日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

(告知)「日本の国立大学を取り巻く現状と論点-分断・グローバル化・「新自由主義」」

7月16日(土)は、以下の学会に参加し、報告を行います。

東アジア学会第69回定例研究会のご案内

第69回定例研究会を以下の内容で開催することになりました。
皆様ぜひ御出席ください。
日時:2016年7月16日(土)14時00分から17時30分
会場:西南学院大学学術研究所第3会議室
  (http://www.seinan-gu.ac.jp/campusmap.html

●第一報告(14時00分~15時30分)
花田伸一氏(佐賀大学芸術地域デザイン学部 准教授)
佐賀大学芸術地域デザイン学部の取り組みについて-地域とアートと大学の現場から」

●第二報告:(16時00分~17時30分)
日比嘉高氏(名古屋大学文学研究科 准教授)
「日本の国立大学を取り巻く現状と論点-分断・グローバル化・「新自由主義」」

http://www.eastasia.jp/

SNSのシェア/リツイート数と、実際の読者数の間に大きな差があるのを体感した話

この前ブログに書いた「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」に向き合う - 日比嘉高研究室の記事に対する反応を見ていて、あらためて思い知ったことがあるので、書いておきます。以下、いろいろ書いていますが、日比という特定色のある個人ブログ記事についてですので、簡単には一般化できないかもしれません、という留保を付けつつ。

ざくっというと、つまり

《 SNSのシェア/リツイート数と、実際の読者数の間には大きな差がある 》

ということであります。
このブログ記事、ここ数ヶ月では、一番のFacebookのシェア数で、現在1000を越えています。さぞやたくさんの人が読んだのだろうと思い、自分としても悪い気は当然しませんでしたが、別に付けてあるページの閲覧カウンタは、別に盛大に回っていません。Google Analyticsてのを使ってみてみたんですが、記事公開後、
ページビュー 3700
参照元ソーシャルメディア 73% Facebook
             25% Twitter

つまり要するに、Facebookのシェアは、

1シェア=読者3.7人(シェアした本人含む)

であります。イメージより少ないですよね?

直感的には、シェアすると多くの人がそれを読んだような気になります。いいね!がいろいろ付いてきます。自分の「友達」の数、フォロワーの数が、その期待値を押し上げます。

が、現実の読者はそうではない。リンク先の記事が言うように。みんなタイトルだけを見てシェアしていたり、読まずにいいね!したり、そもそもタイムラインを埋め尽くしたシェア・タイトルをスクロールするだけだったり、なのです(笑 むろん私含む)

リンク先は、同じようなことを言っているWIREDの記事「あなたはシェアしたものを読んでいない」
wired.jp


も一つ、虚構新聞のネタ記事。「本文を読まずSNSシェア99割 米研究 - 虚構新聞
kyoko-np.net


で、結局何が言いたいのかというと、SNSのタイムライン空間での盛り上がりは、ほんとにほぼ空騒ぎ状態で、盛り上がっているのはお仲間だけかと思いきや、そのお仲間さえ、ろくに記事を読んでいないのじゃないかという、寒々しいお話。

以下なんかも、関係あるんじゃないかと思っています。
「<三宅洋平氏落選>実態なき支持層が産み出した「選挙フェス」という都市伝説」
blogos.com


ちなみに、個人的な体感として、リンク数が実際の閲覧数の伸びにもっとも跳ね返るのは、はてなブックマークだと感じています。

そして、私の最近の記事は、Facebookで人気が高く、Twitterではいまいちで、はてなでは不人気です(笑)


(追記)
さらにいえば、ページビュー数=読者数でもないですね。私のような長文書きの文を、最後まで何割の人が読んでくれるのか…

「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」に向き合う

選挙終わりました。憲法改正が現実的な問題になってきました。

この間、もやもや考えていたことを少し言語化しておきたいと思います。ここ最近、目に入った言葉で、心に残ったものに触れながら進めます。

「英国国民投票からは数多くのことを学べるだろう。ここでは、そのうち、最もババを引くことになる人々、つまり経済的に中間かそれ以下の層が、実質的に自傷行為になる投票をする傾向について考えてみる。」


坂野正明「英国のEU離脱キャンペーンに見る市民の政治誘導と参院選」(TUP速報999号、2016年7月8日)

http://www.tup-bulletin.org/?p=3073

この記事は、イギリスのEU離脱騒動を検討しながら、そこから日本の社会を考えるためのヒントを得ようという趣旨で、勉強になりました。その中の一節が上記です。

こう考えたくなる気持ちに、共感しました。一方、こういう思考法を続けるかぎり、今回の参院選の結果のような事態は続くだろうとも思いました。

「最もババを引くことになる人々、つまり経済的に中間かそれ以下の層が、実質的に自傷行為になる投票をする」というのは、たとえばこういうことです。現在の日本の政権は、メディアを締め付けることによって、視聴者・読者から知る機会を遠ざけ、教育の場の自由を(たとえば中立性という語によって)恫喝することによって教員・生徒が自由に物を言い、考える機会を遠ざけています。国民にとって、明確な不利益です。

経済的上位層は、このような状況からさまざまなチャンネルを利用して「逃げる」ことができます。対価がかかるものも含め多様なメディアに接触する。私立校など、自由度の高い学校へ子女を送る、などです。一方、中位・下位の家庭では、こうした選択肢は相対的に取りにくいでしょう。

現在の政権を支持することは、たとえば上記だけでも「最もババを引くことになる人々〔…〕が、実質的に自傷行為になる投票をする」といえます。他に、安保法制と経済的徴兵制の問題なども、このよい例になるでしょう。

この「実質的に自傷行為になる投票」で思い出すのが、次の発言です。

国民主権基本的人権、平和主義、この三つはマッカーサーが押し付けた戦後レジームそのもの、この三つをなくさないと本当の自主憲法にならない」

創生「日本」東京研修会 第3回(2012年5月10日 憲政記念会館)における長勢甚遠(第一次安倍内閣法務大臣)氏の発言です。

私の感覚では、「国民主権基本的人権、平和主義」が守られることによって利益を得ない国民は一人としておらず、逆にこれが損なわれることによってすべての国民が不利益を受ける――いや、国民どころか、この日本に住む非日本国籍の人も含めて、この社会の構成員全員に、甚大な不利益が生ずるはずです。国民主権でなければ権力は暴走し、基本的人権が守られなければ人は人として生きる尊厳が奪われ、平和主義が放棄されれば暴力が幅を利かせる世の中になります。当たり前すぎるほど当たり前、と私は思います。

ところが、この当たり前は、私の当たり前であって、現代日本社会のかなりの割合の人にとって、当たり前ではないのかもしれません。

典型的なtweetを一つだけ紹介します。引用元は伏せます。

「ていうか18歳選挙権いらない
そもそも民主主義いらない」

受験生と思われる人のtweetです。検索すれば、国民主権や自由、平和、民主主義に価値を認めない発言は、かなりたくさん出てきます。〈実質的な自傷行為〉という言葉が、目の前をぐるぐる回ります。

しかし、そのように口にしてしまったとき、私はこうした発言をする人たちと、国民主権や自由や平和や民主主義に価値をおく人たちとの間のチャンネルが、切れるように感じます。二つのイギリス、二つのアメリカというような言い方にならって、二つの日本、などという風な発言も目にします。参院選の結果の色分け地図を示しながら、東西の分断をいうような投稿も見ました。

私はこうした考え方には与しません。

「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」という発言においては、要するに、「国民主権も、平和主義も、民主主義も、選挙も、どうせ俺たち私たちを助けちゃくれないだろう」ということが、言明されているのだと思います。私が引用したtweetは一つの極端な例ですが、上の意味を煎じ詰めて言い切っている点において、「代表的」な言葉なのだと私は思います。

こう考えてくると、上記の長勢甚遠氏の発言は、「国民主権基本的人権、平和主義」についての根本的致命的な理解不足がある一方で、これら(民主主義も含め)が「賞味期限切れだと感じる」という一点において、人々の感覚をすくい上げている面があるのかもしれません。

私は日本文学・文化の研究者なので、戦後がはじまり、「民主主義」がピカピカしていた時代の言葉を、資料の中で目にすることがあります。戦争が終わった開放感の中で、新しい時代の幕開け、自由で、平等で、機会に充ちた、前途洋々たる展望を信じられた時代。

70年は長い。日本の「戦後民主主義」は老い、おそらく今それを担った世代とともに退場しようとしているのでしょう。あからさまになりつつある民主主義や立憲主義の不調は、その足音の響きです。国民主権立憲主義が、その根本として「国家権力」に対する疑念や警戒に根ざす思想なのだとしたら、おそらく現代の有権者の投票傾向は、この疑念や警戒を共有していないところからきます。彼らは、国と権力を信じている。おそらくそれは無邪気な誤謬でしょう。私も危うい盲信だと思います。けれど、彼らが信じているのは事実でありましょう。

自民党憲法草案を読めば、ほとんどの人が自動的に反自民党側になるだろうという素朴なリベラルが持っている見込みは、この意味で甘いのだと私は思います。今回の選挙の結果が示しているのは、自民党憲法草案のもつ国家主義的な色調に、多くの人はいまやさほど拒否感を感じないということではないでしょうか。(多くの人がほとんど目にしていないでしょうが、目にしたとしても拒絶感はさほど醸成されないと私は見込みます。醸成されるのだとしたら、とっくにもっと大騒ぎになっている)

この状況にどう対応すればいいのか。国民主権基本的人権、平和主義、民主主義は、いかにそれが古びて見えようが、守らなければまさに私たちが自から傷つく、あきらかな社会の根幹です。それが信じられなくなっている。あるいは身近に感じられなくなっている。踏みとどまらないと、恐ろしい社会が来るにもかかわらず。

少し過激な物言いかもしれませんが、リベラルな人たちこそ、もう「戦後民主主義」を葬送してしまう必要があるのだと思います。もうこの言葉は、そのままでは輝きを放っていない。むしろ、その護持を掲げることは「守旧的」な色彩すら帯びる時代になっているのです。

私たちの民主主義をバージョンアップし直すしかないでしょう。具体的にどうしたらいいのか、私にはまだわかりません。「ていうか18歳選挙権いらない そもそも民主主義いらない」という言葉は、無力感と、自閉感を語っているように私には思えます。だとすれば、社会とのつながりを実感する機会を作ること、そして等身大・自室大に留まる想像力を広げていくよう促すことが、とりあえずの道かもしれません。その上で「国」に向き合う姿勢を、古いタイプのリベラルのそれと、互いに調停・更新していく。漠然としたことしか言えませんが、その回路の具体的なあり方を模索していくのが、これからの道のりなのかもしれません。

あなたは政治を放っておくことはできる。しかし政治はあなたを放っておかない。

覚えておいた方がいい。
「あなたは政治を放っておくことはできる。しかし政治はあなたを放っておかない。」

投票に、行きましょう。

投票に行かないことは、白紙委任です。
組織票を握る者たちへの、白紙委任です。
すでに権力を握る者たちへの、白紙委任です。
もう「持っている」者たちへの、白紙委任です。
あなたの代わりに投票へ行く者たちへの、白紙委任です。

あなたがひとりぼっちならば、投票に行きましょう。
あなたが不安ならば、投票に行きましょう。
あなたが不満ならば、投票に行きましょう。
あなたがわからないならば、なおさら投票に行きましょう。

この世に100%の候補者はいない。
しかし、よりましな候補者はいる。
調べよう。そして考えよう。

一票を投じることは、あなたがこの国で、「ここにいる」ということの宣言です。

紹介:人文社会学系学部縮小問題をめぐる学生集会@横浜国立大学

学生の雰囲気が、少しずつ変わってきているのかもしれないと感じます。

横浜国立大学の学生の方から、以下のような案内をいただきました。同大の学生が主体となって、人文社会学系学部縮小問題をめぐる学生集会が行われるそうです。7月11日(月)です。

名古屋大学の学生さんに転送を、というお願いでしたが、名古屋大の学生はもちろん、他大学の学生でも、関心がある方は歓迎されるだろうと思い、ここに転載します。(もちろん、お送り下さった方々の許諾済みです)

はじめまして、今回学生集会の主催を務めさせてもらいます三浦翔と申します。7月11日(月)「『文系学部解体』VS『文系学部廃止の衝撃』」と題しまして、室井尚横浜国立大学教授)と吉見俊哉東京大学教授)の両著者による討議が横浜国立大学で行われます。この講演会は、既にご承知かと思いますが文科省による人文社会系学部縮小の問題を受けて、このまま黙ってはいられないと遅まきながら開催されます。

http://y-labo.wix.com/home#!event/ch6q http://y-labo.wix.com/home#!event/ch6q

しかし、私は一連の学部改変で潰された人間文化課程の卒業生ですが、この問題を教授陣と文科省のプロレスに終わらせてしまってはならないと思っています。学生自身に関わる問題として捉え返さなければ、この国の大学は変わって行かないと切実に感じています(1月には「人文社会系学部縮小に抗議する」という喪服のデモを横浜で行いました)。

http://www.kanaloco.jp/article/146669 http://www.kanaloco.jp/article/146669

そこで今回の講演会に合わせて、廃止される国立大学の学生を中心としつつ、これからの大学作りを考えるために幅広い層の学生が集まる学生集会を開催したいと思っております。すでに、はるばる遠方の新潟大学から二名が講演会に参加頂くと連絡があり、どうせならばこのタイミングで学生同士の意見交換・交流が出来ないか、ということで今回の企画は動き出しています。

企画書を添付させて頂くので、ご確認の上、是非とも参加のご検討をお願いします。


三浦 翔
shoh3iura◎gmail.com (◎は@)

企画書については、このエントリの末尾に貼っております。

また、このメッセージには続きがあり、今後の展望として、「無知の教室」という連続企画を考えていらっしゃるとのことでした。7月24日(日)にSEALDsのドキュメンタリー『私の自由について』(2016)の自主上映会およびメンバーを招いてのディスカッション、そのほかに、シンポジウムやデモ、勉強会、読書会、アジアの学生との交流会なども考えているということでした。

どうぞ、ご注目を。また関心のある学生の皆さんは、一度覗いてみてはいかがでしょうか。

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大学の反グローバル化論と内向きな社会 ~内田樹さんへの批判を起点に~

東大、アジア7位

先日、東京大学がアジアの大学ランキングで1位から7位にランク・ダウンしたというニュースが流れました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/20160621-OYT1T50113.html

私は、大学ランキングには弊害が大きく、それに一喜一憂する必要はないと思っていますが、それでもこのニュースには少々衝撃を受けました。

こうした凋落が現実となっていることに対する反応には、日本の大学もっとがんばれよ、という励ましや、もう日本はこうなってしまっているのが実態だ、という嘆きなどがみられたように思います。そんななか、このニュースを直接的に踏まえているわけではないようですが、内田樹さんが「大学のグローバル化が日本を滅ぼす」という文章を書いていらっしゃることに気づきました。引用します。

「日本語で最先端の高等教育が受けられる環境を100年かけて作り上げたあげくに、なぜ外国語で教育を受ける環境に戻さなければいけないのか。」

母語話者たちは新語・新概念を駆使して、独特の文化的創造を行うことができます。その知的な可塑性に駆動されて、知的探究が始まり、学問的なブレイクスルーが達成される。後天的に習得した外国語で知的なブレイクスルーを果すことは不可能とは言わないまでもきわめて困難です。」

「繰り返し言いますが、大学のグローバル化は国民の知的向上にとっては自殺行為です。日本の教育を守り抜くために、「グローバル化なんかしない、助成金なんか要らない」と建学の理念を掲げ、個性的な教育方法を手放さない、胆力のある大学人が出てくることを僕は願っています。」(誤字を直しています)


「大学のグローバル化が日本を滅ぼす」内田樹の研究室(2016年06月22日)

http://blog.tatsuru.com/2016/06/22_1103.php

内田さんは、母語で最先端の教育が受けられることのすばらしさを、強調しています。このことは、水村美苗さんも『日本語が亡びるとき』で書いていたと思います。たしかにそのとおりで、母語でさまざまな分野の先端的な学術成果に触れることができ、ディスカッションできるという環境は、すべての国で実現されているわけではありません。

では、母語で大学の教育研究は完結できるのでしょうか。内田さんはノーベル賞のことも引き合いに出していますが、たとえば化学賞でも物理学賞でも、関連する領域においてはそもそも日本語のみでは最先端に触れられない状況でしょう。内田さんが書いている、母語で教育をうけ、母語で思考することが「知的なブレイクスルー」のためにとても重要だという議論は、英語で論文を読み書きすることが当然になっている分野では、あまり該当しないでしょう。

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あじさいとふうせん

f:id:hibi2007:20160621013147j:plain:w200:rightあじさいはふうせんのゴムのにおい
と子どもがいう。
鼻を寄せ
青々とした匂いの輪郭をなぞると
つんと、たしかに
ゴム風船をくわえた時の
そのにおい。

あじさいとふうせん。
 すうと吸い、
 ふうと吐く。
水無月の小さな息を
あつめてひらく。

本当ですよ。みなさん、お試しあれ。