インタビュー・記憶・《経験》: 利尻島に行った話2
インタビューという出会い
やって来たとき、その利尻島の老人は一人の見知らぬ他人だった。2時間のインタビューを終え、一緒に昼食のうどんをすすったあと、その老人は離島で育ち、初年兵として戦場をくぐり、捕囚としてシベリアで過ごし、舞鶴に引き揚げ、そして戦後の70年を生きてきた沓野法助(仮名)として、「では、お達者で」と言い、去って行った。
インタビュー、あるいは聞き取り、という行為を私たちはどのように考えたらいいだろうか。学術的なことをいえば、インタビューはさまざまに用いられうる。
たとえば、まとまった数の人々のインタビューを重ね、相互に突き合わせながら、あるできごとの実像に迫ろうとするやり方もある。
あるいは、一人の人間の生の軌跡に寄り添い、その通史を語り直すことで、「別の歴史」や、生の多様さを浮き彫りにする方法もある。
またあるいは、一人の経験を、公の、「大きな歴史」に対置して、その批判の起点とする試みもある。
いずれもそれぞれの可能性があるが、ここで書きたいのは、見知らぬ他人が、一人の個人として姿を現し、そして「余韻」を残して去って行くという、インタビューと今とりあえず呼んでおく、出会いのことである。
私に、インタビューの経験が多いとはいえないが、日系移民や戦争体験者、引き揚げ経験者の話を聞いた後に感じる、なにか手渡された感じ、というのは何なのだろう。手渡されたというのは、正確ではない。彼/彼女がもっていた何かを、彼/彼女が私に渡すという、そういうことではない。
語る人と語りを聞く人の「あいだ」に立ち上がる、語りの世界がある。それを経験したその人が、肉声で語る。私は、時に質問や対話を行いながら、それを目の前で聞く。その二人(あるいは複数の語り手/聞き手)のあいだに立ち上がる世界がある。その「あいだの世界」というもののあり方、そしてその世界の創出に関わるということを、どう考えたらいいのか。
沓野、樫木、旭、泊井たちの話
沓野は小学校6年生の時、親に連れられて樺太に渡った。鰊が不漁の年だった。一年の出稼ぎのはずが、住み着いた。小学校を高等科まで出て、郵便局で働いた。あるとき、樺太でネズミが大発生した年があった。ネズミの皮を狩る、という特殊な技能をもつ者がいるのだという。郵便局の窓口に立つ彼の前に、その特殊な生業の男が大量の箱を送るべくやってきた。箱の中はネズミの皮だった。箱は、発送されるまでに日があった。送り出される日を待ちながら、箱の中の皮は、強烈な臭いを彼の郵便局のなかに充満させた。
旭(仮名)の記憶は鮮明だった。彼は過去の場面を再演することができた。1945年、彼の家の前に召集を告げる軍人がやってきた。20歳、終戦の間際だった。彼はその応召の場面を再演した。朗々と語り直される、兵として立つべしと呼びかける軍人の言葉。家族や近隣の人が見守るなか、その言葉に応えみずからの決意を述べる旭の挨拶。彼はまた、教育勅語も、戦陣訓も朗唱した。(私はいま、そのいずれも文字で再演することができない。)利尻島から出る彼の出征は、船だった。岸では父親が旗を振っていた、それだけを覚えている、と彼は言った。
樫木(仮名)の小学校は、終戦を迎えても授業を行っていた。一年半の間、樫木も引き揚げなかったし、教師も残っていた。集落のようすは変わらないところもあったが、変わったところもあった。ソ連兵がしばしば家を訪れて、「ダワイ(よこせ)」と言い、物をもっていくことがあった。あるとき、彼女の小学校に、ソ連兵が一人でやってきた。何のために来たのかはわからない。教員が二人で、その兵士の両脇を抱え、学校の外へ出した。
泊井(仮名)は、終戦の日を、豊原の市内で初年兵として迎えた。翌日にはソ連兵に武装解除された。その数日後に、豊原は激しい爆撃にさらされた。男たちが出征していた樺太は、女子供が多かった。なぜ戦争が終わったはずの街に爆撃があるのか、と彼は思った。多数の女と子供が死んだ。女たちは背に荷物を背負っていた。だから死んだ彼女たちは横たわりはしなかった。背負った荷物にもたれかかり、座るようにして死んでいた。ある女には首がなかった。女の抱いていた子供も、もちろん死んでいた。3歳ぐらいの別の子供が、片腕を吹き飛ばされて大量の血を流していた。その子は、泣きもしなければ、痛がってもいなかった(彼はそれを2回繰り返した)。止血をし、救護所に連れて行った。その子はその後どうなったのか。最近思い出す。生きていれば何歳になっているのか。彼の両手は血まみれだった。その夜、彼は一人で便所に行くことができなかった。怖かった。彼は隣で寝る仲間を起こして、用を足しに行った。
泊井はまた、シベリアで死体を “埋め直す” 作業にも従事した。冬期に死んだ者の遺体は、仮に埋められるのだという。日本兵も、ソ連兵もである。数ヶ月凍土のなかで置かれた死体は、春を迎えて埋め直される。彼は墓を掘り、埋めた。日本兵とソ連兵を分けながら、埋めた。3、4ヶ月もそのまま凍らされているんだ。かわいそうなもんだ。だろう?この前天皇陛下はフィリピンに行ったけど、シベリアにもいっぱい仲間が死んでるんだ。忘れてもらっちゃ困るんだ。彼はそう、浜の横の店で、鍋焼きうどんをすすりながら言った。その浜から、集落の男たちはみな出征していったのだった。
記憶はつくられる、だが──
記憶は、現在からの呼びかけによって創られる、と言われる。そのとおりだろう。インタビューをすると、そのことは如実に分かる。インタビューする側には、聞きたいことがある。その聞きたいことに向かうように、質問をおこなう。当然、思い出しながらおこなう語りは、方向付けがされる。
嘘が語られると言っているのではない。記憶は、呼び出す側(これは他人であることもあれば、自分であることもある)の呼びかけに応じて、相互的応答的に創られていく。
このことをもって、記憶の虚構性や、恣意性、不確かさが言われることもある。「物語としての記憶」というようないい方をしてもいいのかもしれない。当然そういう面はある。
けれど私は、そのようにして記憶の不確かさや虚構性を言って終わりにしたくはない。語る者と語られる者のあいだで生起し、「余韻」を残すなにものかを、私は大事に考えたい。
「記憶」といったとき、それは誰かの記憶、「彼/彼女の記憶」を指す。記憶を受け渡す、といったとき、それは「彼/彼女の記憶」を受け渡すということになる。「記憶を受け渡す」という言い方は比喩である。われわれは実際、記憶を受け渡しなどできない。この比喩は、個人的な思い出を継承しようとする美しいふるまいを描き取るものだが、同時に「受け渡す」という時、記憶がモノかなにかであるかのように語ってしまう。そこでは受け渡されるものが、受け渡される場と、渡し渡される人のあいだで創り上げられることが含意できない。
《経験》
語り語られる場で起こるのは、もっと語る側と語られる側の声や感情や感覚が侵食しあった、まじりあったなにものかであるような気がする。語る者/語られる者が組み合い、また分かち合いながら創り上げるなにものかを、いま《経験》と仮に呼んでみる。
《経験》は体験ではない。体験は個人のものだ。それは体験した人に固有に所属するというニュアンスがある。それは語り語られる場で現れるものではない。一方、《 》をつけられた《経験》は、出会いと語りの場で創られる。それは過去の出来事だが過去ではない。《経験》は沓野や樫木や旭や泊井がかつて身をもって生きてきたことだが、同時にそれを聞く私が呼び出し没入しながら今まさに共有している。私の感情はそこに引き込まれる。応召に立ち会い、浜で振られる旗を見る。ネズミの皮の臭いを嗅ぎ、豊原の爆撃の惨状のなかで恐怖する。
老人たちは、来たときの匿名の風貌を消し去って、汲みきれないほどの歴史をその身のうちに秘めている人間として、去って行く。
私もまた、彼らを迎えた時の私ではない。「お世話になりました。ありがとうございました」といって送り出すときの私は、数時間前の私ではない。
《経験》が彼らと私の「あいだ」を結んでいる。「余韻」とここまで呼んできたものは、その消しようのない《経験》の持続のことである。
老人たちは死んでいく。それは遠くない確実な未来である。
彼らだけではない。
世界中で老人は死んでいく。
それはなんという損失だろう。
彼らは錨である。過去から現在へと、歴史の海に垂直に下ろされ、つないでいる錨。「生き証人」という言葉は、過去と現在との両方に脚をかけ、そこに立つ彼らの存在を示す言葉だ。彼らを失うことは、錨を失うことだ。錨がなくなれば、私たちはたやすく漂流してしまう。
《経験》を再話する
さらに展開してみる。では、身のうちに引き受けた《経験》を、私は別の人々に語り直すことができるのだろうか。
できない、だろう。原理的には。私は沓野や樫木や旭や泊井のように語ることはできない。そもそも私は彼らのような体験をしていない。
ビデオに録画した場合を考えてみる。文字起こしをした原稿よりも、数倍数十倍の迫力を持って、彼らの語りは、視聴者に迫るだろう。だが、眼前で、肉声をもってこちらを眼差しながら言葉を交わしながら語られたその語りと、ビデオとは同じではありえない。私が《経験》とここで呼ぼうとしているものは、人と人との相互的な交流と、共有された場と時間のなかでこそ、創り上げられる。
《経験》は再話できない。《経験》は伝えられない。
だが。
私たちは強烈な《経験》をやはり他者に語らずにはいられないだろう。
その出会いの感動と、まだ響いている身の震えを伝えずにはいられない。
再話の試みは、たとえそれが原理的に不可能だとしても、試みられる。芸術は、おそらく語りを見聞きした者がその震えを他者へと再話する際に採用した、古い古い私たち人間の文化であるはずだ。歌や絵や文は、《経験》を再話する不可能な試みのために練り上げられてきた。
では、学術の言葉はどうだろうか。
学徒は、《経験》の震えをどのように再話するのか。
厚さと、熱さ、かもしれないと、暫定的に私は考える。
学術の言葉は迂回する。《経験》を再話する者とその受け手を結ぶその結び目の織りを密にするために。そしてその織りの構成をより良く調整するために。一見迂遠で些末な細部と背景が、適切な遠近法の中で組み上がったとき、《経験》ににじり寄ることができないか。
そしてさらに、熱さが必要だ。熱は振動であり運動である。《経験》の震えをより強く受け、震えに共振する者を増やすためには、学術の言葉には学術の言葉なりの熱さが必要だ。
錨としての人生
それにしても、人はすごいものだ。
あらゆる老人が、歴史を背負っている。あらゆる老人は、錨として存在している。彼らと私が《経験》をともに創ることができるかは、私の参与次第である。そして《経験》をよりよいもの、より強いものにするためには、私の地力も必要とされるわけである。そしてもちろん、それを別の場で再話しようとするときにも。
ところで私も今に老人になるのだろうか?
もちろん、そうだ。
長生きも、悪くないかもしれない。