日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

 立ち会い出産して

書きたいことがあったにもかかわらず、書けないままに年が改まってしまいそうである。まとまらないが、メモ風に残しておこう。

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子供が生まれた。生まれるときに、出産に立ち会った。聞きしに勝る、体験であった。

人間の身体のすごさに、圧倒された。

陣痛がひどくなっていく過程で――陣痛室から分娩室へと付き添っていく過程で、私が次第に考えるようになっていったのは、陣痛の痛みというのは、人から理性を奪うためにあるんじゃないか、ということだった。

経産婦のみなさんは、「その痛み」がどれだけのものかということをさまざまなたとえで語ってくれる。私は男なのでそれを身をもって体験することはできないのだけれど、立ち会いを経て、出産の時痛かった、という表現の仕方は、正確ではないのかもしれないということを、考えた。その痛みは出産行為の結果としてついてくるものではなくて、出産を行うための手段の一つとしてあるんじゃないかなということを、考えた。

妻を直接知っている人も多いだろうからあまり具体的な描写はできないが、痛みがひどくなっていくと、彼女はだんだん周囲のことが見えなくなって行っていった。最初は私の言葉にかろうじて反応を返したりしていたが、その後は言葉は理解しているが動きは無意識化しているような状態になっていった。医者の指示はわかるし、僕のサポートの動きにも反応する。しかしそれは彼女の意識によって制御されているという感じではなかった。

到底信じられないような大きさにまで成長した子供を、あの体の構造のまま外に出すということは、「普通」ではできようがない。激烈な痛みは、そのできるはずのないことをできるようにするための、理性のタガを外すための、トリガーなんだと思った。

途中から、妻の瞳は、奇妙に明るい茶色に光っていた。大きく見開いて、虚空を見つめるその瞳の色を、私は忘れることができない。もちろん、冷静に考えればそれは分娩室のライトの光が差しこんでいただけのことだろう。だが、私にはそれは彼女が別の世界にいることの明らかな証に思えた。

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そして、彼女が別の世界に行った代わりに、彼女の身体が信じられないほどの強さで分娩台の上にあった。強い言葉を使うことになるが、私のそのとき感じた感想をそのまま言えば、それは動物の身体そのものだった。人間の体のなかには、動物が眠っているんだな、ということを私は圧倒されながらぼんやり考えていた。

念のため言うが、女の身体を動物化しようとかそんなつもりはまったくない。私の身体の中にも、まちがいなく「それ」は眠っているのだろうと思う。ただ、男には、それを呼び出すような機会がそうそうはめぐってこない、というだけの話だ。

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動物と言えば、生まれてきた子供。裸で泣き叫ぶその姿は、やはり動物だった。手術着に包まれて冷静な判断を下していく人間と彼らが操る冷たく光る機器や道具にかこまれて、裸の二人だけが動物だった。

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人間の出産は、どうしてこれほどに困難になってしまったのだろうと、そのとき私は考えた。

妻は比較的高齢での出産だった。それにともなっての困難さはあっただろう。しかし、数人の医療従事者と医療機器に取り囲まれて、いくつかの出来した問題を解決してもらいながら子を産むという行為する姿を見て、なぜこんなに普通のことが、こんなにも難しく、こんなにも危険なのだろうか、といぶかしかった。

生物が、子を産む。あまりにもありふれた行為だ。それがどうして人の場合、これほどに難しいのか。生物としての私たちは、妙な道を歩んできてしまったのだ、と思わざるを得なかった。

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子供は、順調に育っている。東吾と名付けられた子供だが、まだ「人」ではない感じだ。
七歳までは神のもの、という言葉があるはずだが、うまく婉曲的に言ったものである。

むろん、かわいい。このかわいさへの反応は、それこそ身体的なものかもしれない。自分自身も含めるが、周りの人間の子供に対する応対の仕方は、文化的と言うより生物的にインプットされているような感じがする。

(ちなみに、妊婦も厚遇を受ける傾向にあるらしいが(妻談)、それもやっぱり同じじゃないだろうか)

子供は、これから人間になっていくだろう。そのプロセスに関わるのはとても楽しみだ。