日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

憲法が死んだ次の日に、あるいはポエム化社会とどう向き合うか

錯乱から目が覚めて

昨晩から憂悶にとりつかれて精神的にまいっており、思い乱れて深夜に呪文のごとき抗議文を唱えて首相官邸内閣官房の意見箱に送信するという取り乱した行為におよんでしまったわけだが、原因ははっきりしている。

理屈が通らない相手に、いったいどういう言葉を投げかけたらいいのかということである。二歳半の息子はかなり論理が通るようになってきて、これこれこうで汚いから触るな、とか、こんなんになっていて危ないから近寄るな、というとしばらくの間は言うことが聞けるようになってきた。が、いったん機嫌が悪くなったり、腹が減ったり、眠くなったりしたらもうダメである。何を言ってもだめなので、強制的に力ずくで従わせるしかない。

情緒の言葉

いま私たちが向き合っている政府は、機嫌が悪くなった時の私の息子と同等である。むろん、私の息子は非力なので泣き叫ぼうが何をしようがたいした害はないが、一国の政府となると文字通り我々の生殺与奪の権利を握っているのであるから、ことは深刻である。

私は心底唖然として、いまだにその衝撃から冷めていないのは、東京オリンピックを招致する演説において、首相が世界のメディアを前にして、「状況は完全にコントロールされている」と言い放った時である。嘘である。原発事故が収束していない、終息させられていないことなど、だれでも知っている。だが、彼は「コントロールできている」と言って澄ましていた。(もしかしたら本当にそう信じているのかもしれないが、だとしたらなおのこと恐ろしい)

いまの政府は、理屈ではなく情緒の言葉を話している。昨日の首相の言葉を引用する。

集団的自衛権が現行憲法の下で認められるのか。そうした抽象的、観念的な議論ではありません。現実に起こり得る事態において国民の命と平和な暮らしを守るため、現行憲法の下で何をなすべきかという議論であります。

http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0701kaiken.html

私はこの「論理」に、心の底からがっかりし、本当に恐ろしくなる。ここで明確に言われているのは、抽象的、観念的な議論はやめて、現実の事態にどう対応するのか考えましょう、ということである。

これが、いま自分が自動車事故に遭ったところだとか、子供が大けがをして流血しているとかいうことなら、ぐだぐだいってないでなんとかしろよ、というのはわかる。

だが、この議論は、首相自からが言うように、憲法の解釈の議論なのである。憲法というのは言葉でできている。言葉の解釈をめぐる議論をしようといっておいて、抽象的、観念的な議論はやめましょう、現実の事態に対応しましょう、とはいったいどういうことなのか、本当に本当に、困ってしまう。

憲法という拘束具

憲法は、政府が作ったものなのだから、政府に変える権利があると思っている人がいるとしたら、それが間違いである。政府と憲法は鶏と卵の関係で、同時に成立するものである。そして憲法は何のためにあるかというと、国の権力というオールマイティーに近い資格と能力を持ちうる存在に、手かせ足かせをはめるためにある。要するに憲法は国家権力という化け物に仕着せた、拘束具である。エヴァンゲリオンの初号機が付けていたあれである。拘束具が外れると、中の化け物は暴れたり共食いをはじめたりして手が付けられないのである。

大事なのはこの拘束具が、言葉でできているということである。国家権力という、姿形はないが、しかし絶大な力が行使できてしまうナニモノか、を縛り付けるには言葉しかないのである。檻を作るわけにはいかないし、鎖で縛るわけにはいかない。だから、言葉の約束を守らせる/守り合うことによって、化け物が暴れないようにする。

今回の事態は、初号機のパイロットが、周囲の人々の同意もなしに、この拘束具を緩めたということである。エネルギーの供給を絶たれた初号機は時間が経つと止まるが、我々の世界の化け物は止まらない。

ポエム化する首相コメント

どうしたらいんだろうか。話はもとに舞い戻ってくるが、理屈の言葉を話そうとしないパイロットに、理屈の言葉で書かれた拘束具の取り扱いをめぐって、言葉で話し合いをするというのは、一体全体可能だろうか(いや可能ではない:泪)

昨日の「パイロット」の言葉をもう少し引用してみる。

いかなる事態にあっても国民の命と平和な暮らしは守り抜いていく。内閣総理大臣である私にはその大きな責任があります。その覚悟の下、本日、新しい安全保障法制の整備のための基本方針を閣議決定いたしました。

〔…〕

人々の幸せを願って作られた日本国憲法がこうしたときに国民の命を守る責任を放棄せよといっているとは私にはどうしても思えません。この思いを与党の皆さんと共有し、決定いたしました。

〔…〕

 今回の閣議決定によって日本が戦争に巻き込まれるおそれは一層なくなっていく。そう考えています。日本が再び戦争をする国になるというようなことは断じてあり得ない。いま一度そのことをはっきりと申し上げたいと思います。

〔…〕

決断には批判が伴います。しかし、批判をおそれず、私たちの平和への願いを責任ある行動へと移してきたことが、平和国家日本を創り上げてきた。そのことは間違いありません。

〔…〕

私たちの平和は人から与えられるものではない。私たち自身で築き上げるほかに道はありません。私は、今後とも丁寧に説明を行いながら、国民の皆様の理解を得る努力を続けてまいります。そして、国民の皆様とともに前に進んでいきたいと考えています。

http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0701kaiken.html


「ポエム化」という言葉が私の脳裏をよぎる。「ポエム化」というのは小田嶋隆さんなどが火付け役になった最近のキーワードで、本来私的である感情に溢れた言葉を、公の場ではずかしげもなくさらし出すことだ、とでもまとめられようか。

われらが初号機パイロットが発している言葉も、「覚悟」「どうしても思えません」「思いを共有」「断じてあり得ない」「決断には批判が伴います」「国民の皆様とともに前に進んでいきたい」などという、私たちの感情に訴える言葉がちりばめられている。そこに理屈はない。断言と決意とやんわりした脅しがあるだけである。

理屈は、このような短い首相コメントには盛られるべきものではなく、別の形で出動の要件をめぐる議論などをしているではないか、という指摘もあるかもしれない。たしかにそうだ。グレーゾーンやら三要件やらと、議論をしている。

だかここでも問題になるのは、理屈に従わないことを身をもって示している政府が作り上げる理屈に、だれがいったい真剣な興味を持つというのか、という至極当たり前のことである。憲法という、最も重要な言葉のルールを、内閣は「決定」によって変更した。では彼らが新しく持ち出した言葉のルールは、きちんと守られるのだろうか。守られると信じる方がおかしい。理屈による議論なしに「解釈」が「決定」できるなら、あらゆる法はザル法になる。

ポエム化する政治・社会に惑う

悲しいのは、いまのパイロットを換えたとしても、先行きは暗いということである。ポエム化の波は、私たちの社会をあまねく覆っている。なにしろうかつにも、こう書く私からして、夜中に呪文=ポエムを書いて首相官邸に送りつけてしまったからだ(笑)

いや、それは愚昧な私の錯乱だから、よい例にならないが、なにしろ「日本維新の会」「みんなの党」「結いの党」「新党大地」「新党ひとりひとり」「次世代の党」などという党名が並ぶ時代である。

こういう時代、こういうパイロットたち(私たちの代表だ)に、どういう言葉をもって、いま向き合えばいいのか。心底、惑う。

やはり最後には、私たち自身の理性と知性を信じて、言葉を紡ぎ出し続けるしかないのだろうか。ああ、これもポエムっぽい発言かなぁ。。 とほほ。私たちの生きる国の憲法の力って、そんなに脆弱だったのかなぁ。なんか、地面が音を立てて崩れるような気がするよ。