タニア・ブルゲラ《10,148,451》:あいちトリエンナーレ2019 振り返りPart 2
8月5日
手に押されたのは、2019年の難民の数――生き残った人々と亡くなった人々の。
スタンプの数字はタニア・ブルゲラ Tania Brugera の作品《10,148,451》の仕掛けの一部である。作品の鍵は「強制的な共感」。ブルゲラの作品を見る前、会場の別の作品を見て回りながら、科学的な刺激臭が漂っていることに気づいていた。妙だなと思っていたいぶかしさの出元は、彼女の作品だった。
展示室に入る前に、手にスタンプを押される。説明を見る。これは難民の死者と生者の数である。展示は「地球規模の問題に関する数字を見せられても感情を揺さぶられない人々を、無理やり泣かせるために設計され」ている。部屋の中に踏み込む。何もない白い空間の中に、強いメンソール系の刺激臭が充満する。
強制的な共感などというと仰々しいが、しかし、考えてみたら、我々の共感はどれだけ自発的なのだろう。
他者の涙に、つい心を動かされたことはだれしもあるはずである。その時の共感は「心」から来てるのか、「身体」の共振から来てるのか、あるいは「脳」の機能から来ているのか。集団生活をする動物として、われわれ人間には、グループの仲間と繋がるためのさまざまな身体的機能を備えている。心はたしかに他者と自分をつないでいるが、その心は身体に根ざしていて、心と身体の境目は、あるようでない。心は拡張された身体の一部であり、そして身体は拡張された心の一部であり、さらにいえば自己は拡張された他者の一部であり、他者は拡張された自己の一部である。
共感って、一体なんだ?
あいちトリエンナーレの監督である津田大介は、〈情の時代〉についてこう書いている。
われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の「アート」ではなかったか。アートはこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げることができる。数が大きいものが勝つ合理的意思決定の世界からわれわれを解放し、グレーでモザイク様の社会を、シロとクロに単純化する思考を嫌う。
https://aichitriennale.jp/news/2017/002033.html
「シロとクロに単純化する思考」に抗うものとしての「アート」という考え方に、私は賛同する。
そしてアートの面白さは、情をもって情に対抗しようとする展覧会の総コンセプトを土台から問い直すような作品が現れてしまうことだろう。「情」なんてあるのか?とブルゲラは問う。あるいは、「情」なんて「身体の反応」にすぎないのじゃないのか、と。そして「身体の反応」に過ぎないのなら、難民の苦境にぐらい涙を流して見せたらどうだ、と。
共感など安っぽいのか。底が浅いのか。あるいは──、根深いのか。
なお、ブルゲラの作品の示した難民の数は、展覧会の会期中も更新されていた。
毒山凡太朗《君之代》:あいちトリエンナーレ2019 振り返りPart 1
「あいちトリエンナーレ2020」についての小文を頼まれておりまして。以下は、その準備運動、もしくはロングバージョンです。
10月9日
あまり期待はしていない、いやもっといえば警戒心の方が先に立っている。駐車場に車を止めて、円頓寺の商店街を歩く。台湾の日本語世代のおじいさんおばあさんに、君が代を歌わせている作品だという。事前に知ったその知識だけで、作品について身構えてしまう。日本人の美術家が、日本語を強制された台湾人にカメラを向け、君が代を歌うその姿を録画し、日本の美術展で作品として公開する。どのように理論武装したとしても、その暴力性は言い逃れできない。
私は植民地文化を対象とした研究者の端くれで、戦前の日本という国、そして日本人が、植民地においてどのようなことをしたのか、一般の人よりも多く知っているつもりである。植民地支配期に生まれた、被支配民族の日本語話者による文学作品に興味を持ち、論じたり授業で扱ったりすることもある。なにより、台湾を含む東アジアから来た留学生たちと毎日のように顔を合わせている。
どう考えても、まずいことにしかなっていないんじゃないか。《君之代》と題されたその作品について、警戒心ばかりが高まっていく。
毒山凡太朗の作品は、階段を上がった二階の、マンションの一室のような展示場で上映されていた。扉を開くと、音が飛び込んでくる。歌っている。日本の歌だ。発音は、外国人。照明が落とされた8畳か10畳ぐらいの部屋。その入り口正面に大きなスクリーン。大写しになって、老婆が歌っている。君が代。向こうからカメラを通してこちらを凝視する目。声が裏返る。高音が出ない。それでも歌い続ける。さざあれ、いしいの、いわおとなありて、こおけえの、むううすう、まあああで。歌い終わり、老婆の表情が解けて、笑顔になり、恥じらう。
完全に飲まれた。これは、そんなんじゃないぞ。
スクリーンに向かう壁際に、長椅子が置いてある。他数人の観客たちと並ぶように、座り込む。私はそこで24分58秒の作品を3回転分見た。日本人が台湾人に日本語で君が代を歌わせて作品にするという暴力的な構図が、画面に映し出される音や声、身体、表情によって、ぐらぐらと揺らいでいく。歌う身体には歴史があった。それはかつて歌った帝国の歌であると同時に、帝国解体後の70数年を背負った歌だった。天皇の永世を願う歌詞や日本軍を鼓舞する詞章が、70年、80年を激動の島において生き延びてきた一人の人間の声で、表情で、家族や店や仲間のある各々の今の居所で、数十年の忘却のあとに記憶の底から引きずり出され、再演されていた。その画面の24分58秒は、声と、身体と、意味と、記憶と、歴史と、対立と、親密さが、ぎしぎしと音を立てる、居心地悪くも魅入られ、居たたまれないながら立ち去りがたい、再審の時間だった。
流暢に、あるいは記憶を掘り起こしながら歌われる台湾の老人たちの歌にさらされながら、研究者としての私の「そんなことは知っている」という奢りが、みすぼらしく縮んでいく。植民地文化史の知識が、ビデオアートの揺さぶりの前で、立ち尽くす。「知っている」ということなど、この老人たちの人生の前でいったいなんだというのか。
ただ、と思う。私がこの作品から受け取ったものの大きさは、たしかに知識の支えなしではありえない。経験や感情が、知識に優越するであるとか、そういうことではないだろう。では、感情と知識はどのように結託するのか。呆然とした一時間半近くの経験の中で、私は〈情の時代〉という、この展覧会のコンセプトの意味を、あらためて考えされられていた。
* 作品のスナップショットは、こちらの毒山凡太朗さんのサイトで見られます。(画像へのリンクが開きます)。
* 毒山凡太朗さんの公式サイトはこちら。
* あいちトリエンナーレ2020公式サイトの毒山凡太朗さんの紹介ページは以下。
aichitriennale.jp
2019年の論文・記事まとめ
2019年1月~12月に発表した論文や記事など。こう振り返ると短いのが多い。このあと3月ぐらいまでに、いくつかまた印刷されて出て来る予定です。そいつらは、長いやつ。あと他にもいろいろ書いていた体感があるんですが、それは発表原稿だったようです。
論文
発表者募集 2020年 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第8回 バリ大会
発表者の募集を開始しています。
2020年 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第8回
開催地:インドネシア・バリ島 ウダヤナ大学ほか
日程:10月16日(金)、17日(土)
応募〆切:3月15日(日)
詳細は以下のページをご参照下さい。
今年度の研究発表まとめ
今年度は特に後半がデスロードだった(というか、いまも道半ば)ので、その道程を記しておこう。
- Japanophone Literatures and Books: materiality, distribution networks and immigrant writers., "Japanese Diaspora to the Americas: Literature, History and Identity," Yale University 2019年5月3日
- Japanophone Poems in Motion: how did Ito Hiromi and Tian Yuan write memories and experiences of their migration?, "Transition:ein Paradigma der Weltlyrik im 21. Jahrhundert?" 早稲田大学 2019年10月5日
- 「戦時下における小売書店──企業整備と統制組合」東アジアと同時代日本語文学フォーラム 第7回、東呉大学、2019年10月26日(パネル発表。総題「「大東亜」の書物と表象アジア太平洋戦争期における文化政策・戦場・統制」)
- 「我々は何を研究してきて、そしてどこへ向かうのか」日本近代文学会、昭和文学会、日本社会文学会三学会合同国際研究集会 ラウンドテーブル、二松學舍大学、2019年11月24日
- Rethinking Literary Imaginations of Naichi-Zakkyo(domestic mixed residence), "Crossing the Borders of Modernity: Fictional Characters as Representations of Alternative Concepts of Life in Meiji Literature (1868-1912)," University of Cologne 2020年1月11日
- 「現代日本文学の想像力──環境・身体・ディストピア」韓国日本学会 シンポジウム、東国大学 2020年2月9日予定
- 「時を語る日本語文学──記憶、環境、進化」東アジアにおける世界文学の可能性 シンポジウム、東京大学 2020年2月11日予定
- 「(文学国語をめぐって)」日本近代文学会東海支部シンポジウム、中京大学 2020年3月14日予定
論文など書き物については、また別にまとめます。
久々更新ついでの駄弁
- この前、思わぬ方から「ブログ読んでいます」と言われ、恐縮したのである。最近はもっぱらTwitterに投稿しており、ほかの元ブロガーの方々と同じように、Twitterでこまめにガス抜きすると、ブログを書くエネルギーがなくなるという循環になっております。
- が、Twitterとブログはかなり機能が違うことは重々承知しているつもりであり、基本、自分は長文書きだと自認しているので、ねたが浮かんだら、ゆるゆるこちらも更新します。
- 業績関係の報告も、こちらにまとめているし。
- ちなみにtwitter読んでいます、という挨拶にはもうびびらない。びびらないが、どう返していいのか困るのですがね。初対面の挨拶でよく言われるんですが、「あ、はい、どうも」とか「すいませんすいませんすいません」とか「今すぐフォローをやめてください」とか、そのときの投稿状況によって反応が代わります。
- そういえばツイッタの方で告知したことをこちらでも告知しておきますよ。
ゆるく告知★2020年の東アジアと同時代日本語文学フォーラムは10月16-17日(金土)、会場はバリ島・ウダヤナ大学他です。(パリじゃないので注意)
— 日比嘉高 (@yshibi) 2020年1月19日
総合テーマ「近現代アジアのグローカル文化 アイデンティティ・文学・歴史」。
応募締切3/15予定。要参加費。
近々きっちりした募集要項を出します。
- 今年は、モデル問題の本を出すよ。だすだすサギのあの本だよ。ついに、だよ。
- なんかもう、死ぬほど研究報告が続いていて、記事やら論文の締め切りがあって、お声がかかるのはほんとうにありがたいので、基本断らないのだけれど、いい加減断らないと病気になるぞ、ていうか大丈夫なのか、と家では言われ、もちろんまだ死にたくも半病人になりたくもないので、我が身大切に生きたいと思う2020年の年男です。ええ、年男です🐭
- とまあ、特に用事はないのですが、更新しないと広告が出るはてなブログの仕様に対抗するため、更新した次第です。本年もよろしくお願いいたします。