると見立てている。わかりやすい例は病院の例だろう。「監禁」の体制=規律社会を代表するのは、周囲の社会から切り離された閉鎖病棟であり、そこで患者は患者としてふさわしい扱いをされてふさわしい振る舞いを求められる。一方「管理」の体制=管理社会を代表するのは、デイケアであり在宅介護である。そこで患者は患者であるが同時に通常の生活者でもある。ドゥルーズはいう。「デイケアや在宅介護などが、はじめのうちは新しい自由をもたらしたとはいえ、結局はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与してしまったことも忘れてはならない」(「追伸――管理社会について」『記号と事件』所収p.294)。病院は退院できるが、在宅介護は退院できない。

 暴力的に要約すると、ドゥルーズが「管理社会」としての現代社会の特徴として考えているのは、権力が特定の組織や体制の中だけに及ぶのではなく、複数の組織を横断する形で及んでおり、これまでであれば個別の規律の論理をもっていた工場や監獄や病院や学校が、その形を変貌させながら相互に連携しあう社会になっている、ということである。その際のテクノロジー的な鍵を握るのが、コミュニケーションのツールであり、とりわけコンピュータである。

境目のない大学と、競争による不安定状態

 前述の教育再生実行会議の議論に、これはよく当てはまる。つまり、提言で言われていたことは、ドゥルーズ風に言い換えれば、「大学を終わらないものにしよう」「どこでも大学にいられるようにしよう」「企業と大学の境目を消失させよう」ということだからである。

 境界をなくした大学=企業においては、教育と職業訓練の境目は曖昧となり、キャンパスと職場と自宅の境目も曖昧となる。学生、社会人、家庭人、退職者の境目も曖昧となり、大学生活と就業時間との境目もあいまいになる。教育と人材開発の境目も曖昧となり、研究と商品開発の境目も曖昧となる。

 統治の論理も変わる。規律訓練の体制においては、個人は組織の一部であるように均質化され、集団として機能するように仕向けられてきた。個人を律するのは指令の言葉であった。これに対し管理の体制では、個人は組織に奉仕するのではなく、データ的に分割され、マーケットの論理で計数されるされるようになる。個人は集団の一部として働くことをもう要請されず、むしろ組織内で個人と個人とが競争し合うように仕向けられる。能力給は、その仕組みにもっとも適合的なシステムだ、とドゥルーズは言う。

 大学が競争的な環境に置かれ、大学同士が競い合うよう仕向けられ、教員も評価制度の下で同僚と成果を競うように促されている。年俸制の導入も急ピッチで進められている。この競争を支えているのは、すべてを数値化する「業績主義と評価」の仕組みである。この仕組みのもと、論文も学会発表は本数で数えられ、学生は頭数で数えられ、授業も委員会も担当数を数えられ、社会貢献も点数で数えられ、大学の力はランキングで測られる。教員も、学生も、職員も、大学そのものも、一人の個人、一つの大学という固有性を剥奪されて、平準化された数字の積算と比較の世界に放り込まれていく。

 これは新自由主義的でグローバルな市場経済の、大学への侵入だという風に通常は説明されるし、それは正しい。だが、ドゥルーズは別の説明の仕方をする。それは私たちの社会の新しい統治の形態だ、というのである。競争的な「不断の準安定状態」(「追伸」p.295)こそが、管理社会の論理だと彼はいう。

 大学は、私たちは、競わされているが、一体それは何のためなんだろう? 競うことは自分たち自身のためだと私たちは思っているが、競うことが管理の体制そのものだとしたら、私たちは一体何をしているのだろう?

管理社会の管理者は政府ではない

 誤解のないように言えば、ここで言っている「管理社会」というのは、首相や政府など統治者が人民を管理する社会という意味ではない。それは誰かが誰かを支配するというモデルではない。私たちの社会がどのような仕組みで動いているのかという、「仕組み」の説明であって、その仕組みは支配者/被支配者、管理者/被管理者が対になっているようなモデルではない。「管理社会」というモデルは、首相も閣僚も官僚も起業家もサラリーマンも自営業者も研究者も学生も専業主婦も退職者も――つまりすべての人々を覆い尽くす社会の仕組みを説明する理屈である。

 したがって、私はここで教育再生実行会議をやり玉に挙げているように見えるかもしれないが、この会議及びその設置者たる現首相を批判するために書いているのではない。特定の組織や人物を批判して、その偏りが正せるのならば喜んでそうしたいところだが、残念ながら問題は一首相や一政権の問題ではない。フランス人であり主にフランス社会を念頭に置いていたであろうドゥルーズの議論が、現代の日本にそのまま当てはまってしまうのがその証拠である。問題は、現代社会の統治の構造そのものなのだ。

管理社会に出口はあるか――学ぶことの両義性

 出口は、ないのだろうか。原因が一人の個人や組織になく、社会全体の仕組みそのものなのだとしたら、管理社会に抗う手段はないのだろうか。

 ドゥルーズは、同じインタビューの中で、抵抗のために重要なのは「管理を逃れるために非=コミュニケーションの空洞や断続器をつくりあげることだろう」と言っている(p.290)。管理社会がコミュニケーションを操り、情報機器によって制御される社会であるとされるのだから、この解答はまあそうなるだろう。要は「オフライン」を創り出せ、ということか。

 私はここでもう一度、「学び続ける」ということに戻って、私なりに考えてみたい。

 ドゥルーズ的な見方は、とても悲観的だ。生涯学習は、“学びが終えられない”事態と捉えられ、企業と大学との境界の消失だと見なされる。教育再生実行会議の提言をみる限り、ドゥルーズの洞察力はやはり飛び抜けたものだと思う。

 だが私は「学ぶ」ということについてもう少し楽観的だし、その力を信じている。現代社会において学ぶことはさまざまな意味で企業的な論理と無縁ではいられないだろうが、学ぶことが私たち自身を解放する力の根源でありつづけることは変わるまい。

 教育の場は、大学という空間は、今後もますます企業との境界を消す方向で進むだろう。もしかしたら企業だけでなく、官庁や市場や病院や軍隊との境界も消えていくかもしれない。私たちはこれからの社会で、学び続けることが両義的であるということを自覚するべきだ。学ぶことは、それ自体が管理の体制の中に入ることである。しかし同時に、学ぶことを放棄して、管理の体制から逃れる道はない。

 逃れることができないような管理の体制の中で、なお逃れようともがくためには、私たちはやはり学びを続けなければならない。学ぶことだけが、管理の権力に絡め取られた私たち自身の姿を明らかにしてくれる。学ぶことだけが、私たちに盲目的無自覚的な管理体制への服従から逃れ出る道を示してくれる。

学びの回路を「断続」する

 大学の境界が消えていき、学びが両義性を持っていく社会の中で、私たちはどう振る舞えばいいのか。重要なのは、「学ぶ者」「学ぶこと」の意味や価値を、折に触れて確認し続けることだと思う。それは消えていく「学」というものの境界を、再確認し続けるということでもある。

 「学ぶ者」は、顧客ではないし、起業家でも経営者でもない。官僚ではないし、会社員でもない。開発者ではないし、軍人でもない。

 「学ぶ者」はデータではないし、サンプルではない。「学ぶ者」は、要素ではないし、点数ではないし、番号ではないし、端末ではない。「学ぶ者」「学ぶこと」「学ぶ場」は、ランキング化できない。

 学徒は、学び、考える者だ。

 一方で、管理の社会の諸装置なしに私たちは学ぶことも考えることも出来なくなっているのはたしかだ。ユートピア的な「学」の独立を叫んでも、ノスタルジーにしかなるまい。ドゥルーズは「断続器」の重要性を言った。断続器――回路を遮断したり、つなげたりするものだ。

 私たちは、私たちをつなげている回路からもう逃れることはできない。しかし回路を一時的に切ったり、再度つなげたりすることはできるはずだ。重要なのは切断することと接続することの主体性を、私たちが私たちの手の中にもちつづけることである。

 そのためには、私たちは私たちの社会がどのような形に変貌して行っているのか、よく目をこらして見、そのあり方について考えなければならない。どうしたら回路を「断続」させることができるのかを知るためには、私たちは広い意味での「学び」を続けなければならない。

 生涯学習は、その意味で管理社会を生きる我々すべてにとって重要だ。学びは、私たちを自由にするのだから。