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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

大学が〈選択と集中〉にさらされたとき何が起こるか

大学はいま



大学をはじめとした高等教育の行方、私たちの国の研究のあり方に興味を持つ人にとって、現政府の進めようとしている「改革」は、強い危惧を抱かせるものになっています。先日、お声がかかって『月刊 自治研』という雑誌(自治体公務員の組合活動の一環として出されているのだそうです)に「国立大学をめぐっていま何が起こっているか」(『月刊 自治研』vol.56 no.663, 2014年12月)という記事を書かせいただきました。

全文の転載はできなかったので、ここに要旨を紹介します。部分的には、『自治研』掲載の文章を「引用」している箇所があることもあらかじめおことわりします。全文が読みたい方は、書店・図書館等で入手なさるか、日比までお問い合わせ下さい。

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選択と集中〉とは

この記事で私が書いたことは、日本の大学に対して進められようとしている〈選択と集中〉の「改革」が実行されたときに、いったい何が起こってしまうか、ということである。

「スーパーグローバル大学」の指定や、教育系・人文社会科学系の縮小計画、あるいは少し前に話題になった「L型/G型大学(Local / Global)」などの議論であからさまになりつつある、のは特定の大学や学問領域に集中的に資本を投入し、それ以外は縮小するか廃止しようという方向性である。

選択と集中〉というのは、そもそも経営用語である。「L型/G型」などと、文部科学省有識者会議「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議 第1回」でのたまったのが経営コンサルタントだったことからもわかるように、どのようにして限られた手持ち資本で、有効的に組織を運営するかというのが発想の根幹である。そしてこの発想が、大学教育に持ち込まれたときに、L(ローカル)型大学においては、「文学概論」「マイケル・ポーター」「憲法、刑法」「機械力学」などを教えるのはやめて、「観光業で必要となる英語」「弥生会計ソフトの使い方」「大型特殊第二種免許の取得」「TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方」を教えよ云々。そしてローカル型国立大学の文系教員および世界レベルの研究ができない理系教員は、「辞めてもらうか、職業訓練教員としての訓練、再教育を受けてもらう」というような暴論が飛び出す。

暴論に対抗しようとすると、こちらも極端な物言いになるだけなので、私はこのL型/G型については、相手にしない。

ただ〈選択と集中〉という議論が出て来ることは、どうやっても避けられない。大学職員の方が書いているらしいブログ記事で、次のような議論がされている。

国費を何に使うのかという問題なんだろうなと思っています。つまり、「役に立たないから廃止」や「重要でないから廃止」ではなく、「やってきたことは知っているし重要な部分もあるのだろうけど、人文社会科学系は私立大学の方が総体としての規模が大きいし、今後使える金が少なくなっていく中で、国費を払い続ける理由はなんなのか。それが明らかにならなければ金は出さないよ。」ということだろうと推測しています

http://kakichirashi.hatenadiary.jp/entry/2014/08/28/222245

こういう考え方は一般的にある程度得心がいくものであるだろう。お金がないのだから、しかたがない。だったら手持ちのお金を有効に使おう。普通そう思う。私も、そう思う。

もしも〈選択と集中〉が本格的に導入されたら

がしかし、とあえてここで言う。教育に対しては、これを安易にやってはいけない。

もしも大学に対して〈選択と集中〉が本格的に導入され、大学が二極化したらどうなるか、私なりに考えてみた。日本の大学の中のわずか10校程にのみ先端的な研究環境を約束して巨額の資金を集中する、それ以外の大学には限られた予算しか措置せず、教員たちは実用的な職業教育に従事する。そういう「改革」が現実に行われたとしたら、どうなるか。

まず研究型の大学はどうなるか。かなりの巨額の資金が下りてくる(ただし特定の分野を中心に、だが)。そして国も国民も、その結果を求めてくる。はたして、このとき研究型の10校強は、世界の大学ランキングの上位にあがってくるような成果を出せるだろうか。私は、難しいと思う。

たとえばいえば、そこでやろうとしていることは、サッカーJリーグのJ1の2チーム程度を残して莫大な資金を与え、あとのチームはすべて企業チームか何かに戻すということである。この2チームは、世界レベルのチームになるだろうか。ならない(もしなっているとしたら、そこに日本人選手はほとんどいまい)。当たり前だ。裾野が広がり、裾野のレベルが上がってこそ、頂上が高くなる。

学術も同じである。研究に従事する大学数の削減は、そのまま各学術界における研究者数の減少に直結する。発表論文は減少し、研究者・研究成果の流動は滞り、取り組まれる研究課題も目だつものや金が出るものに限定されていく。この構造のなかで研究と研究者が縮小再生産されていけば、私たちの国の学術が衰退の一途をたどることは火を見るより明らかである。

一方で、職業訓練型になってしまった大学はどうなるだろうか。私たちの住む国には、一握りの研究型大学と有力私立・公立大学とを除くと、職業訓練型大学しか存在しなくなったとする――。つまりこれは札幌、仙台、つくば、東京、名古屋、京都、大阪、広島、福岡以外においては、学生が先端的かつ総合的な知的トレーニングを受けられなくなるということを意味する。

このとき、地方の優秀な学生たちはどうするだろうか。今にもまして都市部の研究型大学・有力大学を目指しはしないだろうか。そして残りの学生たちは、先の経営コンサルタント氏の方針をあえてなぞれば、地元で観光のための英語や、会計ソフトや工作機械の使い方、自動車免許の取得法などを学ぶことになるのである。

高等教育の機会と質の獲得における地域間格差は、目も当てられないものになる。

地方の中堅大学・教育大学は、その土地の地方自治体や教員たちの主要な輩出母体となっている。私の友人や教え子も、市役所や県庁に就職したり、教員になったりしている。そうした伝統が、その地方の社会と文化を支えている。職業訓練指向の教育というと、ぼんやりと「即戦力」というように聞こえてしまうかもしれないが、いったい何を学べば「即戦力」になるのか? はたしてアプリケーション・ソフトや実用語学や機械操作や小手先の教授法にだけ習熟した人材を、自治体や教育現場は(もちろん一般企業も)、求めているのだろうか。

大学の職業訓練学校化は、端的に言ってそこに入学する学生たち、ひいては一般の人々の知的能力への侮蔑であるが、同時にそれは、未知の課題、解きがたい問題、新たな挑戦へと立ち向かう私たちの社会の能力を根本から奪い去る、組織としての自殺行為である。グローバル化を僭称する目先だけの市場主義的大学改革は、その先端指向において失敗を約束されているだけでなく、日本社会総体の教育力に壊滅的な打撃を与え、地域間の格差を固定化し、我々の子供たちを成績と出身地とによって階層化する。

大学が今のままでいいわけではない

念のため言っておくが、私は大学が今のままでいい、と主張しているわけではない。変わらなければならないことは多い。文部科学省がいっている国際化はピント外れだが、大学の国際化はやはりもっと進めた方がいいと私は思う。留学生も外国人教員も、もっともっと多い方がいい。研究成果の公表と共有についても、大学の構成員はもっと真剣に努力せねばならない。大学がその教育課程で学生に身につけさせようとする「教養」のあり方も更新していかなければならない。

だが繰り返せば、これらの作業はそれは、新自由主義的な市場主義に飲み込まれるかたちで行われてはならないのだ。

いま行われようとしている〈選択と集中〉は、目の前にある「役に立つこと」を選び、それにだけ人々の能力と関心を限定するという、最悪のかたちで進みつつある。その恐ろしさを、私たちはもっとリアルに想像した方がいい。

どんな未来を選ぶのか

私たちは未来に起こることをうまく予見できない。であるならば、私たちは未来の問題への対処を、未来の人々に托すべきだ。それは、言い換えれば私たちの子や孫たちにその対処をゆだねるということだ。日本の借金は膨らみ続けているし、人口は減り続けているし、石油は枯渇して温室効果ガスは増え続ける。原発がある限り増えていく「核のゴミ」も、私たちはその処分の仕方を知らないのだ。私たちの未来は、私たちの子供たちを優秀に育てなければ、とてもとても暗いものになる。

選択と集中〉の議論は避けては通れない。資本も資源も有限だから。それはしかたがない。とすれば最終的にはこの問題は、現在の社会的状況の中で、社会のすべての構成員たち――大学人だけではない――が、大学の意義をどこに見いだすのか、というところにかかっている。私たちは私たちのお金をどこに使っていくべきなのか。「役に立つ」とはどういうことなのか。「社会的需要」とは、「社会的意義」とは。私たちは今それを私たち自身の頭で考え、判断しなければならない。