日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

育児休業を総括する

 長文です。物好きなあなただけ読んで下さい。

 ――夏休みも終わろうとしている。以前書いたように、私の育児休業は7月31日をもって終了していた。それ以来、いちおう経験や考えたことを総括しておこうと思い続けていたのだが、ついつい後回しになって今日に至った。もうこのタイミングを逃すと書けなくなる気がするので、いろいろな締切やら締切やら締切やら準備やら準備やら雑用をそっちのけにして、書いておく。

 育児をしていると時間が早い。東吾氏はもう十ヶ月だ。すぐに一歳になるだろう。恐ろしい話である。彼が早くも一歳になったということは、私も超速で一年を過ごしたということだ。


 育児の時間には二種類の時間がある。繰り返しの時間と積み上がる時間だ。育児とは単純作業の繰り返しだ。あやし、食事をやり、おむつを替え、寝かせる。これが延々と繰り返される。これが苦行に感じられてきたならば、そしてそこに息抜きや助けがないならば、育児がノイローゼを呼んで当たり前だ。

 一方気がつけば、あっという間に一週間、一ヶ月が過ぎており、子供はみるみる大きくなっている。寝返りを打つようになり、這いずり始め、あうあう言い始め、つかまって立ち、アイコンタクトを交わしはじめる。ああこんなにこの子が過ごした時間は積み上がっていた。

 ときどき、この二種類の時間の前でふと我に返って、呆然としたものだ。

 さて、総括を始めよう。いくつかのトピックに分けて、順に行く。

お母様方の受けが非常にいい件

 生まれてこの方、女性にこれほど褒められた事はない。女性、といっても、子育てを経験した女性である。いわゆる「お母さん」と「元お母さん」だ。それはもう、びっくりするほど驚かれ、目を輝かせて、「すごい」だの「えらい」だの「はじめてそういう人に会った」だの「イクメンだ」だのといわれ、おむつを替えては「手慣れたものだ」と感心され、子供をあやしては「堂に入ったものだ」的なことを言われ、その人の横にダンナがいようものなら、反転してイヤミやら説教やらがはじまる。そんなときは苦笑いするしかない。

 「イクメン」という言葉が、私は大嫌いだ。自分の口から発話したことは一回だけある。「イクメンという言葉は私は嫌いだ」と某シンポジウムの壇上で述べた時だけである。「イケメン」と同じ響きがあるのが前提になっているのがまずきもいし、なんだか自己顕示的な感じがしていやだ。まあ、こんなところで育児休業について一席ぶっている男に自己顕示がどうだとか言われたくないだろうが。。。

 「お母さん」たちが、育児男性を褒める気持ちは分かる。たとえばこんなことがあった。ある集まりに子連れでいったときのことだ。私が知人の「お母さん」に、「子供を連れて出かけると、準備が大変で、絶対思った通りの時間になんて出かけられないんです、とほほ」とかぼやいたところ、その「お母さん」は「それがわかっただけであんたはえらい」と褒めてくれた。曰く、「うちのだんななんて、準備がのろいっていつも文句を言ってくるけど、だったら自分でやってみろ、ってのよ」。

 「お母さん」は子育てを一人でうまく切り盛りして回せてあたりまえだ、という周囲のプレッシャーのなかで日々を送っている。が、子育ての一つ一つ、家事の一つ一つに苦労がある。たぶん、その「当たり前」と思われていること――いわゆるシャドウ・ワークだ――の大変さに、気づいたかもしれない男、として育児する男性はいる。だから「お母さん」は、目をきらきらさせて、褒めるのだ。自分の苦労を分かってくれるかもしれないから。

なんちゃってマイノリティとしての育児男性

 上に書いたことの裏側というか、近傍の問題だが、育児男性は育児界においてマイノリティである。

 『母子手帳』をもらいに行ったときのことを良く覚えている。出生届をはじめとした諸手続(訂正:妊娠の届けを出しに行ったときだった。妊娠の届けまでするんだ…と驚いた。人の生死って、国家に厳重に管理されているんだなぁと感じたことであった)をしたついでに区役所でもらったのだが、私はその冊子を私のものでもあると思ってもらった。それは子供を育てるための記録簿のようなものであるから。しかし、家に帰って楽しみに開いてみれば、その冊子は私を読者としては想定していなかった。読者は母親だけだった。そのとき始めて私は『母子手帳』が『母子手帳』という名前であることの意味に気づいた。

 『母子手帳』という名前が、なぜ『母子手帳』なのか疑った人はいるだろうか。わずかながらいるにちがいない。なぜその冊子の世界に父が存在しないのか、いぶかしく思った人は私の他にもいるだろうから。

 同じような気持ち、大げさに言えば疎外され、排除されている感じを、いろいろなところで受けた。育児界は基本的に男性の存在を想定していない、〈母子の帝国〉である。正確に言えば、男性は「お父さん」という役割を割り振られて、その役割を果たすかぎりにおいて、育児界の一部を担う。彼はけっして「お母さん」の役割に代わったりしないし、そういうことも期待されてはいない。わかりやすくいえば、母と父の役割分業はとても強固だということだ。

 育児する男性は、この役割分業を掻き乱す。まあ、世の性的役割分業とは違って、異性が参入することは歓迎される雰囲気が一応あるから、それほど深刻な問題は起こらない(と思う。たぶん)が、それでも世界の設計が「母(女)−子供」のペアでできているので、いたるところで居心地が悪い思いはするし、ああ俺って計算外だな、と思うことは多い。子育ては身体的な作業が多く伴うので、そういったところでも話に入って行きづらい(お互い気まずい)。

 研究者としてはちょっと面白い経験もした。

 男性論のシンポジウムで、「父」としての“一人称”で研究報告をした。しかも、ちょっとひねって、普通は家父長制批判の文脈で攻撃されることの多い「父」を、上記の「育児男性」のポジションすなわちマイノリティであるという構えで捉え直して、話してみた。そのことが成功したかどうかはわからない(「家父長制復権かよ、この反動保守野郎」と罵倒されるかと思ったらスルーされた。せっかく反論も考えておいたのに。ちょっと期待外れ(笑))

 面白かったのは、マイノリティの位置に立って公の場で一人称で語ると、戦闘的になる、ということだった。不合理を突き、差別を批判し、見過ごされていた問題を暴き立てる語りは、自然と反撃モードになる。遠慮は要らない。なぜなら自分は弱い立場にあるのだから。フェミニストが多く戦闘姿勢をとる理由が、体感できた一瞬だった。

子供との関係の話

 育児休業を取るメリットの一つは、子供が怖くなくなることである。育児との関わりが薄い男性は、いろいろな面で子供を怖がっている。乱暴に扱って怪我をさせるんじゃないかとか、泣かれるんじゃないかとか、嫌われるんじゃないかとか、なつかれていないんじゃないかとか、なんでギャーギャー泣いているのか全然わからない、とか。そういうのは、なくなる。

 私が家で子供と二人でいたときに、ある若いお兄さんが仕事の相談(営業)で部屋に上がった。お兄さんにも小さな子供がいた。が、彼の仕事はめちゃくちゃに多忙で、早朝家を出て、帰りは10時11時だった。子供とのふれあいの時間がほとんどなくて当然の生活だ。私と東吾氏が二人でいるのを見て、彼は「まずこの状況がありえない」と言って驚愕した。子供と二人になっても、なにをどうしていいのかわからないのだそうだ。まあ、このお兄さんは極端な例だが、子供の面倒を一通り自分一人で見られるようになると、自分も楽だし、子供も安心するし、奥さんも自由度が上がる。悪いことは一つもない。

 なお、「お母さん」が子供のちょっとした発話とか身振りから、その子が何を欲しているのかを察知し、それを見た周りが「さすがはお母さんね」的なことをいうことがある。私に言わせれば、それは性別の属性ではなくて、役割と環境の属性である。満足に言葉が話せない子供が何を欲しているかは、経緯と文脈から類推される。その子がその時間までに何をしていて何をしていないかを知っていれば、今その子が何を欲しているのかは見当が付く。お母さんだからできるわけではないし、お父さんだからできないわけではない。その子の一日に寄り添っている人間なら誰でも、多くの場合適切に気づくことができる。

 そしてしばしばこの「お母さんだからできる」的な発想は、当の「お母さん」自身が内面化している。ときに私はそれにひどくいらだった。それは私をはじき出そうとする論理だからだった。その能力は、多くの場合、性の属性ではない。役割の属性であり、環境の属性だ。

家族との関係の話

 先輩の「お父さん」「お母さん」たちに言われていたことだが、子供ができると夫婦の関係は劇的に変わる。私と妻は長く二人でいたこともあり、子供が生まれてもさほど変わらないだろうと踏んでいたのだが、そうではなかった。とにかく、子供の世話にかかる手間と時間は尋常ではない。一日24時間しかない時間の大半を占拠する存在が現れるのだから、生活、会話、思考、段取り、すべてが子供を中心とせざるを得ない。

 面白いことに、日本語は、「誰から見て捉える関係であるか」によって、その人の呼び名が変わり、そのスイッチもかなり自由にできる。つまり、私の母親が東吾の面倒を見に来てくれている、ということを第三者に伝えるとき、「今日はおばあちゃんが来てくれているんですよ」と言うことも、「今日は母親が来てくれているので」とも言える。私が起点か、子供が起点か、をスイッチすることによって「私の母」の呼び名が変わる。留学生と話していて、そのことを指摘された。日本語の特徴だ、とその学生は言った。

 と、ここまで書いて、日本語の特性としてこれは間違っていないが、小さな子供との会話においては、けっこういろんな言語で、この「呼び名」のスイッチは起こっているのかもしれないと思った。子供に対して自分の事を「お父さん」「お母さん」「パパ」「ママ」「Dad」「Mom」などというのは、珍しくないだろうし、子供が自分の事を「とうくん」とか「あーちゃん」とかいう風に、他称を自称として用いることも、様々な言語においてよくある混乱なのではないだろうか。(ちなみに日本では小学校ぐらいまで先生は自称が「先生」だが――「はーい、みんないまから先生がいうことをよく聞いて!」――これは、他の言語ではありうるんだろうか)

 私の父親は、孫(私の甥っ子たち)と過ごしすぎたせいかどうか知らないが、最近、自称が「じいちゃん」である。実の息子である私に対しても、しばしば「じいちゃんは」という。本人も、たまに気づいて「あら?」と思ったりしているようだ。奇妙なことだ。

 子供は大人の関心を占拠し、会話の関係性のゼロ地点(=視点の起点)を変える。今までどおりでは、家族はあり得ない。

「仕事と家庭の両立」とはなんぞや

 さて、いままで偉そうに育児男性について育児男性として語ってきたわけだが、このあたりで、正確を期し、妻の名誉を守り、家庭の平穏を願うために告白しておこう。我夫婦の育児分担比率は多く見積もって夫:妻=4:6である。いや、3:7かな(笑) 偉そうなことを言ってすいませんでした。。。

 この配分をめぐっては、何度も夫婦で衝突した。これからもするだろう。ヒビサンは育児休業をとってえらい、という神話をあえて自分から壊しておく必要も無いのだが、まあ、妻の方が完全に頑張っており、責任の引き受け方の覚悟も、実際に傾ける情熱や注ぎ込む時間も段違いだ。すなおに感心し、実情を言っておく。

 さて。夫婦間の分担、分業の話。私は「育児休業を取得しているのだから育児に専念できる/専念しろ」という発想に、反対である。この発想は女性を「主婦」として家庭に押し込める仕組みの、ちょうど裏側にある。育児休業は、男性の家事参加の一形態として歓迎されることが多いが、それが「主婦」の裏返し――つまり男女の性的役割分業の体制を維持したまま、たんに男と女の位置だけを入れ替える――であるのだとしたら、そんなくだらないことはない。

 「育児休業」という制度を利用しながら、しばしば違和感をもったり、腹を立てたりした原因の一つは、この「仕事=外」「育児・家事=内」という仕組みが、この制度の裏側で実はびくともせずに腰を据えていることを感じたからである。私は「育児が」したかったのではない。「育児も」したかったのである。

 「育児休業」というと一足飛びに「主夫」の話になることがある。それも、雑談としてはありだ。だが、それは本当はおかしい。主夫という生き方はアリだと私は思っているが「主婦」か「主夫」しかいない世界は、「主婦」しかいない世界と大して変わりはない。

 仕事もしたいし育児もしたい、という、ものすごく当たり前の欲求をかなえるのは、ありきたりの結論だが「時短」労働をより取りやすくするのが一番だ。これは次に書くお金の問題でもある。

お金の話

 お金の問題は、しっかり考えておいた方がよい。育休を取ることを考えているあなた。そして育休を設計する立場にあるあなたも。

 まず育休という制度があるかどうかが、その職場にとって問題だ。制度的にないところがあるのかどうか、たぶんない職場もあるが、論外。作りなさい、今すぐ。で、育児休業期間中に、給料をどれだけ支払ってくれるのか。国立大学法人名古屋大学は、給料は0円である。驚きましたか。私は驚きました。あほか、と思いました。あほです。このご時勢に。

 だから最初、私は育児休業を取るのを断念した。妻はそのとき、「特任」という任期付き教員のポストで給料を低く抑えられていた。私の収入が0円になったら、我々は生きていけない。

 とおもっていたら、これは僥倖だったが、彼女が職場を変わって常勤になった。これで収入はなんとかなるので、私は晴れて育児休業をとることにした。職場を変わった直後に育休を取るのも、妻にとってきつい話だったこともある。

 いいたいのは、こんな例はレアケースだということである。夫婦共稼ぎでないと取得できない「育休」とはなにか。「「専業主婦(主夫)」が家に居るなら夫(妻)が育休取る必要ないじゃん」。ごもっとも。必要は無い。みんなそうしてる。しかし、それでは夫(妻)は、子育てから遠いままだ。子供は一人で育てるより二人で育てた方が楽で、二人で育てるより三人四人で育てた方が楽だ。周囲が楽であれば、子供も楽だ。心の余裕を持った子供に育つだろう。

 で、ここからはまぬけな話だが、実は給料は0円になってしまうが、その代わりに育児休業給付金が雇用保険から(?よくわからない(^^;))支払われる。これは私の場合、給料の50%もらえた。もらえない、と勘違いしていたので、なんだか得した気分だった。お恥ずかしい話。この制度はあてにしていい。(ただし、給付金の給与に対する割合は変動するらしい)

 ついでに書いておくと、共済組合などの掛け金は、育児休業期間中は免除された。

 なんにせよ、お金のことはしっかり考えておいた方がいい。私はうかつすぎた。危ない橋を渡った、のだろう。

育児休業を人に勧めるか

 勧める。生計が成り立ち、興味があるなら、迷わず取るべきだ。「こんなに素晴らしい時間を手に入れないなんてもったいない」というような賛美を聞くこともあるが、そんないいもの(だけ)ではないことは覚悟すべきだが。

 子育てはたいへんだ。子供は親の期待に風馬牛だから、目に見える見返りもない。正直に言うが、私が育児休業をとっている期間中に、ある父親が一歳にもならない自分の子供を社宅のベランダから投げ落す、という悲惨な事件があった。仕事がうまくいっていなかった、というような報道も聞いた。私は、ありえない、と思う一方、ありえる、とも思った。子供はいつも天使ではないし、親もいつも子供がかわいいわけではない。泣き叫ぶ子供にカッと血が上る衝動を覚えたことのない親は、たぶんいない。

 だがそれでもなお私は育休の取得を勧める。子供ってかわいいから、とか、親業最高、とかいいたいからではない。子育てに関わると、いろいろなことに気づかされる。子供を育てることには、夫婦、家庭、地域、公的機関、教育機関、制度、インフラ、習慣、行事、宗教、ありとあらゆるさまざまなことが関わっている。なぜならそれは「人間の再生産」そのものだから。その現場に深く関わることは、その再生産の現場で起こっていること、起こりうること、再生産の現場を支えている人や仕組みなどについて、新しく発見することにつながる。うれしいことも腹の立つこともあるが、それはとても興味深いことであり、知る価値のあることだ。