日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「ポスト真実」と感情化社会 どうして嘘つきがまかり通るのか(2)

「ポスト真実」の時代  「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くかこのブログ記事が元となった書籍『「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』を、祥伝社から刊行します。「ポスト真実」についてより詳しく知りたい方は、こちらもご覧下さい。


 今月16日、オックスフォード辞書が、「今年の言葉」に「post-truth」を選びました。日本では「ポスト真実」と訳されることが多いようです。この言葉について、今日J-Wave のJam the World という番組津田大介さんとお話をすることになりました。この言葉については前回の記事
どうして嘘つきがまかり通るのか――「ポスト事実の政治 post-truth politics」の時代にどう向き合うか - 日比嘉高研究室
でも書いていますが、その後考えたことを加えて、もう少しまとめておきます。

キーワードは、「デマ」「本音」「感情」です。

post-truth ポスト真実」とは何か

 Post-はそれに続く語を修飾して「後に」「次の」という意味の言葉です。オックスフォード辞書は、「今年の言葉」を選ぶに際し、「ポスト真実」を「世論を形成する際に、客観的な事実よりも、むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況」を示す言葉だと定義しました。

 この言葉は「post-truth politics, post-truth world などように、形容詞としてもよく使わます。今年6月のイギリスのEU離脱騒ぎで使用頻度が急激に上がり、大統領選でドナルド・トランプを論じる際にも盛んに使われました。

コトバをめぐる現代的状況をよく示す語

 イギリスの国民投票、アメリカ大統領選の結果にはさまざまな要因が関係していますが、共通する現象を表現する言葉として「ポスト真実」に注目が集まっています。

 キャンペーンの中でドナルド・トランプ氏は、アメリカの「実質的」失業率が42%であるとか大小さまざまな嘘を並べましたが大統領に決まりました。(実際には2016年1月の値は4.9%) イギリスのEU離脱国民投票でも、離脱派がEU加盟の拠出金が週3億5000万ポンド(約480億円)と主張しましたが、反対派は「週1億数千万ポンド」と言い、投票結果が出た直後に、離脱派はこの主張を撤回しました。
英EU離脱:公約「うそ」認める幹部 「投票後悔」の声も - 毎日新聞


 日本も他人事ではありません。安倍首相はIOC総会におけるオリンピックの招致演説で福島第一原発は完全にコントロールされていると胸を張り、
平成25年9月7日 IOC総会における安倍総理プレゼンテーション | 平成25年 | 総理の演説・記者会見など | 記者会見 | 首相官邸ホームページ

稲田防衛大臣南スーダン首都の治安が落ち着いていると述べたりしています。
稲田防衛相:「首都、落ち着いている」南スーダン視察 - 毎日新聞


 ただし、こうした状況は、政治家側だけの問題ではありません。支持する人々がいて、はじめてそうした政治家が力を持ちます。その意味で「ポスト真実の政治」とは、「ポスト真実の世界」だというべきです。

 たとえば日本の社会でも、デマの流布の問題があります。熊本の地震の時にも流れ、ヘイト・スピーチでも、虚偽の情報や悪意のある嘘が出回ってしまっています。

なぜ嘘がまかり通るのか

 嘘をつく側は、それが「嘘」だと述べているわけではありません。あくまで「事実」として主張します。一方、「ポスト真実」のプロパガンダを信じる人たちも、事実を重視していないのではなく、むしろ事実には関心があります。誤った事実を「事実」と思っているだけです。

 その「事実」が本当に事実であるのかの検証が不十分であったり、あるいは怠っているのが原因の一つです。根底にあるのは、不都合な事実や自分の信条とあわない現実を認めようとしない姿勢です。

 注目したいのは、彼らの「嘘」が、しばしば人々の「本音」と結びつけて語られることです。トランプ氏の攻撃的な言葉も、日本を含む各地のヘイト・スピーチも、不安や不平をもつ層の「本音」とされるものをすくい上げます。「嘘」と「本音」の結託だから、流布する。

※なお、ここで「本音」に括弧をつけてますが、理由があります。この「本音」はメディアなど外部の言説によってピックアップされた「気持ち」だからです。人の感情は複雑で、多面的です。しばしば矛盾した気持ちさえはらむ、揺れ動くものです。「本音」は、そういう複雑さを単純化するための危ういレトリックです。


ネットと「ポスト真実」の関係

嘘が拡散していく原因の一つには、読まずにシェアする文化があります。米国とフランスの共同チームの研究によれば、シェアするが、記事を読まない人の割合は、全体の59%にものぼるとのことです。
www.lifehacker.jp

dot.asahi.com

 もう一つは、さまざまな情報やニュースがSNSを通じて拡散することが増えているということがあります。そしてSNSによる共有の際には感情が付随します。Facebook, Twitter, はてなブックマークには、シェアしたり、メモしたりする際に感情を載せるためのボタンやタグが用意されています。

感情化社会――事実よりも、感情

New York Times は、「ポスト真実の政治」の背景を説明する際に、Twitterのつぶやきをリアルタイムで分析し、その政治家の発言がどのように受容されたのかを分析する「感情分析 sentiment analysis」の例を出しています。こうした分析で重視されるのは事実を根拠にした確かさではなく、つぶやきを解析して出てくる「感情」の動きやうねりでしょう。

日本の首相のスピーチも、しばしば事実よりは、姿勢の強さをアピールしているように私には思えます。「守り抜く」「取り戻す」などといった決意や熱心さを込めた言葉をキーワードにしているところからもそれはうかがえます。

感情を重視する社会については、大塚英志さんが、つい先月その名も『感情化する社会』という書物を出していて、天皇生前退位問題と「お気持ち」という言葉の例などをめぐって、アクチュアルな分析をしてます。
www.ohtabooks.com

事実よりも感情が重視される社会。さらにいえば、感情よりさらに身体的な「情動」に注目し、それを学術的な考察やマーケティングに取り入れていこうとする動きもあります。情動と感情と行為の結びつきは、私たちのふるまいを思っているよりも強固に動機付けているのかもしれません。人間の思考や理性は、通常考えているよりもずっと身体に根ざしているというわけです。

そうした情動や感情に突き動かされる人間のあり方を、利用したり、生かしたりしながら組織される社会が、「感情化社会」です。


ポスト真実」と「感情化社会」をどう生きるか

(1)「事実のチェック Fact-Check」と「事実の拠点」は大事

膨大な量の情報があふれ、まことしやかな言葉が出回る時代です。まずやはり、「事実を確かめられるたしかな拠点」は必ず必要です。ここに見に行けばほぼ大丈夫、という「事実の拠点」は、今後ますます需要が高まるでしょう。

公的機関やメディア、研究機関、専門家は、感情に流されず、政治的な対立に左右されない事実を公表し続けるべきです。アメリカの大統領選のときにはFact-Checkのサイトがいくつもできました。こういうものも、日本でもっと増えた方がいいと思います。

(2)「普通の人びと」を説得のターゲットにする

ターゲットを、政治信条の強固な人に置くと、説得は失敗するでしょう。「ポスト真実」の政治のプロパガンダや、「反事実」の世界に生きるメディアや人びとの言説を浴びせられ、その影響を被る「普通の人びと」こそが、説得のターゲットです。

嘘は信じないまでも、感情の影響を被ってしまうということがあります。そこが怖いと思います。感情の漏れ出しや集合化を、食い止める努力が必要です。

(3)反既得権益層、反権威の時代の難しさ

ただし、問題は「ポスト真実」の時代が、反既得権益層、反権威の時代という側面も合わせてもっているということです。具体的にいえば、政治家やメディア、学者・専門家などへの反感です。トランプ氏も、演説の中で繰り返し「メディアは真実を述べていない、隠している」と主張していました。

日本でも、とくにメディアや専門家への逆風は強いと感じます。権威を笠に着たような姿勢では、意見や事実の浸透を図るのは難しい時代です。

おわりに

感情と選挙というのは、もしかしたらものすごく相性がいいのではないかと思います。選挙の判断は瞬間的でよく、しかも選択の方法は概してとても単純です。アメリカの大統領選の投票用紙はマークシート方式ですし、日本でも単なる記名です。

感情をめぐる政治や市場の技術は、今後もどんどんと洗練されていくだろうと予想されます。難しい時代が待っているのかもしれません。

そういう中で、たしかな事実を根拠に、よりまっとうな議論をしていくために、どうしたらよいのか。「嘘」と「真実」、あるいは「感情」と「理性」を二項対立的に考えるような、古い枠組みのままでは進行しつつある現実に対応できないのではないかと思います。

事実・真実の見せ方、語り方、示し方の工夫です。「データの視覚化」の重要性が言われていますが、
business.nikkeibp.co.jp

パソコンよりも携帯デバイスで情報に接触することが多い時代に、どのように事実――ときにそれは複雑で、入り組んでいる――を届けるか。

また、技術だけに目を向けるのも正しくはないでしょう。「保育園落ちた日本死ね」で火が付いた待機児童の問題は、ついに政府が保育士の給料を底上げすることを表明するまでになっています。
mainichi.jp

なかなか前に進まない保育施設の問題を、前に進めたのは、「保育園落ちた日本死ね」ブログ記事が持っていた強力な「感情」の喚起力にあったのはたしかです。がしかし、それだけでは現実は動かない。

感情+ネット+既存メディア+地道な活動をしてきた人たちの努力+政治家の動き、これらがリエゾンして、はじめて現実が動き出すのでしょう。

おまけ──「事実」「真実」とリベラル

もともと、既得権益層への反抗はリベラルの旗印だった。いまやリベラルは既得権益層──とまでは言わないまでも、弱者の位置にはいないとみなされて、攻撃を受ける側に回っている。歴史=物語への疑義も、左派的な解放の理念に支えられて出発したが、新自由主義史観が利用する方向へスライドし、拡大した。

そして「事実」「真実」の確かさへの懐疑も、リベラルな思想家たちが取り組んできたものともいえる。真実を語る言葉の内部に矛盾を見い出す脱構築や、立場やパラダイムによって「真実」のあり方が変わるとする相対主義や知の考古学、「真実」のつくられ方を問う構築主義など、ポスト構造主義の思想は、「事実」や「真実」と思われるものを問い直す努力をしてきた。

だからリベラルは、理論的であればあるほど、「事実」や「真実」を真顔では主張しにくい。

念のためいえば、私は「保守」=「反・事実」、「リベラル」=「事実」のような図式を考えているわけではない。「ポスト真実」の世界は、政治的な対立を越えた、より幅広い世の中の傾向だと考えている。「保守」とみなされる側にも事実を重んじる人はいるし、「リベラル」を掲げる人にも都合の良い「事実」だけつまみ食いする人はいる。

講演会「大学はこのままでいいのか?―自由と多様性を求めて」

11月22日(火)は、下の企画に出て参ります。室井尚さん、増田聡さんと。

<第4回ゲスト講演会>
「大学はこのままでいいのか?―自由と多様性を求めて」

11月22日(火) 17:00〜
場所:横浜国立大学 図書館 メディアホール

http://y-labo.wixsite.com/home/blank-4

https://pbs.twimg.com/media/Cw0SwgLUQAAQEmr.jpg:large

文学の歴史をどう書き直すのか──二〇世紀日本の小説・空間・メディア

笠間書院、2016年11月15日、全252頁

(英題:Rewriting Literary History: Fiction, Space, and Media in Twentieth-Century Japan

新著、刊行されました!

笠間書院ウェブショップ
shop.kasamashoin.jp

AMAZON


今回の本は3つの焦点を持っています。空間、文学史、メディア。全体として“文学の歴史をどう書き直すか”というコンセプトでまとめました。
個人的に、メジャー作家やメジャー作品を扱うのを忌避するような傾向があるのですが(なぜ…)、この本には梶井基次郎の「檸檬」や二葉亭四迷の「浮雲」論をはじめ、漱石菊池寛横光利一など、入っております。

目次は以下のとおりです。ぜひご高覧を。

目次

空間・文学史・メディア―何に出会い、どう書いていくのか


第I部 言葉と空間から考える


第一章●身体と空間と
心と言葉の連関をたどる―梶井基次郎檸檬」―

1 〝上ル下ル〟から京都と「檸檬」を読む
2 身体と空間と心を言葉はどう語っているか
3 「街の上で」という表現が示す身体と空間
4 身体を読む―潜在と顕在の劇のなかで
5 身体の模倣と抵抗―想像の「大爆発」とは
6 読者の身体、読者の街


第二章●文学から土地を読む、土地から文学を読む
菊池寛「身投げ救助業」と琵琶湖疏水

1 土地の歴史、文学の記憶
2 京都、岡崎の近代と物語の時間
3 菊池寛は岡崎・疏水に何を見たか
4 物語のもう一つの伏流―金銭をめぐって
5 京都近代の傍流の風景


第三章●鉄道と近代小説
近松秋江舞鶴心中」と京都・舞鶴

1 道行はどこへ―近代テクノロジーと心中
2 「舞鶴心中」の踏まえるもの―実話・世話浄瑠璃
3 描かれる鉄道の利便と愉楽
4 鉄路の道行―心中と軍港
5 距離と時間、そして今生の名残の抹殺


第Ⅱ部 文学作品と同時代言説を編み変える


第四章●笑いの文脈を掘り起こす
二葉亭四迷浮雲」―

1 笑いから見る「浮雲
2 「浮雲」の笑い―類型的性癖描写、言葉遊び、列挙
3 列挙と百癖、あるいは〈当世官員気質〉―発想の型に注目する
4 何が「浮雲」の笑いを消したのか


第五章●作品の死後の文学史
夏目漱石吾輩は猫である」とその続編、パロディ―

1 「吾輩の死んだあと」の文学史
2 吾輩の死後の生活圏―〈アーカイブ〉の生成
3 二次的創作の中の「猫」たち―その四類型
4 〈アーカイブ〉から考える〈文学史


第六章●人格論の地平を探る
夏目漱石「野分」―

1 明治末、人格論の時代
2 白井道也の『人格論』と同時代の人格論パラダイム
3 「感化」と小説―人格論のキーワード


第七章●文学と美術の交渉
―文芸用語「モデル」の誕生と新声社、无声会―

1 文芸用語「モデル」の来歴を探る
2 田口掬汀「もでる養成論」の新奇さ
3 「モデル」という用語の流通経路―平福百穂・新声社・无声会
4 「モデル」をめぐる理論的文脈―大村西崖と田口掬汀
5 文芸用語「モデル」、その後の展開


第八章●表象の横断を読み解く
―機械主義と横光利一「機械」―

1 時代が機械美を発見する
2 機械をめぐる想像力1―機械・人間・ロボット
3 機械をめぐる想像力2―機械の運命論
4 機械の運命論と横光利一「機械」
5 「科学」としての「文学」が測り始めるもの


第Ⅲ部 メディアが呼ぶ、イメージが呼ぶ


第九章●声の複製技術時代
―複合メディアは〈スポーツ空間〉をいかに構成するか―

1 複製された声とスポーツの空間
2 声の争奪戦―スポーツ・アナウンサーと活字メディア
3 スポーツ・ジャーナリズムの拡大と〈スポーツ空間〉
4 ファンの姿が描かれることの意味
5 呼びかける声の向こうに


第一〇章●風景写真とまなざしの政治学
―創刊期『太陽』挿画写真論―

1 雑誌に写真が入った時代
2 写真版印刷の登場と『太陽』
3 創刊期『太陽』の挿画写真概観
4 外国風景の挿画写真―机上旅行と人類学のまなざし
5 日本風景の挿画写真
6 創刊期『太陽』挿画写真の機能と効果


第一一章●誰が展覧会を見たのか
―文学関連資料から読む文展開設期の観衆たち―

1 「観衆」とは誰か
2 美術展覧会と近代観衆
3 複層化する観衆
4 展覧会システムと観衆化
5 文展観衆のなお「外」に

漱石作品 その〈死後の生〉 [講演]

京都漱石の會、第18回定例会、御所西京都平安ホテル、2016年11月13日


kyotososeki.at.webry.info

[概要]
〈死後の生〉などと書くと、怪談やオカルトの話かと敬遠される向きもあるかもしれませんが、そうではありません。作品が発表された「後」のことを考えてみよう、そういう文学史の考え方もあるのだ、というお話をさせていただくつもりです。
 一般的な文学史というものを思い浮かべてみましょう。日本の近代文学史の最初は、坪内逍遙の『当世書生気質』におかれることが多いです。一八八五(明治一八)年に発表されました。二葉亭四迷の『浮雲』が一八八七年。森鷗外『舞姫』が一八九〇年。夏目漱石の『吾輩は猫である』が一九〇五年。こう並べていくと、文学史の流れが見えてくるような気がします。
 が、考えてみますと、これらはすべて発表年を並べています。人名と発表年をずらずらと並べたものが文学史――なのでしょうか。私たちは、今でも漱石の作品を、芥川龍之介の作品を、与謝野晶子の歌を、読んで味わっています。文学史が発表年の列挙だとしたら、私たちが彼らの作品を今でも受け取っているというこの事実は、どう考えればよいのでしょうか。
 文学の歴史は、「持続」の歴史としても考えることができるのではないか、というのがこの講演で私がお話ししたいことです。『吾輩は猫である』は、最初、雑誌『ホトトギス』の一九〇五年一月号に発表されました。その後、雑誌連載が翌年まで続くかたわら、単行本として刊行が始まります。単行本は最初の印刷が終わった後も、二刷、三刷というように重版が続きます。さらに時期が重なりながら縮刷版が刊行されたり、抄録された本が出たり、教科書への掲載が始まったり、全集が刊行されはじめたりします。『吾輩は猫である』の「持続」とは、たとえばそういうことです。
 それだけではありません。作者が夏目漱石ではない「猫」が生まれてきます。パロディ本の類いです。人気作だった『吾輩は猫である』は、大量の追随作、パロディ、続編などを生みだします。こうした「猫」のきょうだいたちも「持続」の文学史に加えることができるでしょう。
 今回の講演では、文学史の「持続」――すなわち作品の〈死後の世界〉――をキーワードに、漱石作品の今日まで続く、長い長い「生」について考えてみたいと思います。

図書館と読書の履歴をめぐる文学的想像力

『日本文学』日本文学協会、第65巻第11号、pp.51-61、2016年11月10日発行、特集「図書館と文学──保存・検閲・スキャンダル」

Title: "Library, Reading Record, and the Literary Imagination"

表題の論文を書きました。要旨は以下のとおりです。

[要旨]
この論考では、個人の内面や来歴と、本と読書記録との交差をめぐる文学的想像力を検討する。その想像力には、図書館という装置が深く関わっている。図書館は、私たちが本および他者と取り結ぶ関係を深く規定している。さらに図書館という装置には、個人の履歴や性向を把捉し、読書を教育の一つの回路としようとする監視と規律訓練の権力も介入する。言及した作家は村上春樹夏目漱石恩田陸法月綸太郎有川浩小川洋子などである。

[Summery]
Literary imagination is created by interactions between our psyche, personality, and reading habit. It is closely related to the social functions of libraries to define our reading predilections with no small influence on the formation of our personality. Therefore libraries are always in danger of being abused as an ideological apparatus for surveillance and discipline through our reading records and habits. This article will explicate both the limitations and possibilities of libraries in cultivating our literary imagination.

f:id:hibi2007:20161111233726j:plain

どうして嘘つきがまかり通るのか――「ポスト事実の政治 post-truth politics」の時代にどう向き合うか

「ポスト真実」の時代  「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか(追記2)このブログ記事が元となった書籍『「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』を、祥伝社から刊行します。「ポスト真実」についてより詳しく知りたい方は、こちらもご覧下さい。

(追記1)この記事を書いたあと、オックスフォード辞典が「今年の単語」に post-truth を選んだというニュースが入ってきました。訳語は「ポスト真実」とされていることが多いようです。私は以下でtruthを「事実」と訳していまして、その方がふさわしいかなと考えていた(いる)のですが、多勢に無勢の気配です。この記事については訂正はしませんが、定着していくようなら今後は「ポスト真実」に切り替えた方がいいかもしれません。

「ポスト事実の政治 post-truth politics」とは

キャンペーンの中で大小さまざまな嘘を並べたトランプ氏が大統領になりました。イギリスのEU離脱国民投票でも、虚偽の数字がばらまかれました。日本でも、首相が福島第一原発は完全にコントロールされていると胸を張ったり、防衛大臣南スーダンの治安が落ち着いていると述べたりしています。

今朝(11月10日)の『朝日新聞』の記事「内向きな超大国のリスク」(一面)も紹介していましたが、こうした事実に基づかない主張がまかり通る政治のことを、「ポスト事実の政治 post-truth politics」と呼んで考えることが増えているようです。

こうした傾向は、政治家だけの問題ではないでしょう。彼らを支持する人々がいて、そうした政治家がはじめて力を持つ。その意味で「ポスト事実の政治 post-truth politics」とは、「ポスト事実の時代 post-truth era」でもあります。

日本も、完全にこの時代の中にあると言えるでしょう。所得格差が拡大し、鬱屈した不満が蓄積しています。こうした状況で本来力を発揮するべきリベラルな政党は力を失っており、代わりにそのはけ口が排外主義的な主張や感情に見い出されています。その風潮を吸い上げた与党およびそれに近い主張の政党が、力を得ている時代です。ありもしない「脅威」や「危機」や「特権」が主張され、そのあやまりが指摘されているにもかかわらず、流布して力を持っていき、排外的な行動を惹起したり、現政権の軍事的積極主義に拍車をかけたりしています。

なぜ嘘がまかり通っていくのか

どうして、嘘がまかり通るのでしょうか。

注意しなくてはならないのは、「ポスト事実の時代」のプロパガンダを信じる人たちは、必ずしも事実を重視していないのではなく、誤った事実を「事実」と思っているということでしょう。誤った事実の支持者は、その「事実」が本当に事実であるのかの検証を怠ります。あるいは、不都合な事実に目を背けようとします。その代わりに、自分自身の感覚に寄り添うような「事実」だけを拾い上げていきます。これを「感情と結びついた「事実」」と呼んでみましょう。

こうした行動の背景にあるのは、やはりネット社会でしょう。私たちはスマートフォンやPCを用いて、その気になれば圧倒的な量の情報に接することができます。ネットの情報は玉石混淆です。重要なものも些末なものも、正確なものも不正確なものも平等に検索順に並びます。検索結果の上位に来るのは、正確さではなく、アクセス数や関連度(どのようにそれが計算されているのか、わかりません)です。

重要なのは、そうした情報がSNSを通じて拡散することが増えていて、SNSによる共有の蔡には感情が付随するということです。Facebookを利用する方は、「いいね」ボタンが感情別に下位分類されていることをご承知でしょう。Twitterは「いいね」1つですが、#で付けられたタグがその代わりをすることもあります。そもそも140字制限のメディアなので、何かを論じるというよりは、短い感想や気持ちを載せてシェアするのに適したツールです。

また『New York Times』の記事「The Age of Post-Truth Politics(ポスト事実の政治の時代)」(2016年8月24日)は、変化の背景に「事実の社会」から「データの社会」へという流れがあると指摘しています。政治家は、たとえばTwitterのつぶやきをリアルタイムで分析した結果を基に、どこに力点を置くのかを判断する。そこで重視されるのは事実を根拠にした確かさではなく、つぶやきを解析する「感情の分析sentiment analysis」の結果だ、と言うのです。

「ポスト事実の時代」にどう向き合うか

いうまでもなく、事実に基づかない国の舵取りは、危険です。感情に流される組織的判断は、あまりに危うい。

この危うさに、どのようにこれから私たちは向き合っていけばいいのでしょうか。

「ポスト事実」の時代に必要なのは、そのモードに自分自身も乗ることではないはずです。「感情と結びついた「事実」」を操る相手に対抗するために、ついこちらも感情を動員したくなります(私自身も反省するところがあります)。しかし、それは上策ではないでしょう。

『Economist』誌の記事「Post-truth politics: Art of the Lie(ポスト事実の政治:嘘をつく技術)」(2016年10月10日)は、ポスト事実の風潮に対抗する人びとを「Pro-truthers(事実支持派)」と呼んで、その役割の重要さを強調しています。
www.economist.com


事実が見えにくい時代だからこそ、事実の拠りどころの価値はむしろ高まると考えなければなりません。公的機関やメディア、研究機関、専門家は、感情に流されず、政治的な対立に左右されない事実を公表し続け、「ポスト事実の政治」に便乗しようとする人びとやそのプロパガンダの嘘を、指摘し続ける必要があるでしょう。

その指摘に耳を貸さない、その指摘が無効であることこそが、いまの状況ではないのか、という疑問が投げかけられるかもしれません。そのとおりです。トランプ氏が候補だったとき、彼の嘘は指摘され続けましたが、彼は当選しました。「在日特権」の嘘は指摘され続けていますが、いまなお、それを信じている人びとは少なからずいます。

打つ手はないのでしょうか。

不都合な事実に目を背け、自分自身の信じる「感情に結びついた「事実」」だけを鞏固に信じる人びとはいつの時代にもいます。とりわけ、SNSが発達した現代では、意見の合わない人やメディアに接触する道を封鎖し、居心地の良い「自己フィルタリング」の中で生きるのは容易です。

こうした人びとを声を届け、説得することは簡単ではありません。

私は、ターゲットはこのようなコアな「反事実Anti-Truth」的人びとではないと思います。「ポスト事実」の政治のプロパガンダや、「反事実」の世界に生きるメディアや人びとの言説を浴びせられ、その影響を被ってしまう、「普通の人びと」こそが説得のターゲットではないでしょうか。

強い感情は、その保持層を越えて、漏れ出します。繰り返しそうした言説、情報、映像に接することにより、それに接触した人びとに感情が伝染していきます。

英国のEU離脱派、トランプの支持者たちのなかには、比較的高学歴な人、所得の安定した人もいたといわれています。日本の排外主義的な風潮に同調する人びとも、かならずしも低所得層、低学歴層だけではありません。声に出さないまでも、秘かに支持をしていたり、ゆるやかな共感をもって見ていたりする。そうした人びとはおそらく、「感情と結びついた「事実」」に繰り返し接触することで、その感情に巻き込まれ、徐々に危ういプロパガンダに靡いたり、理解を示したりしているのだと推定されます。

「感情と結びついた「事実」」の力に曝される「普通の人びと」(=マジョリティ)に、カウンターのアプローチをする。事実に基づいた思考と、事実に基づいた社会の運用が大切か、説得し続ける。そのための根拠となる事実を示し続ける。嘘を、暴き続ける。それが「ポスト事実」の時代に大切なことではないでしょうか。

事実を重視せず、感情に流される社会は、不安定で危険な社会です。公的機関、メディア、研究機関、専門家、そして事実を読み取るための人びとのリテラシーを高める教育者の役割は、これからますます大きいと言わなければなりません。


(追記)
続きもあります。→
「ポスト真実」と感情化社会 どうして嘘つきがまかり通るのか(2) - 日比嘉高研究室