日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して

日経新聞の以下の記事でコメントをしています。古市憲寿さんの「百の夜は跳ねて」と木村友祐さんの「天空の絵描きたち」に関して。芥川賞の選評が話題でした。以下補足します。

>>「小説のオリジナリティーとは 芥川賞選評から考える 」『日本経済新聞』文化往来2019/8/20

www.nikkei.com

「小説のオリジナリティーとは 芥川賞選評から考える」『日経新聞』電子版、文化往来、2019/8/20


古市さんが盗作や剽窃をしたとかアイデアを盗んだとかいう意見もあるようですが、その批判は該当しないと思います。ビルの窓ふきというモチーフ自体にオリジナリティがあるわけではない。たとえば以下の方も指摘しているように、辻内智貴さん「青空のルーレット」(2001)という作品もある。

しかも古市さんは木村さんに「取材」を申込み、木村さんが情報や人を紹介したようで、しかも参考文献に明示しているから手続き的は、いたってホワイトでしょう。問題は別のレベルにある。私が日経新聞のコメントで「対話関係」とかいっている点。

普通、小説でも記事でも論文でも、同じテーマの先行する文献があれば、それを「踏まえて」書く。踏まえ方には色々あるけれど、テーマが近接していればしているほど、正面から向き合わざるを得なくなる。結果、ある種の対話関係が発生する。

近代文学で一つ例を出すと、金閣寺の放火事件(1950年)という実際の出来事があった。これを三島由紀夫が『金閣寺』という著名な長篇小説にしている。1956年発表。その約十年後の1967年に水上勉が同じ事件をもとに『五番町夕霧楼』というやはり長篇を書いている。

水上勉は参考文献として掲げたりはしないが(当時そんな習慣はない)、三島由紀夫の作品を意識していた。超有名な作品なので言うまでもない。というか、三島由紀夫の事件観・犯人観に反論するつもりで、水上は同作を書いた。三島は自分の「美」についての観念を作品に盛ったのに対し、水上は実際の犯人の生い立ちや内面を追った。

私が言う対話関係というのは、たとえばこういうこと。今回の古市さんと木村さんの二作について、両作を読んだ結果、私はこうした関係が発生しておかしくないと思った。つまり二人とも新自由主義的な格差社会の中において、東京を舞台にし、「ビルの窓ふき」という不安定な職業(立場、環境、収入など。象徴してる)の若者の関係性と内面を描いている。

古市さんの「百の夜は跳ねて」は、木村さんの「天空の絵描きたち」が提示したプレカリアスな状況の中で、誇りを持って働く主人公やその仲間たちという「職人」の物語について、なんらかの応答を含んでしかるべきだった。が私には、それが読めなかった。腹を立てた芥川賞の一部の選考委員たちにも、そうだったのではないかと推測する。

「百の夜は跳ねて」にとって「天空の絵描きたち」は、単なる便利に使った情報源の一つでしかなかった、というように見えるということである。

ただし、話をひっくり返すようだが、「情報源の一つ」として先行作品を使うことが、すなわちアウトということではない。

それは奥泉光さんが選評で言っていた、「小説はそもそも、すべてパッチワークだ」(大意)(注)ということに関わる。私はこの意見に同意する。だから、古市さんは「天空の絵描きたち」を単なる「情報の一つ」として使ってもいい。

問題はこの先である。じゃあパッチワークして何をどう書いたか?その質は?という話である。ちょっと辛口になってしまうけれど、私には「百の夜は跳ねて」はパッチワークの、それぞれの布片が、布片のままになりがちで、全体としての図柄が浮かび上がらなかったと思う。

もしも全体としての図柄の描画に成功していたら、おそらく同作は木村さんの小説とは、「モチーフこそ共通するもののまったく別の作品」として評価されていたと思う。

最後蛇足だが、私は古市さんの作品3作は全部読んでいるけれど、最先端的な固有名詞へのこだわりが強いんだよね。田中康夫「なんとなくクリスタル」的な方向を意識しているのかもしれないけれど、物自体が語るほど徹底していないから、どうも連発されるおしゃれ名詞が気になって仕方ない…。


当初「すべからくパッチワークだ」と書いておりましたが、すべからく警察さんのご指摘を受けまして、「すべてパッチワークだ」と訂正いたしました。すべからく=すべての意味で使う人が増えておりますが、やはりまだ誤用というべきでしょう。

外交と天皇が憲法を越えるとき

いま、「外交」と「天皇」を理由に、現役の府知事が現役の県知事の辞職を求める超展開になっている。
www.asahi.com

愛知県知事は、「憲法通りにやります」と言っている。
その県知事に対して、府知事は辞職を求めている。
辞職を求める根拠は「憲法の外」にあることになります。
超法規的な根拠。

これは、表現の自由の問題を発端にしている出来事であるわけですが、表現の自由という重大な問題が軽く吹っ飛ぶぐらいの、やばい事態にしか思えません。

この先、外交が戦争に化けたら、天皇が法規を超越していた大日本帝国の時代が、本当にもう一回やってきてしまう。

戦争は国家を非常事態=例外状態におく。
非常事態に法を越えた力を振るえるのが最高権力者であるわけだけれど、上の府知事的な発想で「天皇」を法を越えた例外的存在に奉っていくと、遠からず「法の外」に天皇が立ってしまう。
いったんそうなったら、そこから出てくる命令=勅令を止める力はどこにもなくなる。
法の外部に、「例外」として君臨してしまうので、もう手も足も出ない。

ある人たちは、それを望んで、呼んでいる。
自覚しているのかどうかは知らないが、事実上、そうしている。
大阪府知事は、その風を読んでいるだけ。
そして、その風に乗りたい政治家は、彼一人ではない。

戦争なんて起こるはずない?
ドンパチやるだけが戦争と思っていたらいけないんじゃないかな。
ミサイル飛んでからが戦争、ではない。
戦争は、政治の、外交の、延長にある。

あ、ミサイルもう飛んでたんだっけ。

幼児と戦車

本日、以下のようなニュースを見ました。
this.kiji.is

たまたまこの前、息子が戦車のラジコンをほしいと言っていたのもあって、思ったことを書いてみます。

「はたらくくるま」と戦車

この手の「はたらくくるま」系の本は息子が幼稚園の頃何冊か持っていましたが、たしかにそこには自衛隊のはなかったと記憶します。機動隊のはあったような…。この本を実際に見ていませんが、報道のとおり、

全30ページのうち6ページで自衛隊の戦車や車両を取り上げ、中には潜水艦や自走りゅう弾砲など、車ではないものも含まれていた。

となると、「うーんそれはちょっとやりすぎ」というか「どうしてそうなった」という感じはします。批判が来るのもわかります。

男児」はバトルが好き

さて一方、「男児(ここを♂に限定するか大いに迷いがあり、「 」に入れたうえ、一番下にグダグダ書きます)を育てているほとんどすべての親は経験すると思うのですが、やつらは好戦的です。武器が好きです。棒をもてば剣とみなし、L字型のものは銃に化けます。格闘的な遊び(相撲とかプロレスとかレスリングとか)も好みます。

この前、遊びに行った先でラジコンをしている父子を見ました。「ああ、それアリですね」と思いまして、息子とふたりで検索して商品ページを見てみました。私としてはJeepとかランクルとかフォレスターとかその辺に行ってほしかったのですが、案の定、「戦車がいい!」と言いました。
www.youtube.com


妻に速攻で却下されていました──が、諦めているかどうかわかりません。

息子の気持ちは、かつて「男児」としてバトル好き文化に浸かっていた私には、よくわかります。

1980年頃の町のおもちゃ屋と戦争玩具

振り返ってみるに、1980年前後ぐらいの町のおもちゃ屋(私は1972年生まれです)には、兵器や武器があふれていました。「男児向け」コーナーの半分ぐらいは、広い意味で戦争がらみのものだったような気がします。

戦車、軍艦、戦闘機。
銃も流行ってました。コルト・パイソンとか44マグナムとか。
ガンプラガンダムのプラモデル)が売れていましたが、ロボット兵器も大量にありました。
私は買わなかったけど、戦場系のジオラマもあったと思う。
城の模型も、まあ戦争カテゴリに入る。
空気銃もあった。BB弾のやつとか。町中の路上にはオレンジのタマが転がっていた。

今や、「町のおもちゃ屋」という存在自体がほぼ絶滅寸前なので、もう上のような風景がわからない世代が増えていると思うけど、いま40代以上の世代は、こういう文化のなかで育ってきました。30代はどうなのかな。わからない。もう私はその時期おもちゃ屋に行かなくなっていたから。

我々40代の男性は、これらの戦争玩具文化に養育された結果、好戦的な世代に育っているのでしょうか? 一部、そのままミリオタの道に進まれた方もいると思いますが、大多数はいつか卒業していきます。

現代子供文化の脱-戦争化

現代の子供の文化は、脱-戦争化が進んでいるなと思います。それは親たちの好みの反映でしょう。いまの子供の親は30代や40代で、特に多くの「男親」たちは自分の子供時代に上記の戦争玩具文化に多かれ少なかれ接触してきたはずですが、不思議なことです。私自身そうなんですから、私自身、不思議です。

子供向けの夕がたアニメとかに付き合っていても、「こいつらほんとに生身で殴り合わないなぁ」と思います。ポケモン妖怪ウォッチパズドラ爆丸バトルプラネットも遊戯王も、全部「代理バトル」ですよね。まあ、ボルトとかワンピースとか、生身で戦うのもありますから、全部とは言いませんが。(代理バトルは戦争じゃないのか、という問題もあるか)
たまたま今、地元のテレビではセーラームーンR[1992年~]やってますが、生身で普通に殺し合っていて、おお女の子なのに!とむしろ新鮮です。その前やっていたのが「アイカツフレンズ!」だったから、なおさらかもしれない。

戦車に触れると戦争好きになるのか

最初に戻りますと、当該の本のページ比率や潜水艦(車なわけないだろ)は変だと思いますが、子供たちの眼前からそんなに神経質に戦争(玩具)文化を取り除く必要があるのだろうか、と思います。

むしろ先に取り除くべきなのは、大人の世界のリアル兵器じゃないのだろうか、と思ったりもします。子供の目の前からいくら兵器を見えなくしたって、実際兵器はこの日本も含め、世界にあふれているわけで。日本は、自国の中の兵器を、なし崩し的に海外でも使えるようにしつつあるわけで。アメリカの超高額な戦闘機を気前よく爆買いしたりしているわけで。監視するならそっちが優先じゃないかなぁ。

幼児たちは、たぶん戦車に興味を持ちますが、その興味は知らない間に摩滅して、任天堂スイッチが欲しいと言い出すようになり、愛だ恋だに目がくらむようになり、しまいに親に何も言わなくなり、そして平々凡々たる大人になっていきます。

あんまり神経質に、検閲しなくてもよいのではないかと思います。
子供から大人への道筋は、単線じゃない。
表現を見ること読むことと、実際に行動を起こすこととのあいだには、ちゃんとギャップがある。
私たちはそんなに単純じゃないですよね。
あんまり厳しい検閲マインドは、社会の窮屈さの水位を上げるだけじゃないかなと思います。

男児」をめぐる補足的注記


私は、性別の役割分業や、性に付随する文化的嗜好は、成長の過程で周囲の文化に接触して、養われていく、と基本的に考えています。ただ、ぜんぶ「周囲の文化」起源なのか、ということについて、子育てをするうちに考え込むようになってきました。単純に言えば、「生まれつき」なのか「育ち」なのか問題です。男の子は男の子だから生まれ持って好戦的なのか。それとも、周囲の男の子文化に接触するうちに、好戦的になっていくのか。

もちろんこの問題には、無視できない「例外」の問題もあります。戦争玩具文化にまったく興味のない男児がおり、逆にけっこうバトル好き、戦争玩具好きの女児がいる。かれらは「例外」なのか。そうではないでしょう。それは単に人数の比率からして「例外」といわれるだけで、彼らにとってはそれが「自分の普通」ですよね。他人と比べてどうこうは関係ない。男の子なのに戦車すきじゃないんだ?とか男の子なのにピングが好きなの?とか女の子なのに戦闘機に興味があるの?とか、本人にとって、大きなお世話であります。

男の子たちは、「概して」戦闘的だったり戦闘にまつわるものに興味を持ったりするようにみえる。自分自身や周囲の親たちとの意見交換、保育園での観察レベルなので、まあ「自分調べ」の域は出ないですが。この「概して」って、なんなんでしょうか。ヒトが生物である以上、身体にビルトインされた振る舞いってのは、あると考えるがむしろ自然かなと思います。ただ、どこまでが「生まれつき」でどこからが「育ち」なのかの腑分けが、すべての面においてできるわけはありません。

というわけで、この「生まれ/育ち」問題は興味深い問題ですが、(学問では別として)一般に追究してもにさして言いはないと思っています。混じっていくよね、それ、という当たり前の答えに突き当たる。
重要なのはとにかく、男児だから●●」「女児だから××」という枠内に、個別の「その子」を押し込めるのは、やめてあげようね、ということでしょう。

N国がなぜ議席を取ったのかまったくわからなかったので、色々見学してきた感想。

感想の結論から言うと、この党はもう少し国政や地方議会で議席を伸ばす気がする。(2019.7.23, 8:00, 追記・編集あり)

(追記2 2019/7/24の朝日新聞によると、N国への投票者層(比例区)は次のような人々がコアらしいです。「男女比は男性68%、女性32%だった。年代構成は40代が27%で最も多く、30~50代で全体の6割超」。参院選でN国に投票、68%は男性 比例区朝日出口調査 - 2019参議院選挙(参院選):朝日新聞デジタル
また、この記事はBLOGOSに転載されており、コメント欄でN国支持の方の意見が読めます。)
blogos.com


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NHKをぶっ壊す」というワン・イシューは、裾野が広い。
裾野を広げているのは、NHK自身である。正確に言うと、受信機があればその家庭からは強制的に受信料を徴収できるという、現在の公共放送についての法的な規定である。
つまり、この問題の当事者は、テレビの受信機をもっている人全員であり、いまさらにワンセグ付きのスマホやカーナビ利用の問題で、火種は広がっている。
japanese.engadget.com

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カルト的な支持層や悪ふざけ投票を集めても、一人の議員は出せない。まぐれで99万票は集められず、合理的な背景がそこにあると考えるのが自然だろう。

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NHKの受信料を高いと思っている人は多い。
ワンセグ(カーナビ含む)に課金する計画をふざけるな、と思う人はもっと多い。
私たちは有料放送のスクランブルに慣れている。どうしてNHKだけが「例外的に」「スクランブルもかけずに」お金を強制的に徴収できるのか。NHKスクランブルをかけて、見たい人だけ金を払ってみればいいじゃないか、と思う人が増えても、さほど不思議ではない。ネットのコンテンツも、有料サービスには鍵がかかっているのが普通だから、「鍵もかけずに接続設備を持ってたら即課金」ってそりゃおかしいだろ、という感覚が広がっても、やはりそれほど不思議ではない。
若者を中心としたテレビを見ない層や、NHKに興味が無い層が、N国のNHK不要論に耳を傾けるのはむしろ当然である。「課金」(受信料はここではこれに含まれる)をめぐる感覚は、変容している。

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今回の参院選投票率は48.8%。
上記のことを考えると、投票率が上がればN国への投票者は増える。常に、
選挙に関心がある人 <<<<< NHKの受信料に関心がある人
だからである。いやむしろ、いつも投票に行かない人でもNHKの受信料がなくなるかもしれないなら投票に関心を持つ、と表現するべきか。こういう考えの人はまだまだ眠っていると思われるので、N国の知名度が上昇していけば、さらに議席を取っていく可能性は充分にあると思う。
読売テレビ出口調査を見ると、維新と共産以外の支持者は4~8%がN国(立花孝志氏)に流れていて、薄く広く支持者が広がっているように見える。


それは当然である。受信料批判は政策論議とは「別次元」で展開されているからである。受信料批判、NHKの集金批判は、ハードな政策についての議論の土俵をやすやすと通過していくだろう。選挙の争点が明確であろうがなかろうが、一定の票を得ていく構造をもっていると思う。


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なお当然ながら、若者の投票率が上がれば、N国の得票もあがるだろう。
若者ほどテレビを見なくなっているし、N国はYoutubeなど動画やSNSの使い方がうまい。訴え方も、学校の例を話の中で出すなど、若者にとって身近なものになっている。
ちなみに、いまgoogleで「ワンセグ 受信料」と検索すると、3つ表示される動画はすべて立花孝志氏のものが表示される。(私が見学して回った結果、googleが勧めてきている可能性はあるが)

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ネット上でリベラルぽい人々が、「なぜかわからない」と書いている背景には、その種の人たちの何割かはテレビから遠ざかっているせいもあるかもしれない。
N国の訴えが響く層は、テレビに価値を見いださない人たちか、テレビが好きだがNHK受信料は払いたくない/NHKはほとんど見ない人たちか、である。後者の感性は、リベラルな知識人には想像しにくいかもしれない。

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立花氏は、ある動画の中で「目立つために戦略的にふざけている」(要約)と言っている。
ただの悪ふざけの馬鹿者だと思っていると、相手を見誤る。
動画や政見放送をいくつか見たけれど、他の候補者の中にも弁の立つ人がいて、戦い方や訴え方を知ってる。
いろいろと、どぶ板もやってるようである。
立花氏およびN国がふざけているのは最初の入り口のところだけで、その先には「NHKにお金を払う理由がよくわからない人」に向けた、明快な論理が用意されている。明るく、親しみやすく、平易に。

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掘り出されたtweetやらその他の批判を見ると、たしかに氏は問題を抱えた人物のように見えるが、おそらく99万票のうちの大半は、彼やこの党の抱えている危うさに気づかずに、あるいはそれを目にしてもなお、「受信料問題」をはじめとしたNHKに対する疑問や反感にドライブされて投じられている。
そしてこの傾向は、まず次の選挙でも変わらない。NHKが反N国キャンペーンでもやればそれこそ別だが、できるわけがない。
NHKにとってはパンドラの箱が空いてしまったのではないかと、私は思っている。それはN国が変えているというよりは、有料コンテンツをめぐる時代の感覚の変化という、より大きな変容が根底にあるからなのだろう。そして、そこに「私/俺は見ないし興味もないからお金払いたくない」──身も蓋もない本音がまかり通る現代の感性が加わって、開いてしまった箱の口をさらに広げていく。

   *
最後に念のため言っておきますと、私は現在のNHK報道の政治的中立性に疑問をもっておりそれについて文句がありますが、数々のすばらしいドキュメンタリや調査報道などの制作には心から尊敬の念を持っており、NHKにはむしろ、もっとがんばってほしいと思っている立場です。さらにいえば、受信料を支払うから、もっと独立性を上げて、よい報道をし、よい番組をがんがん作って下さい、という意見をもっております。

サイトの引っ越し 名古屋大学大学院 人文学研究科 日本文化学専門

学内のサーバの廃止に伴って、所属講座のウェブサイトが以下に引っ越ししています。
Googleではまだ新しいページがヒットしませんので、ここにリンクを張っておきます。

jculture-nu.main.jp

(紹介)在朝日本人の文学に関する最近の研究 高麗大学の成果

かつて、植民地時代の朝鮮半島に住んでいた日本人=在朝日本人による文学活動というのがありました。ここのところ高麗大学の日本文学研究系の人たちが、大きな研究費を取って継続的にこのジャンルについての研究を行っていることは、間近で見て来ました。

先日、機会があったので、成果としてはどんなものがまとまっていますか?とうかがってみました。以下は、高麗大学の金孝順先生に教えていただいたその成果のリストです。日本語文学についての研究ですが、韓国内で刊行された業績であるため、日本にいると見えにくいです。金孝順先生の許可を得まして、ここにシェアします。

在朝日本人の文学についての研究は、やっぱり私たちのグローバル日本研究院のHK(人文韓国)事業から始まったのではないかと思います。もちろんその前にも2000年代に入ってから、韓国の国文学研究の一分野として植民地時期の文学が研究されることによって個別的な研究は少しずつ出ていましたが、本格的な在朝日本人の文学研究のはじまりは〔高麗大学校の〕グローバル日本研究院のHK(人文韓国)事業の中の<跨境日本語文学・文化研究会>によって在朝日本人の日本語雑誌に掲載された文芸物を共同研究しその成果を単行本の形で出版したのにあったと思います。

研究書の成果としては以下があります。

  • 『在朝日本人と植民地朝鮮の文化』1(図書出版亦楽、2014.5)
  • 『在朝日本人と植民地朝鮮の文化』2(図書出版亦楽、2015. 6)
  • 『在朝日本人日本語文学序説』(図書出版亦楽、2017. 6) ←10年間の研究成果を網羅。『跨境日本語文学研究』第5号(2017年12月)に高麗大学国文学科のクォン・ボドゥレ先生による書評あり。

在朝日本人の日本語雑誌に掲載された文芸物に関する研究は、2017年HK(人文韓国)事業の終了によって最近はあまり関心の対象から外れていますが、その
代わり同じ時期、日本語新聞に掲載された日本語文芸物に関する研究─たとえば私〔金孝順先生〕が責任者である<『京城日報』文学資料DB構築事業>(『跨境日本語文学研究』(第3号、2016年6月)の研究資料参照)や兪在真さんが責任者である<韓半島で刊行された日本語民間新聞の文芸物研究>(『跨境日本語文学研究』(第5号、2017年6月)の研究資料参照)など─が注目されています。これらの研究は各々来年、今年終了されるもので、終了されたら研究書と資料集が刊行される予定です。

上記の事業に関わった若手研究者による博士論文が複数出ています。

  • 中村静代『植民地朝鮮における怪談の研究』(高麗大学博士論文、2016年)
  • 金寶賢『植民地時期における朝鮮・台湾の日本伝統詩歌に関する研究』(高麗大学博士論文、2017年)
  • 李嘉慧『植民地時期における在朝日本人花柳界女性の表象研究』(高麗大学博士論文、2019年)
  • 金旭『植民地時期における朝鮮・台湾の高等教育機関の文芸活動に関する比較研究』(高麗大学博士論文、2019年)

以上。

(コメント出演)中京テレビ キャッチ

5月30日、中京テレビの「キャッチ」という番組に、短いコメント役で出演しました。
SNSで「いいね!」が買われている問題について。