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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

超訳「時代閉塞の現状」2014

無駄話

 石川啄木(1886-1912)は、1910年つまりおよそ100年前、24歳のときに「時代閉塞の現状」を書きました。大逆事件明治天皇の暗殺企図のかどで、幸徳秋水らが秘密裡に処刑された事件)の直後のことでした。

 わたしたち日本の青年は、いまだかつてあの政府の強権に対して、どんな確執をも行ったことがありませんでした。したがって、国家がわたしたちにとって怨敵となるような機会も、いまだかつてなかったのです。
 こんにち、わたしたちのうち誰でも、まず心をしずめて、あの強権とわたしたち自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい隔たり(不和ではなく)が横たわっていることを発見して驚くに違いありません。

 たとえば実際、日本のすべての女性が、明治新社会の形成をすべて男性の手にゆだねた結果として、過去四十年の間、男性の奴隷として規定され、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、また実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足している――すくなくともそれに抗弁する理由を知らないでいるということと同様に、わたしたち青年もまた同じ理由によって、すべて国家に関する問題においては(それが「今日の問題」であろうと、わたしたち自身の時代の「明日の問題」であろうと)、まったく父兄の手に一任してしまっているのです。
 これは、わたしたち自身の希望、もしくは便宜によるものか、父兄の希望、便宜によるものか、あるいはまた両者がともに意識しない他の原因によるのかはともかくとして、以上の状態は事実でしょう。
 国家という問題がわたしたちの脳裡に入ってくるのは、ただそれがわたしたちの個人的利害に関係する時だけです。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび国家と個人とは、他人同志になります。

 わたしたち青年は、だれしもある時期に、徴兵検査のために非常な危惧を感じます。また、すべての青年の権利である教育が、その一部分――富有な父兄をもった一部分だけの特権となって、その上それが無法な試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られているという事実や、国民の最大多数の日々の食事を制約している高率の税金がどんな使い道になっているかも、目撃しています。
 おおよそそうした一般的な現象も、わたしたちに、あの強権に対する自由な討究を始めさせる動機となる性質はもっているに違いありません。そう、むしろ本来、わたしたちは、その自由な討究を始めているべきはずなのです。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か、わたしたちの理解はまだそこまで進んでいません。
 すべてこんにちのわたしたち青年がもっている内輪もめ的、自滅的な傾向は、この理想を喪失した悲しむべき状態を、きわめて明瞭に語っています。――そうしてこれは、じつに「時代閉塞」の結果なのです。

  *
 見て下さい、わたしたちは今どこに、わたしたちの進むべき路を見いだしうるのでしょうか。

 ここに一人の青年があって教育家たらんとしているとしましょう。彼は、「教育とは時代がその一切の持つところのものを提供して、次の時代のためになす犠牲だ」ということを知っています。しかしこんにちにおいては、教育はただその「今日」必要な人物を養成するだけのものにすぎなくなっています。そうして、彼が教育家としてなしうる仕事は、教科書の一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを、毎日毎日死ぬまで講義するかだけの事です。もしそれ以外の事をしようとすれば、彼はもう教育界にいることができません。

 また一人の青年がいて、何らか重要なる発明をしようとしているとします。しかしこんにちにおいては、一切の発明は実際のところ一切の労力とともにまったく無価値です――それが資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎり。

 時代閉塞の現状は、こうした個々の問題に止まるものではありません。こんにち我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいます。しかしその着実とは、たんにこんにちの学生のすべてが、その在学時代から就職の心配をしなければならなくなった、ということではないでしょうか。そうしてそのように着実になっているにかわらず、毎年何百という国公私立大学の卒業生が、その半分は職を得かねて下宿にごろごろしているではないでしょうか。

 しかし彼らはまだまだ幸福なほうです。前にも書いたように、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を受ける権利を、中途半端な程度で奪われてしまうではありませんか。中途半端な教育は、その人の一生を中途半端にします。彼らはその生涯の勤勉努力をもってしても、なお三十円以上の月給を取ることが許されないのです。もちろん彼らはそれに満足するはずがありません。

 かくて日本には今、「遊民」という不思議な階級が、次第にその数を増しつつあります。今やどんな僻村へ行っても、三人か五人の中学卒業者がいます。そうして彼らの仕事は、父兄の財産を食い減すことと、むだ話をすることだけです。

 わたしたち青年を取り囲む空気は、今やもうすこしも流動しなくなりました。強権の勢力は、あまねく国内に行わたっています。現代の社会組織はその隅々まで発達しています。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度にまで進んでいることは、その制度の有している欠陥が、日一日明白になっていることによって知ることができます。

  *
 明日の考察! じつにこれこそ、わたしたちがこんにちにおいてなすべき唯一のことです、そうしてまた、すべてです。

 その考察が、どのような方面において、どのようにして始めらるべきであるか、それはもちろん人々各自の自由です。しかしこの現在において、わたしたち青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されないでもありません。

 わたしたち全青年の心が、「明日」を占領した時、その時「今日」の一切がはじめて最も適切な批評を受けます。

 時代に没頭していては、時代を批評することはできません。

 思い立って、石川啄木の卓越した批評文「時代閉塞の現状」を〈超訳〉します。ここでいう〈超訳〉とは、「時代閉塞の現状」から、いま読んでもしびれるなぁ、と日比が感じた部分を抜粋し、現代語にかみくだく、という作業を指します。原文の意味は改変していないつもりですが、部分的な抜粋を行っています。抜粋は元の文脈から切り離すかたちで行っていますので、意味が変容している部分があることをおことわりします。とくに、原文のもつ自然主義文芸・思想についての評論という性格は、完全に消されています(私は近代文学研究者なんですが(笑))

 石川啄木の「時代閉塞の現状」に興味を持たれた方は、ぜひ原文をお読み下さい。それほど古い言葉遣いではありませんので、思ったほど読みにくくはないはずです。

時代閉塞の現状」(青空文庫)へ:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/814_20612.html


超訳時代閉塞の現状」2014の「2014」に寄せて

以下、いわずもがな、ながら。

たぶん、恐ろしい程の暴風が、私たちの社会の上空を吹いています。あるいは、足もとの地下深くで、大きな地殻の変動が起こっています。

しかし、地上に住む私たちは、その変化をあまりうまく捉えることができていません。毎日の食事を取ることはできており、たぶん明日の食事も取ることができるだろうと思っているから。

「国」というものは、サイズが大きすぎて、うまく私たちの日常からは想像できません。テレビの画面やネットのニュースに登場する政治家たちの言葉や振る舞いが、「国」の顔のような気がすることもありますが、実はそうではないでしょう。

「国」を私たちは間接的にしかさわることができません。そして「国」も、私たちを間接的にしかさわれません。「国」は具体的には、法律というかたちをもって現実化され、作成した法律を解釈し施行することによって、私たちの社会への影響がはじめて及びます。

正確に言えば、ですから「国」はありません。それは憲法を中心とした法律の文言の作成と共有と実施の上に、仮想的に私たちが想像しているものです。

現在の政府は、この「国」のかたちそのものともいえる法律の、作成の過程、解釈の過程、国民との共有の過程、施行の過程において、とてもとても強権的です。

首相は、平気で嘘をつきます。原発事故が完全にコントロール下にあるといい、他国の戦争に巻き込まれることはないといいます。あまりにも軽い、私たちの国の最高権力者の言葉。

法律は言葉でできている。言葉を守ることが、国のかたちを守ることであるのに、あまりにも軽い政府の言葉。約束を守らないことの危険性を、彼ら自身がもっともわかっていない。その彼らが、どんどんと新しい法律を作成し、そしておそらく日本国憲法までも変えようとしている。

個人的に到底私は容認できない。


  *
しかし、彼らは私たちの代表です。彼らは私たちが選んでいるのです。それが間接的な形態であっても。その意味で、彼らは私たちの鏡であり、一面において私たちそのものであるとも言えます。

100年前に啄木が言ったように、私たちの問題を、「国」に一任してはいけません。国に一任して安心していられる時代は、もう終わっています。あるいは、再びそのような時代ではなくなりつつあります。決めるのは、私たちです。

「今日の問題」に囚われてはいけません。目先の損得や利害や衝突に躍らされ、目くらましをされたまま、私たちの乗った船は、危ない方向へどんどんと進んで行っています。「明日の問題」を考えましょう。

私たちが「国」の輪郭にふれることができる数少ないチャンスが、あとわずかで訪れます。私たちのことは私たち自身で決めましょう。

わたしたちの心が、「明日」を占領できた時はじめて、「今日」はもっとも適切な批評を受けるでしょう。