日比嘉高研究室

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キーワードは「反知性主義」で、あってるんだろうか?

アマゾン・レビュー欄を炎上させる言葉

反知性主義」がいまキーワードになっている。けれども、この言葉を安易な意味で使って、レッテル張りをすることって、有効なんだろうかと思う。この言葉を使うのは注意した方がいいし、より適切な言葉がある場面では、そちらを選んだ方がいい、ということをちょっと書いてみたい。


在日の方が出した著書のアマゾン・レビュー欄が荒れているという記事を見て、読みに行ってきた。そこに溢れている憎悪の書込みを通覧していても、これは果たして「反知性主義」的な言説なんだろうか、と首をかしげた。

現代思想反知性主義特集の酒井隆史さんの考えは、この点で触発的だ。酒井さんの言う通り、いまネット上の言論――とくに排外主義・愛国主義歴史修正主義とそのカウンターの言葉は、むしろ「だれもが賢くあることを競い合っている」(酒井p.31)状況じゃないかと私も思う。

酒井さんの論文「反・反知性主義」が卓越していたのは、「反知性主義」と名指される対象を考えようとしたのではなく、『反知性主義」と名指す側の言葉の体制を考えようとした点にあると思う。酒井論から引用してみる。

「こうした「知的」な排外主義やレイシズムがのびのびと成長するための栄養分を供給しつづけている普遍的権利への攻撃や「戦後的なもの」への否定と、その気分としてのシニシズムは、長い時間をかけて、制度内外の知識人たちによって耕されてきたものである。」p.31


排外主義的な言説や歴史修正主義的な思考は、少なくとも「反知性」的ではない。こうした立場の人々が重視しているのは、むしろ「真実」への欲望という意味でやはり「知」であり、同時に強烈なまでの「正義」への指向であるように私には思える。それは偏狭で偏見に満ちたものであると言わざるを得ないけれどもども。だが、彼らのその指向性を無視して、その主張を「反知性主義」だと批判しても、批判は届かないんじゃないだろうか。「けったくそわるい権威的知識人め」となじり返されて終わりのような気がする。

わたしたちの首相の言葉

ただ一方で、やはり「反知性主義」と呼びたくなる言葉も今ある。原発事故が完全にコントロールされていると言い、解釈改憲を強行した際の首相の言葉は、論理性や正確性を完全に放棄していた(このことは以前に「ポエム化」をキーワードに書いたことがある)。

けれど私は、今の政治の言葉もやはり「反知性主義」とは呼ばない方がいいと思う。むしろ「感情の動員」の言葉と呼ぶのが、ふさわしいのじゃないだろうか。人々の情緒に訴える危険な言葉である。首相を始め現在の政権は、排外的・自国中心的な言葉を繰り替えしている。それはもちろん政治家個人の言葉なのだけれど、でもそれは政治科個人の性癖に負わせるべき事柄ではないと思う。その種の言葉を支持している/黙認している社会がある以上、それはやはり「現在の私たち社会の欲している言葉」なのだろう。

反知性主義」という言葉

反知性主義」については、ホーフスタッターや、つい最近出た森本あんりの本があって、それなりにこの言葉の歴史や範囲は明らかにされていると思うけれど「反知性主義」を単に「不勉強ものめ」とか「あほちゃうか」の高等な婉曲語として使っている例もしばしば見かける。

反知性主義」という言葉は、反発も受けやすい言葉だということも、自覚した方がいいと思う。とくに「知識人」とか「有識者」とかのカテゴリに入る人(含かもしれない人)は。つまり、知識人が誰かに「反知性主義」だと述べると、自分は「有-知性」側だという言明として受け取られる危険性が高い。

これは、批判を受けやすいと言うことだけではなくて、議論をどう交わしていくか、言葉をどう届けていくか、という点からすると大事な問題だと思う。過激なヘイトの言葉に、「反知性主義め」と罵るのは、対立をエスカレートさせるだけだし、その対立をみる「一般の人」を遠ざける結果を招くだけである。

右端でも左端でもない人々への言葉

「感情の動員」を目指す政治の言葉は情緒化しており、排外主義の言葉とカウンターの左派の言葉とは異なる「論理」と「正義」をかざして互いに聞く耳を持たず、排撃しあっている。

どんな言葉を誰に届けるのか、しっかり考えなければならないと最近私はよく思う。右端でも左端でもない人々の、知性と理性を起動する言葉が必要だ、と。