日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

○○専用につき


タイトルに惹かれ、もしやこれは…、と思った方すいません、シャア専用のことではありません。「女性専用車両」のことを起点に随感などを書いてみようと。

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他の都市の通勤電車と同じく、名古屋市の地下鉄にも「女性専用車両」がある。平日の朝と夕方に、特定の車両が「女性専用」となる方式である。


他の時間帯には男性でも乗ってよいので、私もその車両に乗ったりする。わざわざ選んで乗ることもある。すいているからである。どうしてすいているんだろうか、というあたりからこの話は始まる。

女性専用となっていない時間帯でも、女性専用車両となるべきその車両はしばしばすいている。男性がその車両を避けているからである。観察してみれば、男性は乗っている(私を含め)。しかし隣の車両と見比べてみれば一目瞭然で、男女比がまったく違う。

どうして男性たちの中にはその車両を避ける人たちがいるのか、その理由は想像がつく。「なんとなく居心地が悪い」からである。私もたまにこの感覚をその車両で味わうことがある。時間帯としては、男性が乗っていて良い時間帯である。しかしながら実際には周囲で座っている人も立っている人も女性ばかりで、男性はわずかに数人。あれ、いま乗っていい時間帯だよな、と自問。う、向かいの女性からチラリと見られた気がする。心もち、隣の女性との間を空けてみるべくおしりの位置をずらす…。

こういう心理的葛藤が嫌で、最初からその車両に乗らない男性たちがいるわけである。

ちなみに言えば、その車両が本当に「女性専用」である時間帯に男性が乗ってしまうとどうなるか。名古屋でやったことはないが、一度梅田駅から阪急に乗ったときに、知らずにやってしまったことがある。発車前に気づいてあわてて隣の車両に移ったが、移動する間、通路を歩いているだけで視線が痛かった(気がした)。名古屋の地下鉄で通勤する連れ合いの証言によれば、たまに間違えて乗ってしまう男性がいるらしいが、周囲の厳しい視線はただことではないそうだ。(さらにちなみに言えば、「確信犯」もたまに出没するらしい…)

この、男性からすると「居心地の悪い」感じ。女性からすると「なんでいるの」という感じ。これに私は関心がある。どうしてこう思うのか。なぜこうした感情が喚起されるのか。

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あらためて言うと馬鹿馬鹿しく聞こえるが、こうした感情は、ある社会的仕組みの中におかれて始めて生まれ出る感情である。女性専用車両が登場するまでは、こんな心理的葛藤は存在しなかった。同様に、女性専用車両のすぐ隣の通常の車両においても、まったく存在しえない。むろん個人の個性によるものでもない(程度の差はともあれ)。女性専用車両(もしくは時間帯的にそうなってはいないその車両)でいたたまれない気持になる傾向の或る男性や、ここには男性は乗っていて欲しくないなと思う傾向の或る女性を、隣の車両に移動してもらってみる。彼も、彼女も、心理的葛藤は感じなくなる。

ある社会的集団を作る分割線が引かれた瞬間から、その分割線をはさんだ双方で感情的な葛藤の芽が生まれ始まる。そしてその感情的な葛藤や対立は、人をカテゴリー化する社会的・心理的働きや、そのカテゴリーに同一化し同一化させるアイデンティティ構成とも連動している。

試しに仮想的な実験をしてみよう。現実にはありえない(あってほしくない)、○○専用車両。

  • 子供専用車両(12歳以下の人しか乗ってはいけません)
  • シルバー専用車両(65歳以上の人しか乗ってはいけません)
  • 障碍者専用車両(障碍者手帳を保持している人しか乗ってはいけません)
  • 日本人専用車両(日本国籍を有する人しか乗ってはいけません)
  • 低所得者専用車両(年収○○円未満の人しか乗ってはいけません)
  • 公務員専用車両(公務員並びにその同伴する家族しか乗ってはいけません)
  • ムスリム専用車両(イスラム教徒しか乗ってはいけません)

上のそれぞれについて、自分が車内にいるつもりになって逐一リアルに想像してみよう。どんな人々が集まり、どんな視線と感情の葛藤が起こりうるか。想像すると、笑える。そして笑えない。なぜなら私たちは、これに類似するいくつかの分割線を、すでに知っているからだ。

人間というのは、つくづくカテゴリー化に骨がらみになっている存在だと思う。人の使う言語が、カテゴリー化の作用と切っても切れない存在だから当然なのかもしれない。私たちは、複雑な世の中の人々やモノたちの複雑さを縮減して、概括して「名古屋の人は」とか「イギリスの食べ物は」とか「東南アジアの国って」とか「男は」とか「女は」とか、言わずにいられない。そして、そうしたカテゴリー化する語りは、程度の差こそあれ、その集団やまとまりを捉え、まなざすあり方と結びつく。その集団、まとまりの、アイデンティティが形作られる。

女性専用車両でちらちらと見られ(たような気分になり)ながら、つらつら私が考えていたことは、この社会集団の分割線とアイデンティティ構成の問題なのであった。(・・・・やはり不審者かもしれない(笑)) 人のアイデンティティは複雑なのでまっさらな状態から何かができあがるなどということはないが、ある人為的な分割線が引かれて稼働しだした瞬間に、新しいアイデンティティはいともたやすくそこに発生するようだ。

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日本では例えばブラジル人出稼ぎ労働者たちが集住する地区・地域、エスニシティの別によって居住エリアが異なる米国ロス・アンゼルスの街、ルワンダツチ族フツ族のあまりにも悲惨な対立――。分割線の例は、いくらでも挙げられる。

分ける/分かれるということそのものが、葛藤や対立を芽生えさせるということを、もっとまじめに考えてよいのかもしれない。日本はこの先、移民の受入数を増やすだろう。その社会的な旋回がいつ来るのか、どの程度の規模で来るのかわからないけれど、ここ十数年か、数十年のうちにくるに違いない。日本の社会空間の設計をその時にどうするのか。分ける、というシステムの設計自体が引き起こす対立があり、分けないという設計を選ぶことによって回避できる葛藤がある、のではないかと私は思っている。

難しいのは、均質な社会集団の中において快適さを感じやすいという傾向を、比較的多くの人がもっているということである。私は「分けない」方を選びたい人間だが、それでもロサンゼルスに住んでいたとき、街で、レストランで、スーパーマーケットで、「ここはどんな人たちの場所なのか」ということをしばしば意識させられ、「黒い髪の人間」が自分だけであることに唐突に居心地の悪さを感じたり、あるいは「東アジア系らしき人」が多い空間で、心安さを感じたことを覚えている。

異文化を背景にする人と、垣根をへだて、あるいは壁を隔てて住むことは、同質の人と住むことと比べてストレスが多いだろう。(私が京都で住んでいた部屋の隣人は日本人風の男女(日本人ですw)だったが、生活マナーに関する異文化度からすると彼らは私からみてエチオピア人より遠く、そして私はプチ不眠症になった)

この手の問題は、規模が大きくなればなるほど、単純に分けるだけ、分けないだけ、という話にはなりえない。それを承知で、だが私はやっぱり「分けない設計」を選ぶ利点があるのだと、言ってみたいのであった。