日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

中国調査出張から戻りました

f:id:hibi2007:20160812063031j:plain:w200:right帰国しました。写真は、哈爾浜(ハルビン)に向かう途中、早朝の長春駅です。
書きたいことは山のようにあるのですが、とりあえずメモ的に。

1.図書

行く前からわかっていたことだが、中国東北部のめぼしい公立・大学図書館の旧満洲国関連資料は全面封鎖状態。目録を見るあたりで限界。これは日本人でも中国在住の中国人研究者でも同じ。「窓口のコネ」次第で多少の融通は利くかもしれないのだが、それもわずかな範囲だろう。

2.満洲か、中国東北部

にもかかわらず、行く価値はある。現状では、旧満洲国・関東州関係の調査をするのには、日本が一番資料が揃う。だが、その位置・その資料に充足すると、「満洲」の問題を、「中国東北部」という角度から見られなくなる。

3.中国人の「朋友」関係って・・・

中国人の朋友関係は、いったいどうなっているんだろう。。。 私は今回色んな人にほんとにお世話になったのだが、その中の何人かは、日比の友人・知人の、「(一回しか会ったことがない)先輩」とか「友達の友達」だった。そういう人たちが、半日とか一日車を出してくれ、ぐるぐる回るのに付き合ってくれ、下手するとご飯をおごってくれる。
 私の外国の知人が名古屋を回るときに、私の友達の友達が、車を出すことは、まずありえない(頼まない)。一回しか会ったことがない大学の先輩に案内を頼むことも、まずありえない。
 中国語の「朋友」の意味は、日本語の「友達」よりも広い、と留学生から聞いたことがある。それは単に「範囲が広い」ということではなく、もしかして、そもそも友だち付き合いとか、人にものを頼める範囲の感覚というのが、根柢から違うのかもしれない。
 こういう頼み頼まれの、貸借関係はそしてどうなっているのか。。 どうやって恩義の借りを返すのか。それもそも貸し借りではないのか。私は膨大に受けた恩義の「借り」をどうやって返せばいいのか。。。
 なお、上記の「中国人」は、「中国東北部の人々」かもしれません。あるいは「さらにその一部」の人かもしれません。乞うご教示。

4.日本人の建物への態度

今回、はじめて長春(旧新京)、哈爾浜、瀋陽(旧奉天)、大連に行ったが、予想以上に建物が残っており、現役で生きていた。台湾の都市(台北や台南)がそうした街だということは見て知っていたが、量的には中国東北部の方が各都市それぞれにおいて台北や台南より多く、かつ台湾のそれらがけっこう観光財化している(博物館とか展示施設とかカフェとか)のに対し、もっと普通に現役の建物として活躍していた。
 中国東北部の建築や建物を見て回りながら思ったのは、こうした戦前の建物を、もっとも徹底的に壊したのは、韓国ではなく(これまでそう思っていた)、日本の都市じゃないかということだった。つまり「植民地建築」の話をするときに、日本国内の建物の扱いを棚上げにして語るのはおかしかろうということである。いまさら、思い至った不明を恥じる。
 なお、旅順は町並みがすっかり変わっていて、短時間の滞在だったこともあり、うまく古い地図と照合できなかった(旧駅を挟んで司令部や博物館側ではなく、日本人商店街側の話)。

5.つづき

「日本人が作った建物は丈夫ですよ。だからずっと使える」という風にいう方もいた。大規模な公的建築において、ある部分において事実だろう。
「発展のためにはしかたないですよ」、旅順の町並みがすっかり変わり、旧日本人町が消えているという話をする中で、こうも言う人がいた。これもまた、当然だ。旅順に今生きる人たちには、今の生活がある。かつて押しかけてきた日本人の町など、それがじゃまならばぶっ壊して当然である。

6.博物館

中国の博物館は、近年お金が投下され、整備され直している。731部隊張作霖爆殺事件現場には、それぞれ真新しい記念施設が建つ。前者は、2015年竣工の大規模施設だった。すごい。
 展示は、共産党的なストーリーによって構成された歴史を語る。事実とプロパガンダと感情の動員。いろいろと考えさせられた。日本目線ではない歴史を、身をもって体感できたことが、今回の大きな経験の一つだ。