日比嘉高研究室

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教室が「戦場」になった日?(1):産経新聞による広島大学の授業攻撃を読んで考えたこと

この事件が報道されて

以来、ずっと気になっている。嫌な気分で、そして同時に正直に言って、怖いとも思った。その後いろいろネット上の言葉を見ていて、さらに怖いという気持ちは増した。

けれど、これが2014年の日本の「教室」をめぐる状況なのだと思った。「教室が「戦場」になった日」というのはかなり扇情的なタイトルで、大げさな、とか、何をいまさら、という声も聞こえそうだけれど、このニュースを読んだときの偽らざる私の実感だった。

放っておけない気持ちなので、いま日本の教室で授業を担当するものの一人として、その目線から考えたことをメモしておきたい。

産経新聞が、

「講義で「日本の蛮行」訴える韓国映画上映 広島大准教授の一方的「性奴隷」主張に学生から批判」という記事を5月21日に配信した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140521/plc14052108180007-n1.htm
授業を聞いていた学生が、新聞社に訴えたらしい。産経新聞はこれをもとに、河野談話の問題点を説明しなかった、映画が終わるとすぐに講義を切り上げた、強制連行の証言だけを示し学生には議論の余地を与えなかった、と批判した。

この記事は意外に周到で、授業や教員への批判は、男子学生による感想や発言、報告の形で書いている。産経新聞が主語となった講義内容への批判は、さほどない。学生の言葉を借りて、批判を行い、問題点を指摘する形になっている。(むろん、記事全体としては強い批判のメッセージになっていることは言うまでもない)

案の定、ネット上では

教員の実名が曝され、研究室などの連絡先があちこちに転載され、過去の講演やイベントへ出た時の記録や写真が引っぱり出され、シラバスから講義のレジュメとされるものまでが出回っている。

研究者は表立って活動すればするほど(それが仕事なわけだが)、その研究者に関わって、ネット上で入手可能な情報は蓄積していく。実名や顔写真が出ていて、連絡先が明示されているのは当然。シラバスも現在はほとんどの大学が公開している。

だからその研究者にまつわる情報が入手できるのは当たり前で、自分が過去に発言したり書いたりしたものが、引き出されてあれこれ検討されることにも堪えねばならない。公の場で行ったり書いたりすると言うのはそういうことだから。

けれども、自分が書いたものが部分的に切り抜きされ、特定の部分だけにアンダーラインを引かれ、ほらここでこいつはこんなことを言っている、けしからん、ふざけんな、ばかか、などと罵られ、嘲られることは、嫌な気分だし、恐ろしくもある。

発言や書き物には、場の文脈やタイミングや応答関係がある。人は、その中で、しゃべり、書く。だからそれがどういう場で、どのような論理立てのなかで話されたのか/書かれたのかを、しっかり理解してほしい。それなしに、切り出されてあれこれ言われるのは、かなわない。

この事件に戻れば、

授業は一般教養向けのオムニバスの授業。受講者は200人ぐらいだったようだ。それがこの授業のコンテクストだ。シラバスによれば、授業科目名は「演劇と映画」で、「日本・アジア・欧米の演劇と映画について講義」が行われ、「多様な文化を多角的な視点から学ぶことができ」るとされている。攻撃対象になってしまった教員の担当回は「朝鮮の映画を見る」となっている。

外形的にみる限り、ここで韓国のドキュメンタリー映画「終わらない戦争」を上映することには、まったく何の問題もない。もちろん、これが「シュリ」であったとしても、あるいは「冬のソナタ」であったとしても(映画じゃないけど)、問題はない。

一点気になったのは、産経新聞の記事によれば、この授業が上映の後すぐに終わってしまったということだ。これが事実だとしたら、授業の運用としてはまずかったと私は思う。この講義に、次の回があればよかった。あるいはコメント・シートが配布+回収されていれば、と思う(されていたのかもしれない)。

けれど、この授業はオムニバスで、残念ながらこの教員の授業は、この一回限りだった。

一般教養の授業は、

教員にとってやりやすい授業ではない。大教室で、毎年受講者が変わり、自分とは接点のない学生がほとんどである。私は非常勤からカウントすると、大学で教え始めて15年ぐらいになるけれど、いまだに、一般教養の授業は他のそれよりも緊張する。私より一世代ぐらい上の先生と雑談していた時に、その人もそう言っていたから、これは私だけではないし、一定年数以上経つと慣れてなんとかなる、という事でもないようだ。

200人の前で話すのは、かなりエネルギーがいる。200対1で話すのだから当たり前だ。しかも、オムニバスだとしたら、そこに座っている学生たちは、ほとんどがよく知らない学生たちである。

授業だってコミュニケーションである。

知らない人間と話すのは、緊張するし、お互い相手がなにものかわからないから、労力がいるし、場合によっては疑心暗鬼にもなる。距離も遠い。自分が学生だった時のことを思い起こしてみると、教養科目の先生たちは遠かった。心理的距離も遠かったし、物理的距離も遠かった。

私は友人たちと教養の先生たちの噂話をする時は、「先生」なしの呼び捨てにしていた。その人がどんな人なのかよくわからず――その人(たち)は、階段教室のずっと下の方で、マイクで一人で話し続けていた――、その学問がどういう学問なのかもわからず、90分聞いて/観察して、それだけが接点だった。

講義の内容に反応したこともある。雑談に反応したこともある(寿司をめぐる笑い話が持ちネタの先生は一学期の間に3回その話をした。ちょっとお年だった)。服装に着目し(スーパーのビニール袋で授業の用意を持ってくる先生もいた)、話し方を真似し(口癖をカウントするとか)、そして最終的には単位を(楽に)くれるかどうかが関心の的だった。

一方、専門科目に上がってからの先生たちは違った。毎週顔を合わせ、講義と演習を複数回取り、一緒にお酒を飲みに行った。その先生たちを呼び捨てにすることは、ありえなかった(影で愛称で呼ぶことはあったが、秘密)。

どちらの先生がいいとか、悪いとかいうことではない。大学がもっているカリキュラム体系が、教員と学生の間の関係を規定してしまう。

これは想像だが、

広島大学のこの先生とこの学生は、この授業の他に接触らしい接触はほとんどなかった。学生は、自分の考え方とは異なるこの先生の授業に腹を立て、許しがたく思い、同じ意見をもっているであろう大手メディアに直接訴えた。先生をも、大学をも飛ばして。先生は遠かったし、訴えることのできる大学の窓口も、よくわからなかったのだろう。

先生は個人的に話ができるような関係ではなく、専門知識において自分を圧倒しているに決まっており、そもそも抗議したら単位がもらえないかもしれない(普通のまともな教員は、絶対にそんなことをしないのだが。抗議に来た学生がいたとしたら、むしろその学生の成績付けは慎重になるのが普通)。よほどの議論好きで勝ち気な学生で無い限り、一回限り出会った教養の先生に、文句を言いに行ったりはしない。

おそらく大学的には、学生が授業について訴え出る(教員以外の)最初の窓口といえば教務課担当窓口が「正解」だろうが、学部学生にとっての教務課は単位や成績がらみの手続きのために行くところであって、窓口で抗議するところではない。そして概して、学生と事務窓口担当者との関係は、あまりよろしくないことが多い(間違っていたらすいません。経験上、です)。

ここへ来てこの問題は、大学の学生だけの問題ではなく、私たちの社会一般の雰囲気の問題かもしれないと気づく。

(つづく)