日比嘉高研究室

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名作の書き出し 漱石から春樹まで (光文社新書)

名作の書き出し 漱石から春樹まで (光文社新書)

石原千秋さんの新著。漱石『それから』、谷崎『痴人の愛』、田中康夫『なんとなく、クリスタル』、江國香織きらきらひかる』など15作の冒頭を精読し、読解する。

ほーナルホド、というのもあれば、うーん強引、というのもある。が、読了して思ったのは、やっぱり小説の表現を精読する作業(そしてもちろん能力)というのは必要であることだなぁという、文学研究者としては「当たり前」のことである。

たぶん今、近代文学研究はかなり社会学寄りに振れている。現在の思潮の一つの主流が文化理論、文化研究にあるのでこれはしかたがないといえばしかたがないが、なんとなく一部の文学研究者は小説の表現を精読することを忘れている気がする。もちろん作品の精読だけが文学研究ではないことは承知しているが、なんというか、小説表現の精読というのはつまりは言葉の精読なので、小説表現を精読できるということは、周辺資料(言説、ね)の精読もできければ(やらなければ)ならないはずなのだが、そうはなっていない場合が多い気がする。周辺資料は単に調べて並べて、こういう配置でした、みたいな。それって単なる「背景調べ」だと思うんだが・・・。

自戒を込めて言うが、ほとんどの文学研究者は社会的なコンテクストを分析する充分なトレーニングを受けていないので、文学を取り囲んでいた周囲の状況を調べるということは、実は彼らにとってかなり高いハードルである。たぶん、ほとんどの人がメディア研究や教育史や歴史学社会学をかじりながら、見よう見まねでやっている。学問が越境するということはそういうことといえばそういうことなのだろうが、まあ危なっかしいことに変わりはない。しかも、最近よく参照される文化理論・文化研究の一部は、相当うさんくさいと私には見え(あんた2次資料しか読んでないだろ、みたいな)、しかし結構人気はあるらしく、まあまっとうな人はそんな議論を参照したりはしないと思うのだが・・・・。

他領域の人と一緒に仕事をする機会が増えたためか、ここのところよく文学研究の強みってなにかということを考える。いくつかあるんだろうけどその中の一つは、言葉の肌理を精読できる能力だと言っていいように思っている。石原さんの本から離れたようだけれど、遠くは離れていないと思う。