どうして嘘つきがまかり通るのか――「ポスト事実の政治 post-truth politics」の時代にどう向き合うか
(追記2)このブログ記事が元となった書籍『「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』を、祥伝社から刊行します。「ポスト真実」についてより詳しく知りたい方は、こちらもご覧下さい。
(追記1)この記事を書いたあと、オックスフォード辞典が「今年の単語」に post-truth を選んだというニュースが入ってきました。訳語は「ポスト真実」とされていることが多いようです。私は以下でtruthを「事実」と訳していまして、その方がふさわしいかなと考えていた(いる)のですが、多勢に無勢の気配です。この記事については訂正はしませんが、定着していくようなら今後は「ポスト真実」に切り替えた方がいいかもしれません。
「ポスト事実の政治 post-truth politics」とは
キャンペーンの中で大小さまざまな嘘を並べたトランプ氏が大統領になりました。イギリスのEU離脱の国民投票でも、虚偽の数字がばらまかれました。日本でも、首相が福島第一原発は完全にコントロールされていると胸を張ったり、防衛大臣が南スーダンの治安が落ち着いていると述べたりしています。
今朝(11月10日)の『朝日新聞』の記事「内向きな超大国のリスク」(一面)も紹介していましたが、こうした事実に基づかない主張がまかり通る政治のことを、「ポスト事実の政治 post-truth politics」と呼んで考えることが増えているようです。
こうした傾向は、政治家だけの問題ではないでしょう。彼らを支持する人々がいて、そうした政治家がはじめて力を持つ。その意味で「ポスト事実の政治 post-truth politics」とは、「ポスト事実の時代 post-truth era」でもあります。
日本も、完全にこの時代の中にあると言えるでしょう。所得格差が拡大し、鬱屈した不満が蓄積しています。こうした状況で本来力を発揮するべきリベラルな政党は力を失っており、代わりにそのはけ口が排外主義的な主張や感情に見い出されています。その風潮を吸い上げた与党およびそれに近い主張の政党が、力を得ている時代です。ありもしない「脅威」や「危機」や「特権」が主張され、そのあやまりが指摘されているにもかかわらず、流布して力を持っていき、排外的な行動を惹起したり、現政権の軍事的積極主義に拍車をかけたりしています。
なぜ嘘がまかり通っていくのか
どうして、嘘がまかり通るのでしょうか。
注意しなくてはならないのは、「ポスト事実の時代」のプロパガンダを信じる人たちは、必ずしも事実を重視していないのではなく、誤った事実を「事実」と思っているということでしょう。誤った事実の支持者は、その「事実」が本当に事実であるのかの検証を怠ります。あるいは、不都合な事実に目を背けようとします。その代わりに、自分自身の感覚に寄り添うような「事実」だけを拾い上げていきます。これを「感情と結びついた「事実」」と呼んでみましょう。
こうした行動の背景にあるのは、やはりネット社会でしょう。私たちはスマートフォンやPCを用いて、その気になれば圧倒的な量の情報に接することができます。ネットの情報は玉石混淆です。重要なものも些末なものも、正確なものも不正確なものも平等に検索順に並びます。検索結果の上位に来るのは、正確さではなく、アクセス数や関連度(どのようにそれが計算されているのか、わかりません)です。
重要なのは、そうした情報がSNSを通じて拡散することが増えていて、SNSによる共有の蔡には感情が付随するということです。Facebookを利用する方は、「いいね」ボタンが感情別に下位分類されていることをご承知でしょう。Twitterは「いいね」1つですが、#で付けられたタグがその代わりをすることもあります。そもそも140字制限のメディアなので、何かを論じるというよりは、短い感想や気持ちを載せてシェアするのに適したツールです。
また『New York Times』の記事「The Age of Post-Truth Politics(ポスト事実の政治の時代)」(2016年8月24日)は、変化の背景に「事実の社会」から「データの社会」へという流れがあると指摘しています。政治家は、たとえばTwitterのつぶやきをリアルタイムで分析した結果を基に、どこに力点を置くのかを判断する。そこで重視されるのは事実を根拠にした確かさではなく、つぶやきを解析する「感情の分析sentiment analysis」の結果だ、と言うのです。
「ポスト事実の時代」にどう向き合うか
いうまでもなく、事実に基づかない国の舵取りは、危険です。感情に流される組織的判断は、あまりに危うい。
この危うさに、どのようにこれから私たちは向き合っていけばいいのでしょうか。
「ポスト事実」の時代に必要なのは、そのモードに自分自身も乗ることではないはずです。「感情と結びついた「事実」」を操る相手に対抗するために、ついこちらも感情を動員したくなります(私自身も反省するところがあります)。しかし、それは上策ではないでしょう。
『Economist』誌の記事「Post-truth politics: Art of the Lie(ポスト事実の政治:嘘をつく技術)」(2016年10月10日)は、ポスト事実の風潮に対抗する人びとを「Pro-truthers(事実支持派)」と呼んで、その役割の重要さを強調しています。
www.economist.com
事実が見えにくい時代だからこそ、事実の拠りどころの価値はむしろ高まると考えなければなりません。公的機関やメディア、研究機関、専門家は、感情に流されず、政治的な対立に左右されない事実を公表し続け、「ポスト事実の政治」に便乗しようとする人びとやそのプロパガンダの嘘を、指摘し続ける必要があるでしょう。
その指摘に耳を貸さない、その指摘が無効であることこそが、いまの状況ではないのか、という疑問が投げかけられるかもしれません。そのとおりです。トランプ氏が候補だったとき、彼の嘘は指摘され続けましたが、彼は当選しました。「在日特権」の嘘は指摘され続けていますが、いまなお、それを信じている人びとは少なからずいます。
打つ手はないのでしょうか。
不都合な事実に目を背け、自分自身の信じる「感情に結びついた「事実」」だけを鞏固に信じる人びとはいつの時代にもいます。とりわけ、SNSが発達した現代では、意見の合わない人やメディアに接触する道を封鎖し、居心地の良い「自己フィルタリング」の中で生きるのは容易です。
こうした人びとを声を届け、説得することは簡単ではありません。
私は、ターゲットはこのようなコアな「反事実Anti-Truth」的人びとではないと思います。「ポスト事実」の政治のプロパガンダや、「反事実」の世界に生きるメディアや人びとの言説を浴びせられ、その影響を被ってしまう、「普通の人びと」こそが説得のターゲットではないでしょうか。
強い感情は、その保持層を越えて、漏れ出します。繰り返しそうした言説、情報、映像に接することにより、それに接触した人びとに感情が伝染していきます。
英国のEU離脱派、トランプの支持者たちのなかには、比較的高学歴な人、所得の安定した人もいたといわれています。日本の排外主義的な風潮に同調する人びとも、かならずしも低所得層、低学歴層だけではありません。声に出さないまでも、秘かに支持をしていたり、ゆるやかな共感をもって見ていたりする。そうした人びとはおそらく、「感情と結びついた「事実」」に繰り返し接触することで、その感情に巻き込まれ、徐々に危ういプロパガンダに靡いたり、理解を示したりしているのだと推定されます。
「感情と結びついた「事実」」の力に曝される「普通の人びと」(=マジョリティ)に、カウンターのアプローチをする。事実に基づいた思考と、事実に基づいた社会の運用が大切か、説得し続ける。そのための根拠となる事実を示し続ける。嘘を、暴き続ける。それが「ポスト事実」の時代に大切なことではないでしょうか。
事実を重視せず、感情に流される社会は、不安定で危険な社会です。公的機関、メディア、研究機関、専門家、そして事実を読み取るための人びとのリテラシーを高める教育者の役割は、これからますます大きいと言わなければなりません。
(追記)
続きもあります。→
「ポスト真実」と感情化社会 どうして嘘つきがまかり通るのか(2) - 日比嘉高研究室
池内了さん講演「科学の軍事利用を考える 研究費、学問の自由、デュアル・ユース(仮)」
11月8日(火)に池内了さんの下記の講演があります。大学をめぐる喫緊の問題の一つ、軍事研究、軍事費・防衛費との関係、デュアル・ユースなどの問題がテーマです。お運び下さい。
名大アゴラ 第5回
池内 了さん
(名古屋大学名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授)「科学の軍事利用を考える 研究費、学問の自由、デュアル・ユース(仮)」
2016年 11月8日(火)18:00~19:30(開場:17:30)
名古屋大学東山キャンパスIB情報館 1階015講義室
(地下鉄「名古屋大学」3番出口徒歩1分)自民党や防衛省は、大学等との軍事共同研究の予算を来年度から大幅に増額する方針を固めています。運営費交付金や科学研究費などの通常の研究予算を削減しながら、軍事研究費だけは大幅に増額するなど、愚策の極みです。昨年度の集団的自衛権の行使へ舵を切った安保法制の制定から始まり、経済成長のために軍需産業を利用する政策、そして研究分野にも軍事色を強化してくる今の政権について、その問題を明らかにするとともに、大学での学問や研究のあり方を考えてみたいと思います。
http://nu-anti-war.wixsite.com/main/single-post/2016/10/07/%E5%90%8D%E5%A4%A7%E3%82%A2%E3%82%B4%E3%83%A9-%E7%AC%AC5%E5%9B%9E%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC-%E6%B1%A0%E5%86%85%E4%BA%86-%E6%B0%8F
来週末 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 名古屋大会です
外地書店を追いかける(7) 台湾書籍雑誌商組合のこと
『文献継承』第29号、2016年10月、pp.4-6
今回の内容はこんな感じです(冒頭より)
内地と外地を結んだネットワークを考える際に、一つの重要なアクターとなるのが、外地の小売書店の業界団体である書籍雑誌商組合である。書店組合は、当該地の小売書店の利益代表としてその主張(たとえば外地での売価の設定)を内地の出版社、取次、全国業界団体に伝えると同時に、内地からの要請・統制を小売書店へと伝え統御していく双方向の役割を担った。
http://kanazawa-bumpo-kaku.jimdo.com/%E6%96%87%E7%8C%AE%E7%B6%99%E6%89%BF-20%E5%8F%B7%E8%A8%98%E5%BF%B5/
「外地書店を追いかける(5)(6)」では、台湾日日新報社と新高堂書店・台湾書籍商組合との軋轢について追跡した。その過程ですでに台湾書籍商組合のことについては触れているのだが、今回はあらためて、台湾の小売書籍商たちの組合について見ておくこととしたい。
(予告)日本近代文学会 特集 〈流通する書物〉の近代―変動期に於けるネットワーク形成と文化
かなり近付いてしまってからの宣伝(もう来週末ですね・・・)になりますが、以下のシンポジウムに登壇します。
日本近代文学会 2016年度 秋季大会 特集
日時: 2016年10月15日(土)14:00より
場所: 福岡大学 会場:A201教室《特集》〈流通する書物〉の近代 ―変動期に於けるネットワーク形成と文化
http://amjls.web.fc2.com/gakkai.html#2015-06
磯部 敦 異本流通の地場―『徳川十五代記』『明治太平記』を例に―
日比 嘉高 ネットワーク・空間・ヘゲモニー―内地/外地を結ぶ書物流通
坂口 博 戦後の地方出版社の問題
柴野 京子 近現代に於ける読書空間の意味と変容
(ディスカッサント)石川 巧
全員の要旨も、上のリンク先からたどれます(わたしのは下に貼っておきます)。
近代文学会というより出版学会かよというラインナップですが、石川巧さん交えての討議も含め、面白いものになりそうです。いま、届きつつある他の方のレジュメを見ていますが、わたし自身が他の人の発表を聞くのがとても楽しみ。
会場が九州で、遠距離移動になる方も多いかもしれませんが、どうぞお運びを。学会は二日目もあり、多彩な個人発表・パネル発表が並びます。やはりリンク先から見られます。
発表要旨(日比分)
ネットワーク・空間・ヘゲモニー――内地/外地を結ぶ書物流通
日比 嘉高現在、内地と外地を結んだ書物の流通網の調査研究を進めているが、悩むのは書物流通という社会的装置についての分析を、文学研究など文化コンテンツについての論とどうつなぐか、ということである。書物流通の社会的な仕組みがあり、その「上」に文化が乗っているというイメージは、漠然と共有されているように思う。だが、ではその「上に乗っている」という状態は、どのように――この比喩が適切であるかどうかも含めて――研究の言葉で説明できるのだろうか。
まずは内地/外地を結ぶ書物流通のネットワークを、できるだけ実証的に捉える必要がある。取次、書店、同業者組合などの歴史を追いかける。さらに、これらの書物を直接的に担った諸要素の背後に、交通網があり、教育制度があり、図書館があり、国家ならびに植民地機関の統制がある。
こうした社会的装置と連関しあって文化的な活動が営まれる。文学はその一部であるが、考えたいのは文学の問題だけではない。内地/外地を結んだ書物の流通ネットワークは、いかにして文化を生み出し、形作ったのかを考えたい。課題の一つは、書物流通が植民地支配下において「空間の(再)生産」(アンリ・ルフェーブル)を行い、その空間およびネットワークの配置が帝国のヘゲモニーの維持・行使に関わったことの考察である。この問題は、支配的ネットワークの形成・運用と抵抗のネットワークとの関係を考えるという課題にもつながる。また流通する商品である「書物」というものの考察も必須であろう。書物はモノであり、同時に知であるのだから。そしてネットワークに関わる主体(間)の行動も考えねばならない。帝国の書店網は多民族の接触空間を創り出す。
最後に、余裕があれば書物の流通網と文学空間の関係を考えよう。インフラとしての機能はもちろんだが、外地書店は、場合によってはサロンとして、出版元・販売元として、またアジールとしても機能していた。
文学で考える 仕事の百年 (翰林書房版)
飯田祐子・日高佳紀・日比嘉高編、翰林書房、2016年9月30日、201頁
翰林書房からの再刊本です。
目次など詳細は、日高佳紀さんのページをご覧ください。
- 作者: 飯田祐子,日高佳紀,日比嘉高
- 出版社/メーカー: 翰林書房
- 発売日: 2016/10/20
- メディア: 単行本
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