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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

ことばを覚える

番外:子育て

3〜4週間前から、

こどもの知的な発育が急加速していて、とても面白い。たしか9〜10ヶ月ぐらいの時にも、ぐんと伸びた時期があったと記憶するが、一歳半ぐらいにもそういう急成長の時期があるようだ(個人差もあるのだろうけど)。


今回は「ことば」の獲得のことを書こうと思うのだが、関連していくつかの面白かった成長についても記してみたい。

最近、「おどろく」ようになった。

赤んぼうは、おどろかない。むろん、大きな音や光などが突然降りかかってくれば、おどろく。がそれは、ほとんど身体的な反射に近い。それに対し、トウゴ氏はこのごろ電話の音や、時計のアラーム音などにおどろくようになった。考えるに、おそらく彼の中で、その環境における「平常」というものが確立したのだと思う。身体的に反射する危険のサインではなく、さほどのヴォリュームでもない音でおどろけるということは、「異変」とその前提たる「平常」が身についたということなのだろう。

記憶が育ってきたようだ。

こちらの記憶を問う問いかけに対し、返答ができるようになっている。「今日保育園でプール入った?」「今日、バロー(近所のスーパー)行った?」という質問に対し、彼はしばらく思案の顔をした上で、「あっち!」と指を指して、場所で答える。出来事を語る言葉をまだ持たない彼が、記憶を語る術は、なるほど空間の指定しかないのかもしれない。とにかく、小さな脳のなかには、有意味な記憶が溜まり始めた。

それにもとづく変化が二つぐらい現れるようになった。一つは夢。正確に言えば、寝言。父や母を呼んだり、「にぃにぃ」(おそらくは従兄)を呼んだりしている。なにかの場面を再現しているのだろう。あるいは多少なりともストーリーを夢見ているのだろうか。そこまではわからない。

そして、一人遊びがだんだんできるようになってきた。たとえば、ミニカーを使って遊ぶときに、遊び方が複雑になってきた。それぞれのミニカーの種類に合わせた効果音を再現している。「ブーン」「ピーポーピーポー」「シュッシュッ(汽車・電車)」「ピーッ、ピーッ(バックする音)」 どれも、自分が見聞きしたり、教えられたりした音である。それを使い分けることによって、ミニカーの世界は単なる《車がいっぱい》の状態から、《個別の車がそれらしく走る》状態へと変化した。だから、遊べるようになってきた。

モノには属性がある。大人にとっては当たり前のことだが、ことばを獲得し始めた子供にとってはそれは当然ではない。だから彼らにはおそらくモノの奥行きがない。この形の動物が「ワニ」だ。おわり。という世界。だが、ワニの歩き方、ワニの口の開き方を知れば、ワニは動き出す。トウゴ氏は最近ワニになれるようになった。そういえば、自分も小さいとき、犬や馬になっていたことを思い出す。

ところで、なぜ子供はそんなことがしたいのだろう? そしてなぜ大人はそんなことに興味が持てないのだろう?

関連して思い出したが、「見立て」も

彼はできるようになっている。四角い長方形のブロックや石を持って、「バス」だという。そして走らせる。最初それを見たとき、かなり驚いた。それは物凄く高度な知的作業に思えたからだ。だが、一定の発育レベルを迎えた子供にとっては、そんなことは実はなんでもないことなのかもしれない。大人は「バスというものにはにはこれこれがある」という属性についての無駄知識が多すぎて、石ころをバスに見立てるには、かなりの努力が必要だ。だが、子供のバスはもっとシンプルだから見立ても容易なのかもしれない。

急激に語彙も増えつつある。

おもしろいから、いろいろ教えている。方針は、あえて子供向きの語彙を選んだり、主要な語彙から教えたりはしない、ということである(笑) 「プーチン」とか「原発」とか「渋滞」とか「ETC」とか「文庫本」とか、遠慮無く吹き込む。特殊な語彙はさすがにあまり覚えている気配はないが。

子供がことばを覚えるプロセスには、やはりなんとなく順番があった。トウゴ氏の場合、まず「あっち」という場所が使えるようになった。「わんわん」とか「ぶーぶ」というモノの名称が次に来て、同じぐらいの時に「あった」という存在を示す語を使うようになった。正確に言えば、彼にとって「あった」は存在というより「発見」であるようだが。「ない」は少し遅れて獲得した。考えてみれば「ない」は「ある」という認識を前提にしなければ、生まれない言葉だ。「あった」の失敗として「ない」(トウゴ氏は「ないね〜」という)があるのだ。

このところ、二語文つまり「バス、きた」「わんわん、あった」が出るようになってきたが、同時に程度を形容することばを使い始めた。大小、軽重、温度など。子供を見ていると気づくが、大きい/小さい、重い/軽い、熱い/冷たい、は対義語だが、対等な言葉ではない。それが概念として確立した大人にとっては対等だが、子供にとっては前者が主要な語彙であり、後者はその対比としてある。前者の方を早く覚え、よりたくさん用いる。概念としての際立ちが、前者の方が大きいのだろう。

ことばは、一定の量が頭に入り、それが有機的に結び付き始めると、爆発的にそのネットワークが広がっていくらしい。しばらく、観察に飽きそうにない。