日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

踏みとどまること、つなぐこと──人文社会科学の意義と可能性

『高知人文社会科学研究』第3号、2016年3月20日、pp.55-66

2015年11月8日に行われた高知大学人文社会科学部キックオフ・シンポジウム「高知から考える人文社会科学の可能性」(会場・高新RKCホール)での、同名の講演を収録したものです。

内容は以下からなっています。

1.はじめに
2.大学が変わる いま起こっていること
3.大学に求められるもの──「社会」の言葉から
4.人文社会科学の意義とは
5.おわりに

以下で全文がお読みいただけます。
Kochi University Repository: 【講演】踏みとどまること、つなぐこと―人文社会科学の意義と可能性

名大アゴラ

《名大アゴラ》というのが始まります。私も、趣意に賛同して協力しています。

こんな企画です。

名大アゴラは、名古屋大学人の会が主催する、自由と平和、そして民主主義を考えるための連続セミナーです。学生・市民と知を共有し、開かれた論議を行う場(アゴラ)となることを目指しています。

http://nu-anti-war.wix.com/main#!blank/yk7c8

第1回は4月16日、私も少し話をさせてもらいます。詳細はこちらからどうぞ。
nu-anti-war.wix.com
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講演「Digital Humanities と北米大学図書館の現在~ミシガン大から見る」

会場が「ビブリオサロン」に変更になりました。同じ名大中央図書館です。

f:id:hibi2007:20160302164302j:plain:w200:right人文学研究 × デジタル・テクノロジー × 図書館 で何が生まれるのか?
その交差が急速に進展しつつある北米の事例をもとに、ミシガン大附属図書館
現役司書・横田カーター啓子氏とともに考える。
研究は? 教育は? 図書館業務は? 海外の日本研究支援のあり方と、
日本関連資料のデジタル化の現状は?


講師:横田カーター啓子 氏(ミシガン大学大学院日本学研究司書)
演題:「Digital Humanities と北米大学図書館の現在~ミシガン大から見る」
日時:2016年3月22日(火) 15:30~17:00(終了時間は予定)
場所:名古屋大学附属中央図書館2F ビブリオサロン
    http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/guide/map/index.html
司会・コメント:日比嘉高(名古屋大学文学研究科)
言語:日本語

[講師より]

 情報テクノロジーの発達とビッグデータ学術研究方法と教育方法の変化も促している。大学における教育と研究支援をその使命とする大学図書館もその変化に伴い、また、全体的な教育への財政支援削減の中でその役割を見直し様々な図書館サービスの改革を行っている。デジタル学術研究を支援する図書館の変化を紹介するとともに、現在、グローバル的に広がる人文学の危機を視野に入れながら、北米における日本研究支援の立場から世界における日本研究の課題についても言及したい。
 また、「スーパーグローバル化」を目指す日本の研究大学の「グローバル状況」はどうか、日本から入手できる日本語学術情報から考えてみたい。


[講師紹介]

横田カーター啓子 氏
ミシガン大学大学院日本学研究司書(2012年より現職)
http://www.lib.umich.edu/users/kyokotac

ミシガン大学日本研究基盤支援に従事し、広く北米日本学コレクション協同構築、特に日本語電子資料・メディア資料の普及、資料の保存とアクセス促進のために、北米・欧州の資料スペシャリスト、日本の図書館関係者、デジタル人文学研究者、電子資料開発業者と協力して日本資料の海外普及と日本研究促進に努めている。
関係著作:
「世界基準の図書館情報サービスーアメリカの大学図書館からの視点」『情報管理』2008
Part 1https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/51/3/51_3_222/_article/-char/ja/
Part 2 https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/51/7/51_7_528/_article/-char/ja/
Part 3 https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/51/11/51_11_844/_article/-char/ja/

イベントリポート「ミシガン大学 デジタル人文学と日本研究の未来:シンポジウム・研修」」『人文情報学月報』No.046 後編、2015年5月
http://www.dhii.jp/DHM/dhm46-2

(案内)位藤紀美子学長退任記念の会

京教関係者の皆さんへお知らせです。下記の要領で、「位藤紀美子学長退任記念の会」が開催されるそうです。

日時 平成28年4月10日(日) 12:00~14:00(受付開始11:30)
会場 京都センチュリーホテル(下図)
会費 10,000円

申込先・問い合わせ先は植山俊宏先生ですが、先生の連絡先をご存じない方は、とりあえず日比までご一報下さい。yosh.hibi[at]gmail.com(○を@に換えてください)

「同回生、お知り合い、先輩、後輩、同僚の方などで位藤先生にご縁のある方にもお回しいただければ助かります」とのことでした。

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紹介「「国文学論文目録データベース」の、あまりよく知られていないこと」(浅田徹氏)

「「国文学論文目録データベース」の、あまりよく知られていないこと」(浅田徹氏)
国文研ニューズ』No.41 Autumn 2015
http://www.nijl.ac.jp/pages/news/041/041zentai.pdf

日本文学研究をしているのに、国会図書館サーチとか、Ciniiとかしか使っていないあなたは、今すぐに読んだ方がいい記事です。

あるお稽古の話

七年少し続けていたお稽古を、やめようかと考えていた。

ひとつには仕事が忙しくなってしまったこと。時間を捻出しようと思えばできなくはないけれど、いまは月一回に減らしているその時間でさえ、惜しいと思う自分になっていた。

もうひとつには、色々自分なりに見えてきたことがあり、このまま続けていても限界があると思うようになっていたこと。次のステップに進むためには、より深くお稽古に関わらなくてはならないことは、はっきりしていた。より深く、というのは時間的にも、そして人間関係的にも、ということであった。お稽古のことについて、考える時間を増やし、向き合う時間を増やさなければ、大きな進歩は期待できなかった。また、お稽古の場の仕事や人間関係により一層踏み込めば、それだけ得られるものが多くなるのも確実だった。

が、どちらもいまの自分にはすることができなかった。

  *

お稽古は、お花である。いわゆる、華道。

花を活けるのは楽しい。花は、造形であり、構成である。その日のお稽古花として与えられた花材を、花器にさしていく。その花、その枝、その葉、その茎の姿を眺めながら、それらの組み合わせを、花器の上の限られた空間の上に配置していく。

f:id:hibi2007:20160224235335j:plain:w200:left季節が変わるごとに、花材も変わっていく。放っておけば、私の手は人工物しか触らない。花に触れ、枝を切り、水に触れる。みずみずしい茎を切り落とした香りをかぐ。季節を先取りしてくる花たちに、春や夏を、秋や冬を、知らせてもらう。

活ける花の基本形は決まっている。しかしバリエーションは無限である。ひとつとして、同じ花、同じ枝はないからである。

  *

花を活けるのは楽しい。しかし、稽古場に通う私の足取りは、いつしか軽いものではなくなっていた。そこは仕事場とも家庭ともまったく別の世界であったが、その非日常の空間は、次第に日常のしごとの重みに負け、なすべきことの合間に慌てて済ませるような、痩せ細ったものになっていっていた。

ここ数ヶ月、私はお稽古をしばらく休もうかということを、ずっと考えていた。まず一年、休む──。しかし一年休めば、そのまま休み続けることは確実だった。それはやめるということと、ほぼ同義だった。

  *

今日、私は「休みます」と先生にお伝えする覚悟で稽古場に向かった。先生は忙しく、いろいろな応対をこなされていた。切り出すのは帰りにしよう、と考えた。

今日の花材を出した。アイリスと、枝物と、葉物の3種類(名前は聞いたが忘れた。その程度の弟子だ)。「新風体」というかたちに活けていく。今日のもむずかしい。主(メイン)と、用(サブ)と、あしらい、の三種類の役を、それぞれの花材に割り当てて配置していく。花を主、枝物を用、葉物をあしらいにした。

「新風体」というかたちは比較的新しいもので、かたちも花材も自由度が高い。逆に言えば、それだけ活け手の裁量が増えて、難易度が増す。

活ける。ぜんぜん、かたちがサマにならない。だいたいの方針は決まったが、あきらかにどんくさい。

しばらく格闘し、最後にあきらめて、先生に、「すいません、一応できました」、という。先生は、「今日のはむずかしいかもね」といいながら、私のいれた花を遠慮なく引っこ抜いていく。調子がいいときは、わずかな手直しで「いいわね」と褒めていただける。だめだと「うーん、ちょっとやり直していいかしら?」と仰りながら、総入れ替えとなる。今日はまあ半分ぐらいの出来か。

  *

先生がアイリスを入れた。手前に一本。その奥に一本。

私はその二本で、魂消た。ぜんぜんちがう。同じ花、ほぼ同じ長さ。

けれど、ぜんぜんちがう。バシッと決まったときの花は、安定感がある。そこにそうあることで、どん、と動かずにいる感じ。角度か。向きか。取りあわせのバランスか。いずれにせよ、先生の活けた二本のアイリスは、その長さ、その角度でしかありようのないかたちで、立ち上がっていた。

枝物が引っ張り出された。大きい方のやつだ。方針はわたしのと変わらない。大きいのを前に持ってきて、ぐっとこちらに張り出させる(私の先生はこういうかたちが好みで、私も自然にそうなる)。「これ、矯めが効くわよね(=曲げてもボキッと折れないよね)」といいながら、二箇所ぐらい、ボキポキ折る。アイリスの横にかざしながら、余計な枝を3つぐらい落とす。そしてアイリスの前に、刺した。

すごい。同じ枝なのに、同じ枝じゃない。まったくちがう。私の枝の線が子供のチャンバラの刀の振りだとすると、先生のは居合抜きだ。私の置いた枝は、漫然とそこにあったが、先生の枝は小枝の一本一本に意味があった。それがそこにある理由があり、それはそこでしかありえないところを通っていた。

葉物を一番奥に刺した。裏を向けた。色が変わる。表は緑に白の葉脈が出ていて明るかったが、裏は暗い紫。すっと花器の上に奥行きが出て、アイリスの紺が映える。

「あっちに置いてみましょう」と先生が言って、襖の前の、あかるいところに置いてみる。正面に座って見る。

  *

漱石の「夢十夜」第六夜に、運慶が仁王像を彫っているのを見に行く夢がある。その技倆の素晴らしさに感心する私に、となりの若い男がこういう。「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」。

先生の花は、とても自然にそこに存在していた。二本のアイリスは、根元でしっかりと水をつかみながら、互いが互いを引き合うようにして、すっと上に伸びていた。葉の曲線が美しい。そうか、曲線を重ねてあるのか、と気づく。しなやかに外へそっていく緑の葉が、手前と奥で、幾重にも重なっている。

手前の大きな枝は、空間を左上に押し上げていた。縦に花全体のかたちを引っ張り上げると同時に、それぞれの枝と葉が、適切なボリュームで空間を掴み、見えない壁と天井を創り出す。大きく張り出した左側と逆、軽い右側に、バランスを取るように短い枝が伸びている。ああ、ここでも曲線を重ねてあるな、と思う。単にバランスを取っているだけではなかった。その枝は、アイリスの葉に、すっと寄り添うように伸びていた。

暗紫色の長円形の葉は、中心線上の真後ろにあった。こわくて、こんなことはできない。私はたいてい、なにかの風情を出すために、やや斜めにしてみるのだ。誰かに媚びるかのように。先生のは、まっすぐに後ろにあった。端正だった。たぶん、高さの問題もあるだろう。高すぎれば、間延びし、またその色でアイリスたちを殺す。低すぎても野暮ったい。

ぐうの音も出ない。自分の机の前に、花器を引いて行って、しばらく呆然とその花を見た。自分がああでもない、こうでもないと、向きを変え、ちまちま怖わ怖わと長さを切り、刺しては抜き、抜いては刺してした、たった五本の植物たちは、たしかにこの位置、この向き、この組み合わせでしかありえない姿でしずかにあった。微動だに、しない。あたかも、先生が活ける以前からそこにあったかのように。先生がそこにあったものを、ただ「彫り出した」かのように。

  *

「活け替え」という作業がある。先生に手直ししてもらった花を、一度すべて抜く。それをもう一度花器の中に活け直す。それだけである。

簡単に思える。実際、作業としては単純この上ない。鋏は普通もう使わない。あったものを抜き、もとのところに入れるだけ。

これが、ものすごく、むずかしい。同じものに、ぜんぜんならない。たった五本の花と枝と葉なのに、である。

入れてみる。ものの三分で入る。だが、ちがう。なにかが決定的にちがう。不細工なのだ。それぞれの花、枝、葉の向きが、位置が、微妙にちがう。その微妙なちがいが積算していって、全体の姿に致命的な崩れをもたらす。

そしてここで思い知る。私は先生が見ていた線を、面を、空間を、まったく見ることができていないのだ、ということを。見えないものは、直せない。私は私の何が悪いのか、まったくわからない。ただ、これはちがう、ということだけがわかる。悪いことはわかるが、何が悪いのかわからない。こんな怖いこと、こんな悲しいことはない。

「先生、だめです。おんなじになりません」と、今日二度目の音を上げる。先生はやってきて、「うーん、ちょっとちがうわねぇ」といいながら、すっ、すっ、といじる。決まる。だらしなく着崩れていた襟が、ぱりっと立つように、花が居ずまいを正す。

その手に、どんな秘密があるのか。

  *

先生は、私のように、花の形について饒舌に語ることはないし、その必要も感じていないだろう。何十年もかけて花を活け続けてきた、目と手が、形を、作りだす。それは言葉にされない知のかたちである。

私も「先生」と呼ばれる業種についている。
だが、その姿はなんと違うことだろうか。私はたんに一人の口舌の徒にすぎない。
花を活ける、ということの単純な無限と、それを軽やかに楽しんで現前させる先生の前に、今日私はかんねんした。
私の日常とは違う世界が、ここにはある。この花器の上と、先生の目と手の中に。

私は、お稽古を続けなければならない。