日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出されるかもしれない

教育系・人文社会系は、いらない

国立大学は「国立大学法人」となって、国の縛りから自由になった、はずだったのですが、その実、サイフを握られて結局昔よりも文部科学省の言いなりになる傾向が強まった――このことはどこかで耳にしたことがあるかもしれません。

その国立大学の行く末を論じている会議の一つに、国立大学法人評価委員会というのがあるのですが、そこがびっくりするような提言をしています。「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)という文書で、この8月4日の日付をもつものです。以下で全文が読めます。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf

教育系・人文社会系のスタッフ一同が、背中に寒風を感じるだろう箇所を引用します。

「ミッションの再定義」を踏まえた速やかな組織改革が必要ではないか。特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むべきではないか。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf

去年個人的に、二つのソースから、文科省は国立大に人文系はいらないと基本的に考えているようだ、という話を聞きました。一人は国立大の研究科長クラスの人でした。(追記:この記事についてのtwitterの反応でも、同様の感触をもっていたと書いている方が何人かいらっしゃいました)

どうやら、文科省は本気のようです。詳しいことは書けませんが、私の勤め先でも文系再編の話は出ています。大学上層部は、その本気度をきちんと(きちんとと言うべきなのか:涙)つかんでいるようです。

つまりは、教員養成系および人文社会科学系は、原則、私大等でやれということなのでしょう。私大にはその役目が担えない、などという気はまったくありません。事実、これまでの日本の人文社会科学系学問は、私大の存在なくしてその発展はありえなかったのですから。

しかし考えてもみましょう。国立大が放り出したものを、私大が「はい、では私らが」と受け取るでしょうか。「18歳人口の減少や人材需要」「社会的要請の高い分野への転換」などという観点は、文科省に言われずとも、ずっとずっとシビアに私大の経営陣は考えてきたはずでしょう。

実行されたときに私たちの国に何が起こるか

これが文字通りに遂行されたときに待ちうけているのは、国立大だけではなく、公立大私立大も含めた、教員養成系、人文社会科学系組織の壊滅的な弱体化です。

そうなったときに、私たちの国に何が起こるか、文科省の中の人はリアルに考えたことがあるのでしょうか。そうなったときに何が起こるか、そうならないためにどうしたらいいか、教育系・人文社会系の中の人は、リアルに考えたことがあるでしょうか。考えて、どうにかしないと、日本の大学には「社会的要請の高い分野」だけが繁茂することになってしまうと、私は怖れます。

「社会的要請の高い分野」だけからなる学校、それは大学universityとは言いません。大学universityの中には、宇宙・世界universeが入っていなければなりません。つまり、総合的であるべきものが大学です。マニアックなものを保存しろ、と言っているのではありません(それも必要ですが)。目先の基準でいらないものを切り捨てていった組織は、起こりうる変化に対応できません。革新的なことが起こる(かもしれない)種を蓄えておくことができないし、変則的なことが起こったときに活性化してそれに応じていける人間を内部に抱えていないことになるからです。

私は、私たちの国や社会が、目先の利益や有用性だけに価値を置く、そんなところになってほしくありません。大学がそのように変化していったら、そこから育つ学生たちも同様の価値観に染まっていくことでしょう。

就職しやすい専門性や、就職してすぐに役に立つ技術を学べるコースがあることを否定するものではありません。しかし同時に、大学にはたとえば、教育大学に入ったけれど教員にならなくて/なれなくて卒業する子たちや、何の役にも立たないことはわかりきっているが夏目漱石の「坊つちやん」に出てくるうらなり君の再評価に血道を上げる院生や、ブラジルに住むドイツ系移民の子孫がどれくらいどのようにして祖国の文化を引き継いでいるのかということについて熱弁をふるう教員が、いてもいいのです。いないと、いけないのです。

教員にならなかったけれど、教師のトレーニングを受け、教師のマインドを持った人は大切です。うらなり君の再評価単独ではさして意味はありませんが、その国の作家のさまざまな作品にさまざまな読みの可能性が追求されており、それが次の時代に引き継がれていくということは、とても大切です。ブラジルにいるドイツ系移民は日本から見れば遠いですが、社会の中のマイノリティがどのような戦略で生きているのか理解することは、たいへん大切です。一見役に立たないけれども大切なことが、世の中にはごまんとあるのです。

次世代の問題として

それでもまだ納得ができないという人は、この問題を、いま現在の大学改革の問題としてではなく、私たちの子供が通う大学の問題として考えてはどうでしょうか。あるいは、この国の大学に学びにやってくる留学生たちの問題として考えてはどうでしょうか。

大学は研究機関であり同時に教育機関です。教員たちは自分たちの研究を学生たちに伝え、学生たちはそれを受けとめたり受け流したりして社会に出て行きます。私たちの子供が通う大学に、「社会的要請の高い分野」しか存在しないとしたら。私たちの子供が「社会的要請の高い分野」についてしか学ぶことができないとしたら。私は、私たちの住む国で、子供たちの前にそんな選択肢しか残っていないということを、心の底から恐ろしく思います。

あるいはみなさんが留学生となることを想像してみましょう。留学先として検討する日本という国では、「社会的要請の高い分野」についてしか学ぶことができない。その「社会的要請の高い分野」とは、当然日本の社会にとっての「社会的要請の高い分野」です。

留学生たちは、日本とその他の国を結びつける、未来の回路です。とてもとても、重要です。日本の大学が内向きに特化したら、そこで学びたいと思う留学生たちの数は、間違いなく減るでしょう。

一見役に立たないように見える「種」を

一見役に立たないように見える「種」を、その可能性ごと抱き留めるのが社会の豊かさだと私は信じています。そしてたとえばそういう豊かさを大学に認めたとします。そうすると、その豊かさへの寛容は、大学だけに向かわず、周囲に波及することでしょう。大学の豊かさに寛容な社会は、企業にも、家庭にも、個人にも寛容であるでしょう。そして、寛容さが育む多様性の価値をも、きっと認めるでしょう。

これは、逆もまた同じです。大学に「役に立つ」ことだけを求める社会は、その他の組織や個人にも「役に立つ」ことだけを求めることでしょう。それは、恐ろしくて、息苦しくて、貧しい社会です。