日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

星野しずる氏を使ってみた件

六月の底で秘密を見ています 人それぞれの雨の手ざわり (星野しずる)

http://sasakiarara.com/sizzle/

コンピュータ・プログラムによる、短歌の自動生成作品です。始めて使いました。この装置、面白いですねぇ。コンピュータ・プログラムによって文学作品を「創作」しようという試みは、けっこう古いと思うんですが、かなり技術的に進化してるんでしょうね。もちろん、このページ「犬猿」はコードを書いた人の(短歌とプログラムの)知識と技術が高いのでしょうけれど。

星野しずる氏をどう評価するか、それは詩論の問題でもあるし、読者論の問題にもなるし、デジタル人文学の問題でもあるでしょうね。


ちなみに私は今学期、「書き直し近代文学」という演習を、勤務校の授業でやりました。
近現代の小説や評論などを「書き直す」という怖れを知らぬ(笑)授業なんですが、学生たちがすごくて、授業者である私が一番面白がっていました。

そこでも、《機械翻訳と人間の創作のコラボ》とか《詩っていったい何なの》とか《読者側の深読み力すげー》というようなことが議論・検討の俎上に上がってきました。

星野しずるをそのときに知っていれば、ぜったい授業で言及したでしょう。

興味のある方は、ぜひ下記からお試しを。
短歌自動生成装置「犬猿」(星野しずる)

#短歌自動生成 #星野しずる

メディア――移民をつなぐ、移民がつなぐ

河原典史・日比嘉高編、クロスカルチャー出版、2016年2月15日、420頁


本研究は、マイグレーション研究会の共同研究としてスタートし、立命館大学国際言語文化研究所「メディアと日系人の生活研究会」として重点研究の指定を受け(2013-2014)たものである。刊行に際しては、立命館大学国際言語文化研究所の出版助成を受けている。


メディア―移民をつなぐ、移民がつなぐ (クロス文化学叢書)

メディア―移民をつなぐ、移民がつなぐ (クロス文化学叢書)

  • 作者: 河原典史,日比嘉高,和泉真澄,木下昭,松盛美紀子,佐藤量,半沢典子,飯田耕二郎,山本剛郎,根川幸男,守屋友江,佐藤麻衣,水野真理子,小林善帆,辰巳遼,中原ゆかり
  • 出版社/メーカー: クロスカルチャー出版
  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る


はじめに―つなぐメディア、つなぐ人々 / 日比嘉高

Ⅰメディアが伝える、教育が伝える

メディアとしての卒業アルバムヒラリバー日系アメリカ人収容所における高校生活の表象分析 / 和泉真澄
軍政下日本語教育の記憶―元教員が描いたフィリピンとビルマ / 木下昭
『麦嶺学窓』と『南加学窓』からみる戦前期の在米日本人留学生像 / 松盛美紀子
コラム同窓会誌のなかの満洲記憶 / 佐藤量

Ⅱ 新聞・雑誌と移民コミュニティ

ブラジル・ノロエステ地方における日本語新聞―1910年後半~1930年代を中心に / 半澤典子
1910年の悲劇はいかに報道されたか―カナダ・ロジャーズ峠の雪崩災害と日本人移民社会 / 河原典史
広告よりみたハワイにおける日本人の興行―1920年の『布哇報知』と『馬哇新聞』の場合 / 飯田耕二郎

Ⅲ 跨境するメディア

移民は何を運ぶか―日記等を通して考える / 山本剛郎
〈代表する身体〉は何を背負うか―1932年のロサンゼルス・オリンピックと日本・米国・朝鮮の新聞報道 / 日比嘉高
移民船のメディア/メディアとしての移民船―1930年代ブラジル移民船を事例に / 根川幸男
コラム『米国仏教』とLight of Dharma / 守屋友江

Ⅳ 芸術と文化のネットワーク

『紐育新報』と邦人美術展覧会―角田柳作のジャパニーズ・カルチャー・センターとの関わり / 佐藤麻衣
1930年代の日系アメリカ人の文学活動と「左翼的」結びつき―『収穫』『カレントライフ』『同胞』ほか / 水野真理子
『女性満洲』と戦時下のいけ花 / 小林善帆
アフリカ系アメリカ人の音楽文化の実践―ラップ・ミュージッツクとメディア・テクノロジー / 辰巳遼
コラム音盤は時代をつなぐ―ハワイ2世楽団のレコードと復刻CD / 中原ゆかり

二つの移民研究―おわりにかえて / 河原典史

インタビュー・記憶・《経験》: 利尻島に行った話2

インタビューという出会い

やって来たとき、その利尻島の老人は一人の見知らぬ他人だった。2時間のインタビューを終え、一緒に昼食のうどんをすすったあと、その老人は離島で育ち、初年兵として戦場をくぐり、捕囚としてシベリアで過ごし、舞鶴に引き揚げ、そして戦後の70年を生きてきた沓野法助(仮名)として、「では、お達者で」と言い、去って行った。

インタビュー、あるいは聞き取り、という行為を私たちはどのように考えたらいいだろうか。学術的なことをいえば、インタビューはさまざまに用いられうる。
 たとえば、まとまった数の人々のインタビューを重ね、相互に突き合わせながら、あるできごとの実像に迫ろうとするやり方もある。
 あるいは、一人の人間の生の軌跡に寄り添い、その通史を語り直すことで、「別の歴史」や、生の多様さを浮き彫りにする方法もある。
 またあるいは、一人の経験を、公の、「大きな歴史」に対置して、その批判の起点とする試みもある。

いずれもそれぞれの可能性があるが、ここで書きたいのは、見知らぬ他人が、一人の個人として姿を現し、そして「余韻」を残して去って行くという、インタビューと今とりあえず呼んでおく、出会いのことである。

f:id:hibi2007:20160206153433j:plain:w300:right私に、インタビューの経験が多いとはいえないが、日系移民や戦争体験者、引き揚げ経験者の話を聞いた後に感じる、なにか手渡された感じ、というのは何なのだろう。手渡されたというのは、正確ではない。彼/彼女がもっていた何かを、彼/彼女が私に渡すという、そういうことではない。

語る人と語りを聞く人の「あいだ」に立ち上がる、語りの世界がある。それを経験したその人が、肉声で語る。私は、時に質問や対話を行いながら、それを目の前で聞く。その二人(あるいは複数の語り手/聞き手)のあいだに立ち上がる世界がある。その「あいだの世界」というもののあり方、そしてその世界の創出に関わるということを、どう考えたらいいのか。

沓野、樫木、旭、泊井たちの話

沓野は小学校6年生の時、親に連れられて樺太に渡った。鰊が不漁の年だった。一年の出稼ぎのはずが、住み着いた。小学校を高等科まで出て、郵便局で働いた。あるとき、樺太でネズミが大発生した年があった。ネズミの皮を狩る、という特殊な技能をもつ者がいるのだという。郵便局の窓口に立つ彼の前に、その特殊な生業の男が大量の箱を送るべくやってきた。箱の中はネズミの皮だった。箱は、発送されるまでに日があった。送り出される日を待ちながら、箱の中の皮は、強烈な臭いを彼の郵便局のなかに充満させた。

f:id:hibi2007:20160208104447j:plain:w300:left旭(仮名)の記憶は鮮明だった。彼は過去の場面を再演することができた。1945年、彼の家の前に召集を告げる軍人がやってきた。20歳、終戦の間際だった。彼はその応召の場面を再演した。朗々と語り直される、兵として立つべしと呼びかける軍人の言葉。家族や近隣の人が見守るなか、その言葉に応えみずからの決意を述べる旭の挨拶。彼はまた、教育勅語も、戦陣訓も朗唱した。(私はいま、そのいずれも文字で再演することができない。)利尻島から出る彼の出征は、船だった。岸では父親が旗を振っていた、それだけを覚えている、と彼は言った。

樫木(仮名)の小学校は、終戦を迎えても授業を行っていた。一年半の間、樫木も引き揚げなかったし、教師も残っていた。集落のようすは変わらないところもあったが、変わったところもあった。ソ連兵がしばしば家を訪れて、「ダワイ(よこせ)」と言い、物をもっていくことがあった。あるとき、彼女の小学校に、ソ連兵が一人でやってきた。何のために来たのかはわからない。教員が二人で、その兵士の両脇を抱え、学校の外へ出した。

泊井(仮名)は、終戦の日を、豊原の市内で初年兵として迎えた。翌日にはソ連兵に武装解除された。その数日後に、豊原は激しい爆撃にさらされた。男たちが出征していた樺太は、女子供が多かった。なぜ戦争が終わったはずの街に爆撃があるのか、と彼は思った。多数の女と子供が死んだ。女たちは背に荷物を背負っていた。だから死んだ彼女たちは横たわりはしなかった。背負った荷物にもたれかかり、座るようにして死んでいた。ある女には首がなかった。女の抱いていた子供も、もちろん死んでいた。3歳ぐらいの別の子供が、片腕を吹き飛ばされて大量の血を流していた。その子は、泣きもしなければ、痛がってもいなかった(彼はそれを2回繰り返した)。止血をし、救護所に連れて行った。その子はその後どうなったのか。最近思い出す。生きていれば何歳になっているのか。彼の両手は血まみれだった。その夜、彼は一人で便所に行くことができなかった。怖かった。彼は隣で寝る仲間を起こして、用を足しに行った。

泊井はまた、シベリアで死体を “埋め直す” 作業にも従事した。冬期に死んだ者の遺体は、仮に埋められるのだという。日本兵も、ソ連兵もである。数ヶ月凍土のなかで置かれた死体は、春を迎えて埋め直される。彼は墓を掘り、埋めた。日本兵とソ連兵を分けながら、埋めた。3、4ヶ月もそのまま凍らされているんだ。かわいそうなもんだ。だろう?この前天皇陛下はフィリピンに行ったけど、シベリアにもいっぱい仲間が死んでるんだ。忘れてもらっちゃ困るんだ。彼はそう、浜の横の店で、鍋焼きうどんをすすりながら言った。その浜から、集落の男たちはみな出征していったのだった。

記憶はつくられる、だが──

記憶は、現在からの呼びかけによって創られる、と言われる。そのとおりだろう。インタビューをすると、そのことは如実に分かる。インタビューする側には、聞きたいことがある。その聞きたいことに向かうように、質問をおこなう。当然、思い出しながらおこなう語りは、方向付けがされる。

嘘が語られると言っているのではない。記憶は、呼び出す側(これは他人であることもあれば、自分であることもある)の呼びかけに応じて、相互的応答的に創られていく。

このことをもって、記憶の虚構性や、恣意性、不確かさが言われることもある。「物語としての記憶」というようないい方をしてもいいのかもしれない。当然そういう面はある。

けれど私は、そのようにして記憶の不確かさや虚構性を言って終わりにしたくはない。語る者と語られる者のあいだで生起し、「余韻」を残すなにものかを、私は大事に考えたい。

「記憶」といったとき、それは誰かの記憶、「彼/彼女の記憶」を指す。記憶を受け渡す、といったとき、それは「彼/彼女の記憶」を受け渡すということになる。「記憶を受け渡す」という言い方は比喩である。われわれは実際、記憶を受け渡しなどできない。この比喩は、個人的な思い出を継承しようとする美しいふるまいを描き取るものだが、同時に「受け渡す」という時、記憶がモノかなにかであるかのように語ってしまう。そこでは受け渡されるものが、受け渡される場と、渡し渡される人のあいだで創り上げられることが含意できない。

《経験》

語り語られる場で起こるのは、もっと語る側と語られる側の声や感情や感覚が侵食しあった、まじりあったなにものかであるような気がする。語る者/語られる者が組み合い、また分かち合いながら創り上げるなにものかを、いま《経験》と仮に呼んでみる。

《経験》は体験ではない。体験は個人のものだ。それは体験した人に固有に所属するというニュアンスがある。それは語り語られる場で現れるものではない。一方、《 》をつけられた《経験》は、出会いと語りの場で創られる。それは過去の出来事だが過去ではない。《経験》は沓野や樫木や旭や泊井がかつて身をもって生きてきたことだが、同時にそれを聞く私が呼び出し没入しながら今まさに共有している。私の感情はそこに引き込まれる。応召に立ち会い、浜で振られる旗を見る。ネズミの皮の臭いを嗅ぎ、豊原の爆撃の惨状のなかで恐怖する。

老人たちは、来たときの匿名の風貌を消し去って、汲みきれないほどの歴史をその身のうちに秘めている人間として、去って行く。

私もまた、彼らを迎えた時の私ではない。「お世話になりました。ありがとうございました」といって送り出すときの私は、数時間前の私ではない。

《経験》が彼らと私の「あいだ」を結んでいる。「余韻」とここまで呼んできたものは、その消しようのない《経験》の持続のことである。

老人たちは死んでいく。それは遠くない確実な未来である。
彼らだけではない。
世界中で老人は死んでいく。
それはなんという損失だろう。

彼らは錨である。過去から現在へと、歴史の海に垂直に下ろされ、つないでいる錨。「生き証人」という言葉は、過去と現在との両方に脚をかけ、そこに立つ彼らの存在を示す言葉だ。彼らを失うことは、錨を失うことだ。錨がなくなれば、私たちはたやすく漂流してしまう。

《経験》を再話する

さらに展開してみる。では、身のうちに引き受けた《経験》を、私は別の人々に語り直すことができるのだろうか。

f:id:hibi2007:20160206165500j:plain:w300:rightできない、だろう。原理的には。私は沓野や樫木や旭や泊井のように語ることはできない。そもそも私は彼らのような体験をしていない。

ビデオに録画した場合を考えてみる。文字起こしをした原稿よりも、数倍数十倍の迫力を持って、彼らの語りは、視聴者に迫るだろう。だが、眼前で、肉声をもってこちらを眼差しながら言葉を交わしながら語られたその語りと、ビデオとは同じではありえない。私が《経験》とここで呼ぼうとしているものは、人と人との相互的な交流と、共有された場と時間のなかでこそ、創り上げられる。

《経験》は再話できない。《経験》は伝えられない。

だが。
私たちは強烈な《経験》をやはり他者に語らずにはいられないだろう。
その出会いの感動と、まだ響いている身の震えを伝えずにはいられない。

再話の試みは、たとえそれが原理的に不可能だとしても、試みられる。芸術は、おそらく語りを見聞きした者がその震えを他者へと再話する際に採用した、古い古い私たち人間の文化であるはずだ。歌や絵や文は、《経験》を再話する不可能な試みのために練り上げられてきた。

では、学術の言葉はどうだろうか。
学徒は、《経験》の震えをどのように再話するのか。
厚さと、熱さ、かもしれないと、暫定的に私は考える。

学術の言葉は迂回する。《経験》を再話する者とその受け手を結ぶその結び目の織りを密にするために。そしてその織りの構成をより良く調整するために。一見迂遠で些末な細部と背景が、適切な遠近法の中で組み上がったとき、《経験》ににじり寄ることができないか。

そしてさらに、熱さが必要だ。熱は振動であり運動である。《経験》の震えをより強く受け、震えに共振する者を増やすためには、学術の言葉には学術の言葉なりの熱さが必要だ。

錨としての人生

それにしても、人はすごいものだ。
 あらゆる老人が、歴史を背負っている。あらゆる老人は、錨として存在している。彼らと私が《経験》をともに創ることができるかは、私の参与次第である。そして《経験》をよりよいもの、より強いものにするためには、私の地力も必要とされるわけである。そしてもちろん、それを別の場で再話しようとするときにも。

ところで私も今に老人になるのだろうか?
もちろん、そうだ。
長生きも、悪くないかもしれない。

利尻島に行った話

「冬休み」の町

研究チームの調査で、利尻島に来た。2月はじめ。厳冬期である。
研究チームの課題は「国境」を考えるというやつで、樺太引き揚げのおじいさんおばあさん(かつては小学生)のお話なんかを聞けて、おおおそんなことがありましたか、とすごく面白かったのだが、これについてはまた研究論文というかたちで別に報告しようと思っているので、ここでは別のことを書こう。

f:id:hibi2007:20160207102009j:plain:w250:right利尻島の2月は、多くの店が休んでいる。2月だけではない。たとえば宿泊施設の一覧を見ると、ほとんどのホテルやペンション、民宿が11月~3、4月まで休んでいる。利尻ー新千歳便の航空機もだいたい同じ期間は飛ばない。飲食店も休んでいる。農家はほとんどないが、漁業はそもそも季節労働である。土木系もこの雪では仕事にならない。

シャッターを下げ、電気を消して静まりかえる店々を見て、まあ、そうだよね、そうかもね、と思った。だってこれだけ雪が降って、誰も来ないからね。

だが、ほんの数日だけど、ここに滞在して、地元の人の話を聞いて、ものすごく利尻島に詳しい(元)学芸員さんのお話を聞いて、ちょっとその感想が変わってきた。

「普通」のなかで目を閉じる

私は半年近くもの間、ある仕事が休みになるような暮らしというのを、リアルに想像できていない。私が住んだことのある地域は、どこも寒暖や降水量などの差こそあれ、一年を通して「普通」の生活ができる場所だった。

そして私はその「普通」が、ほとんどの地域で「普通」だと思っていた(いる)。ばかばかしいことだが、それが日本の中のことだけでなく、他の国においてさえ、そうなっていると思うともなく思っている。最近、仕事でいろいろな国に行くが、ロサンゼルスもリオ・デ・ジャネイロも北京も台北もソウルも、みんなそうして暮らしていた。店は一年中開いている。人々は一年中働き、そして短い周期で規則的に休んでいる。

多くの国で、都市で、実際そうなっているだろう。生活様式が均質化している。カレンダーも共通している。教育制度も大きく違わない。買う物も、買う店も。いわゆる、グローバリゼーションというやつ。

もちろん、これは私の皮相な思い込みで、反証はいくらでもあげられる人にはあげられるはずだが、私はうかつにも、利尻島でふと「違う」という現実に出会い直して呆然とした。

ここでは人々が半年間仕事をしない。(もちろん別の仕事や他のことをしているわけだが) そんな生活をおくる人々が、私の同時代に同じ国に、存在する。そして私はそういう人々がいると言うことを、ぼんやりわかっていながら、その生活についてリアルに想像したり、そういう暮らしをおくる人々たちが見ている世界について思い遣ったりしたことがなかった。

食事のあと、利尻島でも2番目ぐらいの大きな町の道を歩く。夜8時。車道を歩くが車は来ない。ななめから風に乗って降ってくる、軽くて、しかし止めどない雪の幕の向こうで、店々は扉を閉め、家々は温かそうな灯を内側に抱えて並んでいた。そこにはどんな人々のどんな生活があるのか。

樺太の本屋に本は来なかった

最近、戦前の樺太サハリン島南部)の本屋さんのことを調べている。日本統治期の台湾や朝鮮半島、あるいは満洲や中国大陸、南洋の委任統治領──まとめていわゆる「外地」という──においても同じことを調べ、横並びで網状に考えようという研究計画である。

で、無知で無恥な私は、外地の書店は同じようなものだとぼんやりと考えるともなく考えていた。だが、先日樺太の資料を読んでいて、冬期になると樺太には船が月に2~3便、不定期でしか来なかったと書いてあった。そして船がつくと、待ちかねた少年たちが争って雑誌を買いに本屋に走ったと書いてあった。スキーで、走ったのである。

私はやっぱりそこで呆然とした。外地を“横並びで”考えようとしていたおまえはバカか?

フランスの歴史学者にブローデルというえらい人がいた。彼は歴史を長期間持続する要素と、中期、短期で変わる要素に分けるよう提唱した(『地中海』)。私達が向き合っている文化など、短期変動である。地勢や気候は長期持続。経済的なグローバリゼーションなんて短期変動だ。「離島」「寒冷」という持続的条件は、人間がどうやっても向き合い、付き合っていかなければならない、永い永い暮らしの前提条件だ。

セブンイレブンはないけど、セイコーマートはあるよね、とか、とりあえず自販機でいろはす買って飲むとかやっていると、ここ利尻島も名古屋と変わらない気になってくる。

もちろん、「名古屋と変わらない」面を探すこともできるし、それを求めることもできる。宿にはWifiがあった方がありがたいし、地酒も飲みたいけどやっぱりコーヒーもねと思う。

違う、わからん、からはじめる

けれど私は、ここ利尻島に来て面食らったのである。樺太の本屋の資料を読んで呆然としたのである。そういえばそうだよね、生活って違うよね、だって自然が違うもんね。、と。そして、自然が違い、生活が違うということは、見てるものも相当違うよね。私はそれを、忘れないようにしたいと、ここ利尻島で思ったのである。当たり前のことを長々書き連ねたが、たぶん大事なことだ。

みんないっしょだ、みんないっしょに、という発想やかけ声は、ろくなことにならない。マッチョな集団主義か、お気楽なお花畑か。どちらも私たちの繊細な感性と思考を奪う。どちらも私はごめんだ。私は利尻島に生きる人たちの考え方や感性をうまく想像できないが、近づいていくスタート地点はその「わからん」というところからなんだと思う。

日本近代文学会東海支部2015年度シンポジウム「昭和10年代文学場と〈外地〉」

豪華メンバーのシンポジウムです。ぜひ、3月の名古屋へ。


日本近代文学会東海支部 第55回研究会の御案内

2015年度シンポジウム
「昭和10年代文学場と〈外地〉」
(日本近代文学会東海支部・JSPS科研費「昭和10年代における文学の〈世界化〉をめぐる総合的研究」共催シンポジウム)

 まだまだ寒さ厳しき折、皆様におかれましては御健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて、日本近代文学会東海支部第55回研究会としてシンポジウム『昭和10年代文学場と〈外地〉』を下記の通り開催いたします。万障お繰り合わせの上、是非とも御出席頂きますようお願い申し上げます。

    記

2015年度シンポジウム 昭和10年代文学場と〈外地〉

【パネリスト】 和泉 司(豊橋技術科学大学
        光石 亜由美 (奈良大学
        五味渕 典嗣(大妻女子大学
【ディスカッサント】 若松 伸哉(愛知県立大学

【日 時】2016年3月20日(日)14:00~17:30(予定)

【会 場】名古屋大学 東山キャンパス 文学部棟237教室
     http://www.nagoya-u.ac.jp/access/
    (名古屋市営地下鉄名城線名古屋大学」駅下車すぐ)

国際日本文化研究センターの海外邦字新聞データベース

国際日本文化研究センターのデータベースで海外邦字新聞の公開が始まっている。
現在は『伯剌西爾時報』(サンパウロ)の誌面がpdfで全文公開されている(マイクロフィルムになっている分のみ)。今後はこれがフリーワード・データベース化されるという。

以後、戦前期や他の南米、北米、ハワイの新聞へと拡大予定らしい。期待しましょう。

海外邦字新聞をデジタル化し、さらにフリーワード・データベース化する予定。
現在、海外最大の日系コミュニティを有する伯剌西爾の戦前期の邦字新聞(既にマイクロフィルムにされたもの)を公開。
今後、徐々に戦前期や他の南米諸国、北米、ハワイの邦字新聞へと広げていく。
件数 3,328件(平成27年4月現在)

http://db.nichibun.ac.jp/ja/category/kaigai-hoji.html