日比嘉高研究室

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タニア・ブルゲラ《10,148,451》:あいちトリエンナーレ2019 振り返りPart 2

8月5日

手に押されたのは、2019年の難民の数――生き残った人々と亡くなった人々の。f:id:hibi2007:20190804160804j:plain:right:w250

スタンプの数字はタニア・ブルゲラ Tania Brugera の作品《10,148,451》の仕掛けの一部である。作品の鍵は「強制的な共感」。ブルゲラの作品を見る前、会場の別の作品を見て回りながら、科学的な刺激臭が漂っていることに気づいていた。妙だなと思っていたいぶかしさの出元は、彼女の作品だった。

展示室に入る前に、手にスタンプを押される。説明を見る。これは難民の死者と生者の数である。展示は「地球規模の問題に関する数字を見せられても感情を揺さぶられない人々を、無理やり泣かせるために設計され」ている。部屋の中に踏み込む。何もない白い空間の中に、強いメンソール系の刺激臭が充満する。

強制的な共感などというと仰々しいが、しかし、考えてみたら、我々の共感はどれだけ自発的なのだろう。

他者の涙に、つい心を動かされたことはだれしもあるはずである。その時の共感は「心」から来てるのか、「身体」の共振から来てるのか、あるいは「脳」の機能から来ているのか。集団生活をする動物として、われわれ人間には、グループの仲間と繋がるためのさまざまな身体的機能を備えている。心はたしかに他者と自分をつないでいるが、その心は身体に根ざしていて、心と身体の境目は、あるようでない。心は拡張された身体の一部であり、そして身体は拡張された心の一部であり、さらにいえば自己は拡張された他者の一部であり、他者は拡張された自己の一部である。

共感って、一体なんだ?

あいちトリエンナーレの監督である津田大介は、〈情の時代〉についてこう書いている。

われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。

https://aichitriennale.jp/news/2017/002033.html

「シロとクロに単純化する思考」に抗うものとしての「アート」という考え方に、私は賛同する。

そしてアートの面白さは、情をもって情に対抗しようとする展覧会の総コンセプトを土台から問い直すような作品が現れてしまうことだろう。「情」なんてあるのか?とブルゲラは問う。あるいは、「情」なんて「身体の反応」にすぎないのじゃないのか、と。そして「身体の反応」に過ぎないのなら、難民の苦境にぐらい涙を流して見せたらどうだ、と。

共感など安っぽいのか。底が浅いのか。あるいは──、根深いのか。

なお、ブルゲラの作品の示した難民の数は、展覧会の会期中も更新されていた。