日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」に向き合う

選挙終わりました。憲法改正が現実的な問題になってきました。

この間、もやもや考えていたことを少し言語化しておきたいと思います。ここ最近、目に入った言葉で、心に残ったものに触れながら進めます。

「英国国民投票からは数多くのことを学べるだろう。ここでは、そのうち、最もババを引くことになる人々、つまり経済的に中間かそれ以下の層が、実質的に自傷行為になる投票をする傾向について考えてみる。」


坂野正明「英国のEU離脱キャンペーンに見る市民の政治誘導と参院選」(TUP速報999号、2016年7月8日)

http://www.tup-bulletin.org/?p=3073

この記事は、イギリスのEU離脱騒動を検討しながら、そこから日本の社会を考えるためのヒントを得ようという趣旨で、勉強になりました。その中の一節が上記です。

こう考えたくなる気持ちに、共感しました。一方、こういう思考法を続けるかぎり、今回の参院選の結果のような事態は続くだろうとも思いました。

「最もババを引くことになる人々、つまり経済的に中間かそれ以下の層が、実質的に自傷行為になる投票をする」というのは、たとえばこういうことです。現在の日本の政権は、メディアを締め付けることによって、視聴者・読者から知る機会を遠ざけ、教育の場の自由を(たとえば中立性という語によって)恫喝することによって教員・生徒が自由に物を言い、考える機会を遠ざけています。国民にとって、明確な不利益です。

経済的上位層は、このような状況からさまざまなチャンネルを利用して「逃げる」ことができます。対価がかかるものも含め多様なメディアに接触する。私立校など、自由度の高い学校へ子女を送る、などです。一方、中位・下位の家庭では、こうした選択肢は相対的に取りにくいでしょう。

現在の政権を支持することは、たとえば上記だけでも「最もババを引くことになる人々〔…〕が、実質的に自傷行為になる投票をする」といえます。他に、安保法制と経済的徴兵制の問題なども、このよい例になるでしょう。

この「実質的に自傷行為になる投票」で思い出すのが、次の発言です。

国民主権基本的人権、平和主義、この三つはマッカーサーが押し付けた戦後レジームそのもの、この三つをなくさないと本当の自主憲法にならない」

創生「日本」東京研修会 第3回(2012年5月10日 憲政記念会館)における長勢甚遠(第一次安倍内閣法務大臣)氏の発言です。

私の感覚では、「国民主権基本的人権、平和主義」が守られることによって利益を得ない国民は一人としておらず、逆にこれが損なわれることによってすべての国民が不利益を受ける――いや、国民どころか、この日本に住む非日本国籍の人も含めて、この社会の構成員全員に、甚大な不利益が生ずるはずです。国民主権でなければ権力は暴走し、基本的人権が守られなければ人は人として生きる尊厳が奪われ、平和主義が放棄されれば暴力が幅を利かせる世の中になります。当たり前すぎるほど当たり前、と私は思います。

ところが、この当たり前は、私の当たり前であって、現代日本社会のかなりの割合の人にとって、当たり前ではないのかもしれません。

典型的なtweetを一つだけ紹介します。引用元は伏せます。

「ていうか18歳選挙権いらない
そもそも民主主義いらない」

受験生と思われる人のtweetです。検索すれば、国民主権や自由、平和、民主主義に価値を認めない発言は、かなりたくさん出てきます。〈実質的な自傷行為〉という言葉が、目の前をぐるぐる回ります。

しかし、そのように口にしてしまったとき、私はこうした発言をする人たちと、国民主権や自由や平和や民主主義に価値をおく人たちとの間のチャンネルが、切れるように感じます。二つのイギリス、二つのアメリカというような言い方にならって、二つの日本、などという風な発言も目にします。参院選の結果の色分け地図を示しながら、東西の分断をいうような投稿も見ました。

私はこうした考え方には与しません。

「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」という発言においては、要するに、「国民主権も、平和主義も、民主主義も、選挙も、どうせ俺たち私たちを助けちゃくれないだろう」ということが、言明されているのだと思います。私が引用したtweetは一つの極端な例ですが、上の意味を煎じ詰めて言い切っている点において、「代表的」な言葉なのだと私は思います。

こう考えてくると、上記の長勢甚遠氏の発言は、「国民主権基本的人権、平和主義」についての根本的致命的な理解不足がある一方で、これら(民主主義も含め)が「賞味期限切れだと感じる」という一点において、人々の感覚をすくい上げている面があるのかもしれません。

私は日本文学・文化の研究者なので、戦後がはじまり、「民主主義」がピカピカしていた時代の言葉を、資料の中で目にすることがあります。戦争が終わった開放感の中で、新しい時代の幕開け、自由で、平等で、機会に充ちた、前途洋々たる展望を信じられた時代。

70年は長い。日本の「戦後民主主義」は老い、おそらく今それを担った世代とともに退場しようとしているのでしょう。あからさまになりつつある民主主義や立憲主義の不調は、その足音の響きです。国民主権立憲主義が、その根本として「国家権力」に対する疑念や警戒に根ざす思想なのだとしたら、おそらく現代の有権者の投票傾向は、この疑念や警戒を共有していないところからきます。彼らは、国と権力を信じている。おそらくそれは無邪気な誤謬でしょう。私も危うい盲信だと思います。けれど、彼らが信じているのは事実でありましょう。

自民党憲法草案を読めば、ほとんどの人が自動的に反自民党側になるだろうという素朴なリベラルが持っている見込みは、この意味で甘いのだと私は思います。今回の選挙の結果が示しているのは、自民党憲法草案のもつ国家主義的な色調に、多くの人はいまやさほど拒否感を感じないということではないでしょうか。(多くの人がほとんど目にしていないでしょうが、目にしたとしても拒絶感はさほど醸成されないと私は見込みます。醸成されるのだとしたら、とっくにもっと大騒ぎになっている)

この状況にどう対応すればいいのか。国民主権基本的人権、平和主義、民主主義は、いかにそれが古びて見えようが、守らなければまさに私たちが自から傷つく、あきらかな社会の根幹です。それが信じられなくなっている。あるいは身近に感じられなくなっている。踏みとどまらないと、恐ろしい社会が来るにもかかわらず。

少し過激な物言いかもしれませんが、リベラルな人たちこそ、もう「戦後民主主義」を葬送してしまう必要があるのだと思います。もうこの言葉は、そのままでは輝きを放っていない。むしろ、その護持を掲げることは「守旧的」な色彩すら帯びる時代になっているのです。

私たちの民主主義をバージョンアップし直すしかないでしょう。具体的にどうしたらいいのか、私にはまだわかりません。「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」という言葉は、無力感と、自閉感を語っているように私には思えます。だとすれば、社会とのつながりを実感する機会を作ること、そして等身大・自室大に留まる想像力を広げていくよう促すことが、とりあえずの道かもしれません。その上で「国」に向き合う姿勢を、古いタイプのリベラルのそれと、互いに調停・更新していく。漠然としたことしか言えませんが、その回路の具体的なあり方を模索していくのが、これからの道のりなのかもしれません。