日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

語学教育と覇権主義

シカゴ大学孔子学院と手を切るらしい

数日前Facebookで教えてもらって、シカゴ大の孔子学院が今期限りで閉鎖される予定だということを知った。

Chicago to Close Confucius Institute (INSIDE HIGHER ED)

https://www.insidehighered.com/news/2014/09/26/chicago-severs-ties-chinese-government-funded-confucius-institute

日本語のニュースもその後出たようだ。「孔子学院」にノー 米シカゴ大、契約打ち切り(MSN 産経ニュース

ちょうどその次の日の朝、『朝日新聞』の一面に、

米国の大学、群抜く中国の存在感 習主席の娘も今春卒業

http://www.asahi.com/articles/ASG9P01ZQG9NUHBI01Q.html

という記事も載っていた。

孔子学院というのは、中国政府の公的機関で、外国の大学などと提携して中国語教育や中国文化の教育を行っている組織である。上に紹介したINSIDE HIGHER EDの記事によると、米国の大学教員たちから、孔子学院による教育が学問的な中立性を有していないという批判が上がっているということである。シカゴ大の今回の措置は、それが実際に有力大学による判断として形にされたという点でインパクトがあるようだ。

似たような話は、先日学会で出張したブラジルでも聞いてきた。
孔子学院は、人件費をはじめとした運用費用を負担する。そのかわり、組織内の人事権は大学には渡さない。カリキュラムも自分たちで編成する。金銭的なメリットが大学には大きいから、それを許す大学もある。ただし、当然そこは治外法権的になるので、懸念も呼ぶ、というようなことらしかった。

INSIDE HIGHER EDの記事では、同様の自国語教育組織として British Institute(英)、 Alliance Francaises(仏)、 Goethe Institutes(独) に言及しながら、これらと孔子学院との差異は、大学内部に組み込まれている(embedded)かどうかにある、としていた。British Instituteなどは大学とは別組織になっているので、大学に必要な学術的独立性には抵触しないというわけである。

中国だけを叩いても

私はここで孔子学院を批判するために書いているのではない。孔子学院のやりかたはやはり問題が大きいと思うが、一方で根本的な発想においては、他の国々の国策的言語教育機関も同じ穴のムジナであるように思っている。キレイ事を通すのか、なりふり構わずゴリゴリやるのか、という点の違いは大変大きい。なりふり構わぬ強圧は、周囲の離反を呼ぶので最終的には損だろうに、とも思う。

だが、このニュースを読んだ多くの人々が、中国はこんなことをやっている!と腹を立ててそれで終わるとしたら、それは少し一面的な理解になってしまうだろう。どの国も、外国で自国語を広めることの重要さを知っており、そのために額の多寡はあれ、それぞれお金を使っているからである。British Institute、 Alliance Francaises、 Goethe Institutes、そして孔子学院。韓国は世宗学堂をもっている。

日本は統一的な組織を持っていないが、当然関心もお金も払っている。海外における日本語教育は、公的機関としては国際交流基金とJICAが主にサポートしている。日本語教育なら文部科学省だろうと思う人もいるかもしれないが、これらは外務省が親方である。文科省じゃなくて外務省。そこに、海外における自国語教育が、どのような観点から必要だと思われているかが現れていると言っていいのだろう。

文化振興ではなくて、外交戦略、ソフト・パワー。日本語話者を増やし、日本への関心を増し、知日派を増やすことが、国益につながるわけである。ちなみに、「ジャパン・ハウス」という失敗するに違いない付け焼き刃で二番煎じ三番煎じのアイデアがそこそこでニュースになっているが、これも根本は同じである。

「ジャパンハウス:LAで来年開所…慰安婦批判に対応」毎日新聞

http://mainichi.jp/select/news/20140926k0000m040058000c.html

これもブラジルで聞いた話だが、ブラジル諸大学の東洋語東洋文化学科は、もともとは日本の講座の歴史が古く、他の国の講座は開かれていなかった。それがいくつかの大学で中国の講座が開かれるようになり、いまいくつかの大学では韓国の講座を開くよう、韓国の政府筋からプッシュを受けているという(もう開いているところもあるのかもしれない)。

大学の語学講座は覇権主義の戦場になるのか

私自身も含め、日本に生まれ育った人間が日本にいて日本語や日本文学を教えていると、海外で日本語や日本文化が教えられていることについて、単純にまあうれしいよね、ぐらいしか思い至らない。日本語・日本文化についての関心の網の目が、世界に広がっていく感じを漠然とイメージする。悪い気はしまい。

だが、たとえばブラジルの、ある大学の東洋系学科に視座を置きなおしてみるとしよう。日本関連コース/授業は、東洋学科の一部でしかない。それは中国や韓国についてのコース/授業と併存しているのが常態である。あるいは、よりアジアへの関心・需要が低い国の大学であるならば、日本関連のコース/授業は、「アジア・アフリカ」学科の中に放り込まれているかもしれない。

「大学で学ばれるべき国」の数が限られていた時代だったならば、授業で取り上げて下さるか下さらないかは、どうぞそちらの大学にお任せします、で済んでいた。日本は「東洋」という括りの中では、真っ先に学ばれるべき国の一つだった。学ばれる価値は、そのカテゴリの中では比較的自明だったはずである。だが、いまやもうそのような時代ではない。東アジアにおける経済力が均衡化し、アジア諸国から移民した人々が移民先の国で存在感を増し、関心を向けられる対象としての日本の価値は相対的に下落した。さらにいえば、各国がソフト・パワーの重要さに気づいてもいる。「大学でその国について学ぶ学生がいる」ということは、その国の国際的な影響力や交渉力を保ち、また増大させていくためにはとても重要だ。

大学の講座は、覇権主義の戦場の一つになっていると考えた方がいいのだろう。

スーパーグローバル大学って(涙)

「スーパーグローバル大学」という、もの悲しい名前の大学の選定がこの頃発表されたが、そこで目指されていることの一つは、留学生の獲得である。まあそれはたしかに大事だ。だが、それをしたいなら、同時に海外で日本語を勉強する人々、学生たちにサポートが回るような工夫もあわせてした方がいいと私は思う。

ついでに言うが、どうも今の政府は「グローバル」=英語としか考えていないようだ。違うだろ。英語話者を日本に呼んで英語漬けにしてSay good byeする。それでいいのか。いろんな国の人を呼んで、日本語と日本文化に馴染んでもらって、好きになってもらって、で、またね、と送り出すべきじゃないのか。もしそれを本気でやり始めたら、「日本語」と「日本文化」は変質する。「日本」も変質する。そこまでいってはじめて、グローバルだろう。

覇権主義とどう向き合うか

脱線した。そして書こうと思っていた本題を書く前に、すでにもう書きたいことを書いてしまった感もあるのだが、取り敢えず最後まで書こう。私は近代日本文学研究者である。日本の文化について研究し、日本の文化を教える仕事についている。相手は日本人だけではない。大学院生についていえば、いまや半分は留学生だ。だから、上記のような日本語教育/日本文化教育と、覇権主義との関係は、かなり気になる。

私は時代としては近代を研究対象としているので、日本が戦前に行った外地における強制的な日本語教育について知っている。帝国主義時代の日本語教育朝鮮半島や台湾、あるいは満洲で、人々に辛酸をなめさせた。そして一方で、――これは評価の難しい問題なのだが――その地域の文化に「実り」をももたらしたことも。

近代のそういう歴史を知っている者にとっては、自国の言語的覇権主義には、簡単には乗れない。90年前、80年前に俺たちの国がお隣で何をやったか考えて見ろよ、と思うのである。

覇権主義には乗りたくない。だが一方で、日本文学は面白いし、日本文学を考えることは面白い。教えることも、面白い。日本文学は日本人にとっても面白いが、外国人にとっても面白い。外国人は自分の国の言語や文学と比較しながら、あるいはそれを忘れて、日本文学を読んで、さまざまな発見と出会いをする。その現場に立ち会うのは、楽しい。

言語の覇権主義のなかに、私の仕事は組み込まれてしまうだろうか。私は国家的な利害関係の中に取り込まれるだろうか。もうすでにそうなっているだろうか。大きな物差しで測れば、そうなるだろう。

だが、教える現場で、研究の現場で、私はそれに抗うことができるようにも思っている。教えることは、考えさせること、ともに考えることだ。覇権主義に飲み込まれることは避けられないにしても、覇権主義がもたらした日本語の知識や文化が、覇権主義そのものへの抵抗や批判の糧となるというパラドックスを、私たちは近代の歴史の中に目撃しているはずである。たとえば中国や朝鮮半島、台湾の知識人たちは、かつて日本語で左翼系出版物を読んで、帝国日本への反抗の牙を研いだ――

複言語主義の可能性

覇権主義のなかにからみ取られながらもそれに抗うその時に、ヒントになるかもしれないアイデアを一つ書いて終わろう。「複言語主義」である。

「複言語主義」は、multilingualism多言語主義/多言語状態と対比するとわかりやすい。多言語主義・状態は、社会の中に複数の言語が共存する(ただし別個に)こと。これに対してplurlingualism複言語主義/複言語状態は一人の個人の中に複数の言語能力があり、それをスイッチして使うことを指す。これもブラジルで教わってきた(私はブラジル出張でたくさんのことを勉強してきました(笑))

ブラジルの日本語教員の人と、先の東洋学系の学科内における中国語/韓国語/日本語教育の覇権争いの話になったときに、意見が一致したことがある。

「だったら全部勉強すりゃいいじゃん!」

大学の教室数には限りがある。大学の予算にも限りがある。教員数にも限りがある。だが、一人の人間の脳のキャパシティーには限りはない。言語の3つや4つは余裕で収容できる。実際どれぐらいできるかはまあ能力と努力次第だが。(言葉を学ぶのは大変ですよね。。。でも言語習得は0か100かじゃない。「ちょっと知っている」だけで全然違うのだ)

かじってみるとわかるが、中国語と韓国語と日本語を併存的に学ぶメリットは、ものすごく大きい。実社会で役に立つだけでなく、それぞれの国の言葉の成り立ちや変化に誰しも興味を抱くはずだ。これらの国々の言葉は、親戚同士だ。言語への興味と理解は、互いの国への文化への興味と理解につながる。複言語主義の素晴らしさは、ここにある。

日本語教育や、日本文学、日本文化の研究教育を、日本の色一色で染めようとすると、間違いが起こる。それはゼロサム・ゲームになる。だが、日本語・日本文学・日本文化を、複言語・複文化の一部としていくならば、win-winになれる。あるいは「win勝つ」とかそういうさもしい発想をしなくても良くなる。

また複言語主義は、個人を起点にしているのもいい。覇権主義の問題や、外交関係の問題を論じると、つい人は自分一人の輪郭と国家の輪郭を重ねたくなる。日本への侮辱は自分への侮辱。日本語への軽視は自分への軽視。中国政府への反感は身近な中国人への反感。こういう短絡を、複言語主義は回避できる。複言語主義は、個人の中に多言語・多文化を収容しようという発想なのだから。たとえば仮に韓国政府についていらだつことがあったとしても、自分の中に韓国語を抱え、韓国文化を取り込んでいるのだとしたら、その自らの身のうちの韓国語・韓国文化が、韓国政府のふるまいに対して、適切な距離感を提供してくれるのである。

広田先生曰く

夏目漱石の「三四郎」で、広田先生は次のようにいっていた。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓〔ひいき〕の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html

私たちは、もっと個人の頭の中の広さとゆるさを信じた方がいい。言語も文化も排他的に、独占的に考える必要などまったくない。そうではなく、言語や文化を個人の中で重ね、出会わせることに積極的になろう。そうすれば、ばかばかしい覇権主義に乗せられたようでありながら、それを利用し返すきっかけを自分の手の中に掴むことができるに違いない。