日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

近現代文学研究関係の文献の調べ方 サイト更新しました

 新学期に合わせ、近現代文学研究の分野においてどのように参考文献を集めるのかについて説明した以下2サイトを更新しました。「演習~」の方が学部生向けの入門サイト、「近現代文学研究~」の方がその発展版です。

 主な変更点としては以下になります。

  1. 全文テキストデータの検索のセクションを独立させた。次世代デジタルライブラリMaruzen eBook Libraryなど。)
  2. CiNii Articles の CiNii Research への統合について記述を対応させた。
  3. 在野研究者のレファレンス・チップス(小林昌樹さん、皓星社、『日本近代文学大系』総索引、ジャパンサーチについて追加した。
  4. その他、細部の記述のアップデートや、リンク切れの修正を行った。

また、今回の更新にあわせて解説動画もYoutubeで公開しています。
解説動画の公開「近現代文学研究 文献の探し方❶❷❸❹」 - 日比嘉高研究室
どうぞご利用下さい。


park18.wakwak.com

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ゴミから読む映画「ドライブ・マイ・カー」

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を見てきました。面白かったので、ちょっと感想を書きます。ネタバレがいやな人は、以下は読み進めず、そのままページを閉じて下さい。特に遠慮せずに書いていますので。

以下は、映画「ドライブ・マイ・カー」を、ゴミから読むという話となります。
dmc.bitters.co.jp


作品は、秘密を抱えたまま急死した妻をめぐって、なお苦悩を抱えている舞台俳優で演出家の家福悠介が主人公です。家福はチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を演出し、その仕事のあいだ車の運転を行ったドライバー渡利みさきと交流をしていく中で、苦しみに満ちた自身の生を受け入れます。

主人公の家福とドライバーの渡利が、互いの理解を深め合う二つの重要なドライブがあります。一つは、家福にどこでもいいから連れて行ってくれと言われた渡利が、ゴミの焼却工場へ行くシークエンス。もう一つは、舞台公演を中止するか自ら代役として出るかの選択を家福が迫られ、渡利の故郷である北海道の上十二滝村へ行くシークエンス。

ゴミの焼却工場では、都市から搬出された膨大なゴミが、巨大なクレーンによって掴まれ、集積場へと投げ落とされるようすが映し出されます。舞い散る紙ゴミを見せながら、渡利は、「雪みたいでしょう」といいます。ゴミ焼却工場を、彼女がふるさとの北海道と重ねていることがわかる場面です。

このゴミ焼却工場は、原爆ドーム平和公園とを結んだ軸線上に位置している、と作中で語られます(舞台の広島市環境局「中工場」は実際その通りの場所にあるそうです。設計は谷口吉生。その軸線を遮らないように建物は、設計されています。

この軸線についてはarch-hiroshimaのページが解説をしていて、参考になります。
arch-hiroshima.info

建築的言えば、原爆ドーム平和公園と吉島通を結ぶ軸線は、広島平和記念公園内に建つ丹下健三のピースセンターとを結ぶものだそうです。丹下門下の谷口吉生は、丹下の意図を受けつつ、その線を「延長」していることになるのでしょう。

ゴミの焼却工場「中工場」は、軸線をガラス張りに包むように通路が開けてあります。その先に海がある。渡利と家福は、その通路を海の方へ歩いて行く。映画の結末を見た観客は、渡利の未来が、海の向こう(方向は違いますが)にあることを知ることになります。

ゴミの焼却工場では、もう一つ重要なエピソードが語られます。あてもないままに北海道を飛び出してきた渡利は、広島で車が故障し、この町で生きることになる。彼女が選んだ、その生き延びるための職業が、ゴミ収集車のドライバーでした。日々排出される人びとの廃棄物を集めて回る車。

彼女は、ゴミ収集をめぐる仕事のキツさを熟知した上で、なおゴミを「雪みたい」だと言っていたことになります。彼女の強さが、ここでも浮かび上がります。

さて、ゴミをめぐるもう一つのシークエンス。上十二滝村では、土砂崩れで壊れた渡利の家が、そのまま残骸(ゴミですね)をさらしています。渡利の母との関係についての告白と振り返り、家福の妻との関係についての告白と振り返りは、この残骸=ゴミを見下ろしながら行われます。抑圧者であると同時に「友達」でもあった母親を受け入れている渡利は、家福に過ちを行うことも含めて亡き妻のすべてを受け入れられないかと尋ねます。

取り戻しのつかない過去と新しい関係を結び直し、そのことによって生き残った者たちが、苦しみに満ちた人生をそれでも生きていくというモチーフが、あざやかに浮上します。その媒介として、過去を象徴する「ゴミ」が置かれています。

ゴミは、単なる廃棄物ではありません。それは人が捨て去ったモノですが、その人とそのモノとのかかわりを、とどめています。人との関係性を存在のうちに織り込み、捨てられながらも、人の圏域の縁になお存在しているモノ、それがゴミです。

だから、ゴミに関わることは、そのモノに関わった人に関わることであり、その人の過去の関わることです。ゴミは奥深く、そしてときに恐ろしい。ゴミを介して過去が口を開き、抑圧していたナニモノカが回帰します。そしてだからこそ、ゴミに正しく向き合うことは、救済にもつながっていくのです。

ようこそゴミの表象研究の世界へ。



以下は宣伝。
興味を持った方は、どうぞ熊谷昭宏・日比嘉高編『ゴミ探訪』(皓星社)を手に取ってみて下さい。「ゴミの文学史 序説」という解説を書いております。面白いです(自分で言う)
www.libro-koseisha.co.jp

謹賀新年 2022

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

年越しの夜に訪れた寺でいただいた小さな虎。
この虎の中には、おみくじが入っていました。
小吉。
「旅行 行ってよろし」と書いてありました。
幸先の良いことば、と信じることにしました。

本年もよろしくお願いいたします。

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Inheriting Books: Overseas Bookstores, Distributors, and Their Networks

Yoshitaka Hibi. in PAJLS (Proceedings of the Association for Japanese Literary Studies), vol.19, 2019: 14-25. (published in 2021)


アメリカ日本文学会の予稿集に掲載された論文です。戦前外地の書物ネットワークに、日本の大学改革の話が接続するという??な展開になっていますが、先方の求めによるものです(^^;) もともとは、2018年にカリフォルニア大学バークレー校で行われた基調シンポジウム でお話しさせてもらった報告でした。そのときのお題が「evidence」だったんですね。それは人文学の危機にどう文学研究が応ずるか、という問題意識から来ていた。今回の予稿集の特集名も、「Evidence, Transmission, and Inheritance in Japanese Literature and Media」となっています。

予稿集PAJLSの当該号の目次は、以下からご覧になれます。
sites.google.com

疫病と日本文学

日比嘉高編、三弥井書店、2021年7月、254頁、他共著者11名

編著が出ました。昨年(2020年)12月に名古屋大学国語国文学で行ったシンポジウム「疫病と日本文学」をもとに、名古屋大関係者12名があつまって刊行した論文集です。

2020年に始まった新型コロナウイルス感染症パンデミックは、私たちの生活や感覚にとって大きな転換点となるかもしれません。何が起こっており、この先の世界はどうなっていくのでしょうか。それを考える際に、かつて同じような疫病の流行が起こったとき、人々は何を考え、感じ、どう処したのかを振り返ることは有用でしょう。この本は、日本文学の描いた疫病と、その渦中に生きた人々のようすを、中古から現代に至る千年のスパンで見渡す試みです。

目次はこちらで見られます。

www.hanmoto.com

オンラインの大学院説明会

現在、名古屋大学大学院人文学研究科では、オンラインの大学院説明会を行っています。
私の所属する日本文化学でも、メールやZoomによる個別相談を受け付けています。
詳細は、以下のページをご覧下さい。
https://www.hum.nagoya-u.ac.jp/examination/examination-sub2/www.hum.nagoya-u.ac.jp

環境と身体をめぐるポスト・ヒューマンな想像力 ─ 環境批評としての多和田葉子の震災後文学

『日本学報』韓国日本学会、Vol.125、2020.11、pp.1~19

韓国日本学会の第100回大会シンポジウムで報告をさせてもらった多和田葉子論が、論文になりました。以下から全文が読めます。ご笑覧ください。

(全文)環境と身体をめぐるポスト・ヒューマンな想像力 ─ 環境批評としての多和田葉子の震災後文学

[要旨]

本論文は、人間が環境への応答としてテクストの創造を行うことを環境批評の一つの実践だと捉え、震災後における多和田葉子の作品「不死の島」「献灯使」「地球にちりばめられて」「星に仄めかされて」を論じる。ここでいう環境批評(environmental criticism)は、自然環境と人間の作り出す社会的な環境との双方を含み込み、その交差や応答関係を考えていこうという試みと捉えている。
考察では、身体、言語、国の三点を軸にしながら、多和田作品を論じる。多和田の震災後の小説は、放射能による生物の身体への影響、不都合な自然の変化を糊塗するための語の検閲、単純なナショナリズムの回避など、比較的わかりやすい批判もテクストの中に織り込んでいる。一方、義郎、無名、Hirukoなどそれぞれに特徴的な人物を作品の基軸に据えることによって、彼らが災害後の世界で生き延びていくあり方を描き出し、彼らの探求によって、困難な世界は可能性を感じさせるわずかな光明を見いだせるものともなっている。
 最後に多和田の震災後文学のもつ不穏さを指摘する。ポスト・ヒューマンな文学的想像力の核心が、人間が変わってしまうのではないか、もう変わっているのではないか、という怖れの感覚にあり、その感覚に形象を与えたところにあるとするならば、多和田作品の想像力は、まさにポスト・ヒューマンな想像力としてある。それは、現在の環境の変化への反応としてあり、また変わりつつあると感じられる人間への関心を示している。

Abstract

Post-Human Imaginations of Environment and Body: Tawada Yoko's Post-Earthquake Literature as an Environmental Criticism

HIBI Yoshitaka

The present study considers the creation of literary texts as responses to the changing environment as a practice of environmental criticism, and discusses Tawada Yoko's writings after the Great East Japan Earthquake: "The Island of Immortality(不死の島)", "The Emissary (献灯使)", "Scattered on the Earth(地球にちりばめられて)" and "Implied by the Stars(星に仄めかされて)." I consider environmental criticism as a critical attempt to consider both the natural environment and the social environment created by humans, and the intersections and responses between the two.

The discussion will focus on three aspects of Tawada's novel: the body, language, and nation. Tawada's post-disaster novels typically weave relatively straightforward criticisms into the story, such as the effects of radiation on the body of living organisms, the censorship of words to glue together inconvenient environmental changes, and the avoidance of naive nationalism. On the other hand, by placing distinctive characters, such as Yoshiro, Mumei, and Hiruko at the center of the stories, Tawada showed how they survived in a post-disaster world, and through their quest, the readers find a glimmer of hope in a difficult world.

Lastly, the unpeaceful nature of Tawada's post-disaster literature was discussed. If the heart of the post-human literary imagination lies in the sense of fear that humans may be changing, or have already changed, and gives form to this sense, then the imagination of Tawada's work was precisely that of a post-human imagination. It is a reaction to the changes in the current environment, and it shows an interest in human beings who are perceived to be changing.


Keywords: Yoko Tawada, post-human, environment, human-body, earthquake