日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

キュレーションサイトの問題は、リサーチャーすべてが直面している問題じゃないのか

キュレーションサイトをめぐる一連の騒ぎをみていて、これって実はリサーチする人間のほとんど全員が直面している問題じゃないかなぁと思ったので、そのことについて少し書いてみます。

なお、以下「キュレーション」という言葉をネガティブな文脈の中で使いますが、この言葉・作業は本来もっとクリエイティブでありうるものです。(参考:美術作品を世の中につなぐ高度な専門職がキュレーター|ojo

以下目次です。


ウェブ完結型リサーチ

今回の騒ぎの中で、何人かのライターや編集担当の証言が出てきました。

1円ライターから見た、キュレーションサイト「炎上」の現場 « マガジン航[kɔː]


「MERY」記事量産、経験者が語る現場 「ノルマ90分に1本、遅いと指導も」 | withnews



共通するのは、実際に現場に足を運んだり、インタビューをしたりして、取材することはなかったと述べていることです。つまり、この書き手たちは、自分たちの記事の基礎となるリサーチを、すべてウェブの中で完結させていました。

Web 2.0 という、今では懐かしい標語があります。そう望めば、すべての人が、自分の発言・発信を行える時代、ぐらいの意味でした。Web 2.0 の情報生産が、リアルな社会を基盤として、そこから吸い上げた材料を誰もがウェブ上に発信できるというモデルだったとすれば、ウェブ完結型リサーチの時代の情報生産は、リアルな社会を基盤としていません。ネットの中にあるものだけがリサーチの対象で、それを切り貼りしてつなぎ合わせて、「新しい」ものに仕立て上げる。自己完結した閉域です。

あらためて思ったのは、私たちのウェブ社会は、ほとんど専門的なスキルのない書き手までもが、それができるようになるところまで来てるんだな、ということです。

キュレーションサイトは「正しい」

さて、キュレーションサイトは強い批判にさらされましたが、そこでやっていたことは、実に理にかなったことでした。ウェブ上のキュレーションサイトとは、一種の「検索の代行」だったからです。そのことは、この形態のサービスが現れたときに、たとえば以下のような言い方で注目がされていたことからもわかります。

グーグルに代表されるロボット型の検索サービス全盛のいま、にわかに存在感を強めているキュレーション。ロボットに対する「人力検索」の逆襲とも言える。

(「キュレーション 王者グーグルを追う人力の新興勢力」『日本経済新聞』2010/12/30)

http://www.nikkei.com/article/DGXZZO20771920Z21C10A2000000/?df=3

キュレーションサイトが狙っていたのは、「みんなが検索するであろう言葉」「話題になっている言葉」についての情報を先回りして収集し、まとめ、感想をくっつけて提示するという作業です。人は「人が欲しているもの」を欲するのだとするならば、これはまさに理にかなった作業です。だからこそ、関連企業はここまで成長できたわけです。

つけ加えれば、これはSNSのシェア文化と、近い関係にあります。シェアは、ネット上で流れた来た情報を、シェア者のお墨付き(シェア者の名前やコメント)を付けて再放流する作業です。ほとんどの場合、そこでは検証や吟味は行われません。ネット上の情報を、ネット上で水平方向に広げているだけ。キュレーション・ライターがやっていたことは、SNS的なシェア文化とやはり同時代のものなのだといえそうです。

すべての調査者が直面するウェブ完結型リサーチの誘惑

今回痛感したのは、キュレーション・ライターが行ったことは、実はすべてのリサーチャーが直面していることでもあるということです。

研究と教育の世界に例を取ってみます。大学生たちのレポートは、放置するとキュレーションサイトの中の低スキル・ライターと同じような状態になったりします(ちなみに上記の記事に登場するキュレーション・ライターは「都内の名門私大」の学生でした)。つまり、検索エンジンで引っかかった記事やデータや論文だけをもとに、それに感想やコメントを付け加えて、レポートとして出してきます。言うなれば、ウェブ完結型レポートです。

では、彼らを指導する教員たちの世界=研究の世界ではどうでしょう。

もちろん、リサーチをウェブ検索だけで完結させるような研究は、学会誌には通りようがありませんし、学会発表などしようものなら(まずできないけど)フルボッコにされる以前に完全スルーで、「見なかった聞かなかったこと」にされます。

しかし、研究者にウェブ完結型リサーチの圧力というか誘惑がないかといえば、それはやっぱりあるのです。

典型的なのは、先行研究(既存の研究)の事前リサーチです。自分の課題に近い、核となる先行研究は、それがウェブ公開されていようが紙だろうが某図書館にしかなかろうが、何としてでも読みます。が、まあ見てもいいけどな、ぐらいに位置する、かすってる先行研究は、入手の利便性が判断を左右します。1クリックで読めるなら読むが、取り寄せてまでは読まない──というような。

ウェブの研究環境が整えば整うほど、研究者の腰は重くなっていきます。同じキャンパス内の図書館にある紙媒体の論文を、複写に行くのさえ、おっくうに感じるようになります。かくして、ウェブ完結型リサーチの誘惑は、研究者といえど、無縁ではないというわけです。

そしておそらく、この状況は、リサーチに関わるすべての業種において、多かれ少なかれすでに現出しているはずです。

結果としてどうなるか

欲望が複製される

ウェブの検索結果は、他人の欲望の似姿です。原則として、人がたくさん欲しがっているものが、上位に来る。とするならば、そこ(のみ)から得られる情報は、他人の欲望、他人の想像力の中に収まってしまうことになります。WELQなどのキュレーションサイトは、大量に意図的に同種のページを複製することで、サイトの検索ランキングを上げていたとされます。彼らはそのことによって、人々の欲望を制御しようとしていました。

複製されていたのは、大量の類似ページだけではなく、大量にコピーされた人間の欲望であり、結果として似通った欲望をもつようになる人間たちなのです。

リサーチの貧窮化

よっぴーさんも腹を立てていましたが(炎上中のDeNAにサイバーエージェント、その根底に流れるモラル無きDNAとは(ヨッピー) - 個人 - Yahoo!ニュース)、進行しているのは、経済的な利潤追求の前に、本当に価値あるリサーチが痩せ細っていくという現実です。志のある独立ライターであっても、単価が安ければ、大量に猛スピードで書くしかなく、調査に時間がかけられなくなります。経営基盤がしっかりしないメディアに所属する記者でも同じです。成果主義に押され、新規性のない論文やレポートを量産せざるをえない研究者・調査者もここに加えられます。結果として、需要の少ない領域の記事や、手間暇のかかる調査レポート、地方のニュース、新しい学術的な発見が私たちの社会に放たれる回路が、損なわれていくことになります。

嘘がまかり通る

今回のコトの発端も、信頼できない医療情報の垂れ流しからでした。「ポスト真実 post-truth」は、嘘をつき、それがまかり通っていく政治の風潮を指すときによく用いられる言葉ですが、ここまで述べてきたようなウェブ社会のあり方と大きく関係しています(参考:「ポスト真実」と感情化社会 どうして嘘つきがまかり通るのか(2) - 日比嘉高研究室)。ウェブ完結型リサーチによって作られた低質で無責任な記事と、それで儲けようとする悪質な業者たちがおり、下手をすると悪質なデマやヘイトを意図的に流す人々までいます。

ページ・ビューと、そこからもたらされる富や名声や反響だけを追いかけることによって、正確さや誠実さ、正義が、二の次に追いやられていきます。


どうするべきなのか

結論としてたどり着くのは、「当たり前」のことです。

一つは、「実際に話題の元のものを、読んでみる、見てみる、聞いてみる、行ってみる」ことの大事さです。研究の言葉で言うと「一次資料」を尊重することです。他人が書いた成果物だけから考えるのではなくて、自分自身が実際ナマのものを扱うことです。新規性は、そこからやってきます。あらゆるリサーチャーの原点は、ここにあるはずです。

もう一つは、手間暇かけた仕事をちゃんと評価しよう、ということです。しっかりしたリサーチ、新しいものを含んだリサーチには、金も時間も手間もかかります。それに正当な対価を払い、評価をして欲しいと思います。リサーチャーたちが、調査、取材、考察に没入できる環境も、整えて欲しい。

そのことが、回り回って、私たちの社会全体の情報と言論の質を高める結果につながっていくのです。