教室が「戦場」になった日?(2):産経新聞による広島大学の授業攻撃を読んで考えたこと
ここへ来てこの問題は
大学の学生だけの問題ではなく、私たちの社会一般の雰囲気の問題かもしれないと気づく。私の友人で、大手食品流通会社に勤めている人間がいる。彼が店長をやっていた時代に話してくれたエピソードを、私はよく覚えている。
最近は、顧客からのクレームが、当該の売場を飛ばし、店長ならびに店舗を飛ばして、本社に行くという。店員たちは、問題が起こっていることを、本社からの問い合わせで知る。「言うなら、店に言ってくれよ、それで済むんだから」と、その男はこぼしていた。同情に堪えない。
ただ一方で、店を飛ばした客の気持ちもわかる。
店で抗議すると、面と向かって抗議しなければいけない。人と人との、顔を突き合わせた話し合いをしなければならない。相手がどんな人間なのか、わかったものではない。下手をしたら、もうその店には行けなくなる。しかも、抗議をした結果、事態が改善されるかどうか不明である。うやむやにもみ消されるかもしれない。だったら、電話一本で、クレーム担当に言う。顔を見ることもないし、電話の向こうの担当者は良く訓練されていて、決して怒らず、下手に出る。対応が実際にされるかどうかまではわからないが、店でうやむやになるよりはマシである。本部により近いチャンネルになっているであろうから。
抗議をするなら、事態を改善したいなら、できるだけ有効な手立てを取りたい。当たり前だ。そして抗議をする時には、できれば自分は安全なところにいたい。これも、やはり当たり前の気持ちといわざるをえない。
そしてトラブルは当事者の頭上をすり抜け、中間を飛ばし、「上部」へ送られ、そしてある日突然、大規模な問題となって当事者の身の上に降りかかる。
怖いことだ。だが恐怖の感情はさておいて、この中間を飛ばす、というあり方が問題だと私は思う。
日本科学者会議広島支部幹事会が
産経新聞のこの報道について、「『産経新聞』報道を契機とする言論への圧力を許さず,学問の自由を守ろう」という声明を出した。
http://www.jsa.gr.jp/03statement/20140523hiroshima.pdf
映画の上映は「演劇と映画」を論じるこの授業の素材として妥当であり,それをどう判断するかは学生にまかせるべきである。仮に学生が異論を唱えたとしても,それは学生と教員との間の相互理解にゆだねるのが正当な対処であって,外部の報道機関が介入するべきではない。
〔…〕
そもそも,学問の自由は日本国憲法が保障する基本的人権のひとつであり,大学の授業で教員は,自身の学問的信念に基づいて教育研究を行う自由をもつ。もちろん,その教育研究に対して学生が異議を唱えることも当然の権利であり,教員はその異議を受け止め,相互理解を深めることによって,学問の府である大学の教育研究が深化する。よしんば,学生が大学の講義内容への告発を報道機関に行った場合でも,当該報道機関はそれを大学内部における教員と学生の対話によって解決するように対処するべきであり,〔…〕また,公正な報道を もって社会の木鐸の機能を果たすべき新聞が,学生の1通の投書をもとに、特定の教員の講義内容を攻撃することは、学問の自由への侵害であるとともに,著しく公正を欠くものである。
私は、この声明のこの主張に同意する。素材に問題はなかったし、それもとに教員と学生は(が)議論すべきだったし、外部の報道機関が介入するべきことではない。そして研究者は、「自身の学問的信念に基づいて教育研究を行う自由をも」っている。この独立性が、学問にとって、大学によって、もっとも重要な自由であり自律性だ。それは研究者がしたいことをすればいいということではない。政治、経済、外交、歴史、あらゆる外部的な問題に最終的に――無関係でいることはできない――屈することなく、自律的に考えて発言できることが、学問の価値であり大学の価値だ。
国立大学だから、国民の税金を使っているのだから、「国」の、「国民」の意見に従え、という、時に見かける意見は、この点で根本的に間違っている。学問の自由は、ただ学問の進歩のためだけに在るのではない。それは私たちが生きる社会の許容度を広げるためにあり、より豊かで多様に考えられるようになるためにあり、偏向した価値観によって社会が窒息してしまわないためにもあるからだ。
ただ一方で、この声明にあったナチス云々
のところで、私は少し考え込まざるを得なかった。
かつてドイツでは,政権獲得前のナチス党が,その青年組織に告発させる形で意に沿わない学説をもつ大学教授をつるし上げさせ,言論を萎縮させていった歴史がある。その忌まわしい歴史を彷彿とさせる本件にたいして,われわれが拱手傍観しているようなことがあれば,特定の政治的主張をもつ報道機関がその意に沿わない講義のひとつひとつを論評し,特定の政治的主張をもつ外部のものが大学教育に介入してくるきっかけを与えることになる。
言っていることはその通りだ。このナチスの所行について私は詳しくないが、そうだったのだとすれば、似ていなくもないとは思う。
けれど、私が立ち止まったのは、この物言いでいいのだろうか――ということだった。相手をナチスに比して、学問の自律性を主張する。繰り返すが、学問の自律性云々の主張は正しい、けれど、いま私たちの社会で、こういうナチスを引っぱり出しての物言いは説得力を持つのだろうか、ということだ。
これは先程の、中間が飛ばされる、というあり方の問題でもある。広島大学の教室から、一気にナチス・ドイツに飛ぶことは、私には、「中間がない」というその一点において――たった一点だが大切な一点において――、産経新聞の記事のあり方と似通ってしまっていると思う。
私は「中間がない」というこうした論理構成は、政治的メッセージとして過激になりやすく、実際の人々の生活の水準から遊離しがちで、したがって大多数の人にメッセージが届かない、という点において、危険でありそしてかつ有効ではないと感じる。
産経新聞に訴えた学生のようなタイプは、私が想像するに200人のうち1〜3人ぐらいだろう。そして同じように、この日本科学者会議広島支部幹事会のナチス云々に同調できる学生も、同じぐらいの割合だと思う。
私は今回の事件はとても大事だし、大学の、ひいては現在の日本の教育機関の教室に身を置く人間として、放っておけないと思っている。だからこそ私は、この問題の大事さが、200人の「両端」にいる数人にではなく、残りの190人強に届く言葉で語られて欲しいと願っている。
しかし、いったいどういう言葉で?
その迷いが、いま私にこうした形で、長々とこんなことを書かせている(190人はこんな長い文章を読まないよな、と思いつつ…)。言葉を広く届けたいし、その言葉には効力を持たせたい。多くの人に届けたい。そのためには、ナチスがどうこうではなく、2014年の大学の、そしてその他の多くの学校の教室の、話をしなければいけないのではないか、と私は思った。
「教室」はいま狙われていると思う。
学校や教科書や図書館が、排外的で国粋主義的な勢力の標的になっていることは、最近さまざまなニュースで目にするようになった。
いま、この動きは私の身近な教室にまでやってきた。私の研究室から講義棟まで、たった数十メートルか、百メートルぐらいしかない。そこは私の日常空間だった。研究室で仕事をして、授業の準備をして、印刷をして、鞄をぶら下げて、ふらりと教室に入る。そこは同じ大学のキャンパスで、座っている学生たちの所属も同じはずだった。
けれど、そうした一体感や安心感は、実に容易に損なわれるようになってしまっているのかもしれない。数十メートルの間に魔物が潜むようになったのか。教室にならんだ机の下に怪物が棲むようになったのか。大手メディアの一部は、自からの政治的主張に合致するたった一人の学生の訴えをとりあげてまでも、教室を政治的闘争の場に置き直そうとしはじめた。
大手メディアだけではない。学生たちの手にはTwitterやLINEといったSNSにつながる端末が握られている。教員の授業は、配付資料も含めて、そのようすがいつ大学外に流れ出てもおかしくない時代になった。
監視の目が内外に張り巡らされ、学校と教員はその監視の目を内面化しておびえ、そして次には自主検閲の波が襲いかかる。憂鬱なことだ。
けれど、怖がりすぎなくてもいい
し、そうする必要もないと同時に思う。学生たちは賢いし、まっとうであると私は大まじめに信じている。学生を他者化してはならない。彼らはモンスターではない。逆も同じだ。教員を他者化してはいけない。彼らも人間だ。教室に座る人間一人一人の顔を見ること。教卓の向こうで話すその人物の、人間を見ること。
たしかにトラブルが勃発する可能性は増えた。教員は緊張を強いられる。けれど、一部の学生の一部の行動が起こした出来事を、突出させ、全面化して考えるべきではない。
産経新聞に訴え出た学生の違和感は、私は単純に否定されるべきものではないと思う。記事を読む限り、学生の理解には問題があるし、私は同調できない。しかし、そのまま否定し去ったら、授業はそこで終わる。この学生の異見を、教員はすくい上げることができなかった。すくい上げることができれば、今回のトラブルはおそらく起きなかったし、授業もより突っ込んだものになり、彼も、そして教室に座っていた他の199人も、そして教員自身も得るものがより多かっただろう。
――オムニバスの90分一回限りの授業で、しかも映画を見せて、それをしろというのは、実際とてもとても難しい要求なのだが。。。
ベタな実地主義からもしれない。けれど、「教室」が実地主義じゃなくて、どうする。教室における実地レベルでの地を這う努力の積み重ねは、中間を飛ばす暴力的な議論に対抗できる。教室は人を育てるからだ。
教室は育ちの場だ。教員は種をまく。種は発芽したりしなかったりする。種は小さいが、そこから育った芽は、勝手に周囲から栄養を吸って大きく育つ。教員もまた、それを見て育つ。
私は教室が「戦場」になったと煽ったが、
ここでそれを否定する。教室を「戦場」にしてはいけない。そこは対話と思考が生まれる場だ。異なる異見、異なる立場、異なる生まれ、異なる育ちのものが顔を合わせるからこそ、価値があり、面白い。
私はこの広島大学の先生とは面識がない。けれど、この先生を支えたい。教室を「戦場」にしようとする人々の手によって、この先生の授業が妨げられるようなことはあってはならないし、ましては処罰を受けたり、大学を去ったりするようなことがあってはならない。がんばれ、先生。負けるな。
広島大学にも、そして似たような事件に今後巻き込まれてしまうかもしれない他の大学にも、負けて欲しくない。先生を、そして学生を、守って欲しい。負けることが引き起こす、教員にとっての、大学にとっての、そして現在の、未来の学生たちにとっての損失を、よくよく考えて欲しい。
その学生にも、一度先生の部屋に行ってみることを勧める。研究室が圧迫を感じるなら、学食でご飯を一緒に食べたりしてもいい。200人の頭越しに見た小さな人影と、間近でみるその先生の表情は違うはずだ。200人に向けてマイクで話す声と、テーブルの向こうで話しかけてくる先生の声も、違うはずだ。そこで君は、授業よりも、新聞よりも、ネットよりも濃い情報と濃い情念に接することができる。そういう人間が、身近なところにゴロゴロいるのが、大学という空間だ。
ドアを、ノックしてみよう。扉はきっと開いている。
(おわり)
*補足
この事件についての後日フォローを含む、教員側からの記述として次の論考があります。崔真碩「産経事件と大学の危機」『現代思想』第42巻14号、2014年10月。