日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

ゴミから読む映画「ドライブ・マイ・カー」

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を見てきました。面白かったので、ちょっと感想を書きます。ネタバレがいやな人は、以下は読み進めず、そのままページを閉じて下さい。特に遠慮せずに書いていますので。

以下は、映画「ドライブ・マイ・カー」を、ゴミから読むという話となります。
dmc.bitters.co.jp


作品は、秘密を抱えたまま急死した妻をめぐって、なお苦悩を抱えている舞台俳優で演出家の家福悠介が主人公です。家福はチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を演出し、その仕事のあいだ車の運転を行ったドライバー渡利みさきと交流をしていく中で、苦しみに満ちた自身の生を受け入れます。

主人公の家福とドライバーの渡利が、互いの理解を深め合う二つの重要なドライブがあります。一つは、家福にどこでもいいから連れて行ってくれと言われた渡利が、ゴミの焼却工場へ行くシークエンス。もう一つは、舞台公演を中止するか自ら代役として出るかの選択を家福が迫られ、渡利の故郷である北海道の上十二滝村へ行くシークエンス。

ゴミの焼却工場では、都市から搬出された膨大なゴミが、巨大なクレーンによって掴まれ、集積場へと投げ落とされるようすが映し出されます。舞い散る紙ゴミを見せながら、渡利は、「雪みたいでしょう」といいます。ゴミ焼却工場を、彼女がふるさとの北海道と重ねていることがわかる場面です。

このゴミ焼却工場は、原爆ドーム平和公園とを結んだ軸線上に位置している、と作中で語られます(舞台の広島市環境局「中工場」は実際その通りの場所にあるそうです。設計は谷口吉生。その軸線を遮らないように建物は、設計されています。

この軸線についてはarch-hiroshimaのページが解説をしていて、参考になります。
arch-hiroshima.info

建築的言えば、原爆ドーム平和公園と吉島通を結ぶ軸線は、広島平和記念公園内に建つ丹下健三のピースセンターとを結ぶものだそうです。丹下門下の谷口吉生は、丹下の意図を受けつつ、その線を「延長」していることになるのでしょう。

ゴミの焼却工場「中工場」は、軸線をガラス張りに包むように通路が開けてあります。その先に海がある。渡利と家福は、その通路を海の方へ歩いて行く。映画の結末を見た観客は、渡利の未来が、海の向こう(方向は違いますが)にあることを知ることになります。

ゴミの焼却工場では、もう一つ重要なエピソードが語られます。あてもないままに北海道を飛び出してきた渡利は、広島で車が故障し、この町で生きることになる。彼女が選んだ、その生き延びるための職業が、ゴミ収集車のドライバーでした。日々排出される人びとの廃棄物を集めて回る車。

彼女は、ゴミ収集をめぐる仕事のキツさを熟知した上で、なおゴミを「雪みたい」だと言っていたことになります。彼女の強さが、ここでも浮かび上がります。

さて、ゴミをめぐるもう一つのシークエンス。上十二滝村では、土砂崩れで壊れた渡利の家が、そのまま残骸(ゴミですね)をさらしています。渡利の母との関係についての告白と振り返り、家福の妻との関係についての告白と振り返りは、この残骸=ゴミを見下ろしながら行われます。抑圧者であると同時に「友達」でもあった母親を受け入れている渡利は、家福に過ちを行うことも含めて亡き妻のすべてを受け入れられないかと尋ねます。

取り戻しのつかない過去と新しい関係を結び直し、そのことによって生き残った者たちが、苦しみに満ちた人生をそれでも生きていくというモチーフが、あざやかに浮上します。その媒介として、過去を象徴する「ゴミ」が置かれています。

ゴミは、単なる廃棄物ではありません。それは人が捨て去ったモノですが、その人とそのモノとのかかわりを、とどめています。人との関係性を存在のうちに織り込み、捨てられながらも、人の圏域の縁になお存在しているモノ、それがゴミです。

だから、ゴミに関わることは、そのモノに関わった人に関わることであり、その人の過去の関わることです。ゴミは奥深く、そしてときに恐ろしい。ゴミを介して過去が口を開き、抑圧していたナニモノカが回帰します。そしてだからこそ、ゴミに正しく向き合うことは、救済にもつながっていくのです。

ようこそゴミの表象研究の世界へ。



以下は宣伝。
興味を持った方は、どうぞ熊谷昭宏・日比嘉高編『ゴミ探訪』(皓星社)を手に取ってみて下さい。「ゴミの文学史 序説」という解説を書いております。面白いです(自分で言う)
www.libro-koseisha.co.jp

謹賀新年 2022

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

年越しの夜に訪れた寺でいただいた小さな虎。
この虎の中には、おみくじが入っていました。
小吉。
「旅行 行ってよろし」と書いてありました。
幸先の良いことば、と信じることにしました。

本年もよろしくお願いいたします。

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Inheriting Books: Overseas Bookstores, Distributors, and Their Networks

Yoshitaka Hibi. in PAJLS (Proceedings of the Association for Japanese Literary Studies), vol.19, 2019: 14-25. (published in 2021)


アメリカ日本文学会の予稿集に掲載された論文です。戦前外地の書物ネットワークに、日本の大学改革の話が接続するという??な展開になっていますが、先方の求めによるものです(^^;) もともとは、2018年にカリフォルニア大学バークレー校で行われた基調シンポジウム でお話しさせてもらった報告でした。そのときのお題が「evidence」だったんですね。それは人文学の危機にどう文学研究が応ずるか、という問題意識から来ていた。今回の予稿集の特集名も、「Evidence, Transmission, and Inheritance in Japanese Literature and Media」となっています。

予稿集PAJLSの当該号の目次は、以下からご覧になれます。
sites.google.com

疫病と日本文学

日比嘉高編、三弥井書店、2021年7月、254頁、他共著者11名

編著が出ました。昨年(2020年)12月に名古屋大学国語国文学で行ったシンポジウム「疫病と日本文学」をもとに、名古屋大関係者12名があつまって刊行した論文集です。

2020年に始まった新型コロナウイルス感染症パンデミックは、私たちの生活や感覚にとって大きな転換点となるかもしれません。何が起こっており、この先の世界はどうなっていくのでしょうか。それを考える際に、かつて同じような疫病の流行が起こったとき、人々は何を考え、感じ、どう処したのかを振り返ることは有用でしょう。この本は、日本文学の描いた疫病と、その渦中に生きた人々のようすを、中古から現代に至る千年のスパンで見渡す試みです。

目次はこちらで見られます。

www.hanmoto.com

オンラインの大学院説明会

現在、名古屋大学大学院人文学研究科では、オンラインの大学院説明会を行っています。
私の所属する日本文化学でも、メールやZoomによる個別相談を受け付けています。
詳細は、以下のページをご覧下さい。
https://www.hum.nagoya-u.ac.jp/examination/examination-sub2/www.hum.nagoya-u.ac.jp

環境と身体をめぐるポスト・ヒューマンな想像力 ─ 環境批評としての多和田葉子の震災後文学

『日本学報』韓国日本学会、Vol.125、2020.11、pp.1~19

韓国日本学会の第100回大会シンポジウムで報告をさせてもらった多和田葉子論が、論文になりました。以下から全文が読めます。ご笑覧ください。

(全文)環境と身体をめぐるポスト・ヒューマンな想像力 ─ 環境批評としての多和田葉子の震災後文学

[要旨]

本論文は、人間が環境への応答としてテクストの創造を行うことを環境批評の一つの実践だと捉え、震災後における多和田葉子の作品「不死の島」「献灯使」「地球にちりばめられて」「星に仄めかされて」を論じる。ここでいう環境批評(environmental criticism)は、自然環境と人間の作り出す社会的な環境との双方を含み込み、その交差や応答関係を考えていこうという試みと捉えている。
考察では、身体、言語、国の三点を軸にしながら、多和田作品を論じる。多和田の震災後の小説は、放射能による生物の身体への影響、不都合な自然の変化を糊塗するための語の検閲、単純なナショナリズムの回避など、比較的わかりやすい批判もテクストの中に織り込んでいる。一方、義郎、無名、Hirukoなどそれぞれに特徴的な人物を作品の基軸に据えることによって、彼らが災害後の世界で生き延びていくあり方を描き出し、彼らの探求によって、困難な世界は可能性を感じさせるわずかな光明を見いだせるものともなっている。
 最後に多和田の震災後文学のもつ不穏さを指摘する。ポスト・ヒューマンな文学的想像力の核心が、人間が変わってしまうのではないか、もう変わっているのではないか、という怖れの感覚にあり、その感覚に形象を与えたところにあるとするならば、多和田作品の想像力は、まさにポスト・ヒューマンな想像力としてある。それは、現在の環境の変化への反応としてあり、また変わりつつあると感じられる人間への関心を示している。

Abstract

Post-Human Imaginations of Environment and Body: Tawada Yoko's Post-Earthquake Literature as an Environmental Criticism

HIBI Yoshitaka

The present study considers the creation of literary texts as responses to the changing environment as a practice of environmental criticism, and discusses Tawada Yoko's writings after the Great East Japan Earthquake: "The Island of Immortality(不死の島)", "The Emissary (献灯使)", "Scattered on the Earth(地球にちりばめられて)" and "Implied by the Stars(星に仄めかされて)." I consider environmental criticism as a critical attempt to consider both the natural environment and the social environment created by humans, and the intersections and responses between the two.

The discussion will focus on three aspects of Tawada's novel: the body, language, and nation. Tawada's post-disaster novels typically weave relatively straightforward criticisms into the story, such as the effects of radiation on the body of living organisms, the censorship of words to glue together inconvenient environmental changes, and the avoidance of naive nationalism. On the other hand, by placing distinctive characters, such as Yoshiro, Mumei, and Hiruko at the center of the stories, Tawada showed how they survived in a post-disaster world, and through their quest, the readers find a glimmer of hope in a difficult world.

Lastly, the unpeaceful nature of Tawada's post-disaster literature was discussed. If the heart of the post-human literary imagination lies in the sense of fear that humans may be changing, or have already changed, and gives form to this sense, then the imagination of Tawada's work was precisely that of a post-human imagination. It is a reaction to the changes in the current environment, and it shows an interest in human beings who are perceived to be changing.


Keywords: Yoko Tawada, post-human, environment, human-body, earthquake

ゴロが死んだ話

 ここのところ食べる餌の量が目に見えて減っていたから、予期はしていた。夕食の後、リビングの隅に置いたケージを覗きに行くと、餌の減りがさらに少なかった。あいかわらず彼は巣の中に入り込んでいて姿を見せない。あまりに変化のない餌箱に、ふと不安を感じて巣をつついて見る。反応はない。白樺チップとケナフ繊維でつくられたドーム型の巣だ。覆っているごく細い繊維をかき分けると、茶色の毛皮が見えた。突いてみるが動きはなかった。こちらの押す力にしたがって、小さな体が揺れた。それがゴロの死だった。

  *
 そのハムスターを買ったのは、二年前の息子の誕生日だった。テレビで放送されていたアニメの影響だったか、友達の影響だったか、いまでは覚えていないが、誕生日を控えた息子が、ハムスターを飼いたいと言い出したのだった。
 きっと欲しいと言った息子ではなく、自分や妻が面倒を見ることになるのだろうと予感しながら、ペットショップに行った。ゴールデン・ハムスターというもっとも一般的な、薄い茶色のハムスター。大きな展示ケージには、一か月ほど前に生まれた子供だと書いてあった。
 息子と一緒に、歩き回ったりうずくまったりしている数匹をのぞき込む。まだあどけなさを残しているそのねずみたちは、黒い真円の目を持ち、ふわふわの球のような薄茶色の体を持ち、小さなしかし器用に動く手を持っていた。

  *
 どうやってその一匹を選んだのだったのだろう。元気のよかった一匹だったのか、かわいらしかった一匹だったのか、もう覚えていない。だが、どこかの繁殖の施設で生まれたであろうその数匹のきょうだいのうち、一匹を私の息子が選び出し、そして彼は家にやってきた。彼は「ゴロ」という名をもらい、数匹の͡仔ねずみのうちの一匹から、私たち家族の中の一匹に変わった。

  *
 ハムスターの寿命は二、三年だという。ゴロの場合、それは二年と三か月だった。二年三か月は、家族の中に入り込むのに十分に長いが、それが一生であると考えれば、あまりに短い。彼の世話をしながら私は、猛スピードで通り過ぎていく生命の時間を、早回しで見続けているように感じていた。
 彼は小さな子供としてやってきた。それはちょうどまさに、私の息子よりも少し小さいか、同じぐらいの感じだった。毛並みはつやつやとして柔らかく、目は大きく、あどけない顔立ちをしている。好奇心が旺盛で、ケージのなかを盛んに走り回っていた。
 そして彼はあっという間に、おとなになった。体つきはがっしりとし、乾燥した木の実をかじる口にも力強さが出てきた。ケージの外に出られることを覚え、扉をかじっては、ここから出せ、散歩をさせろ、と請求した。
 たまに私は、ケージのロックをかけ忘れることがあった。彼にとってそれは深夜の散歩のチャンスだった。床に点々と落ちている白樺チップの木くずが、彼の夜の足跡を示していた。

  *
 小動物をかわいがる仕方には、それぞれの流儀があるようだった。妻は、ハムスターに触れるのが好きだった。彼女は彼の名を呼びながら扉を開け、取り上げて掌の中に包み、撫でた。
 私は、彼に触れたいとはほとんど思わなかった。彼に餌をやり、彼が餌をかじったり巣へ運んだりし、給水器から水を飲み--金属の円筒形の管を両手でつかみ、かじりつきながら歯音を立てて水を飲むのだ--、トイレで用を足し、ケージ内を歩きまわるのを見ているのが好きだった。
 息子は、やはりろくに世話をしなかったが、私や妻がゴロの世話をしていると近づいてきて、触ったりリビングを散歩をさせたりするのだった。

 ゴロが死んだとき、私はゴロを取り上げなかったが、妻が死んだ彼を掌に乗せた。まだあたたかいみたい、と彼女は言った。死んですぐなのかもね。
 たしかに、手渡されたゴロの体は、まだほんのりとあたたかかった。しかしそれは、巣の下に敷いてあったヒーターの熱が、彼の死んだ体を温め続けていたにすぎなかったかもしれない。妻が横から覗き込みながら、眠ったまま死んじゃったみたいだね、と言う。ゴロは軽かった。横向きに丸くなり、目を閉じている。撫ぜると、体は骨ばっているのがわかり、毛皮の下のやせた骨格が感じられた。生きていた時は、この掌の上を四つの小さな足が踏み、やわらかな茶色の毛が指を撫ぜたのだった。
 あたたかさが急速に薄れつつあるような気がして、私はその前にそれを息子に手渡したいと思った。

  *
 巣材をかき分けてゴロが死んでいるのを発見したとき、私はそれを十分に予期していたと思う。この一か月ほど、彼の衰えは目立った。不活発になり、ほとんど巣から出てこなくなった。餌を食べる量が減り、水を飲む量も減り、トイレが汚れる度合いも少なくなった。たまに巣穴から出てきて餌場に出て行く彼の毛は、つやを失っており、ぼさぼさと乾いていた。動きは遅くなっており、好奇心も消えていた。以前ならケージの扉が開いているのであれば、必ずそこから降りようと試みた。しかし老いを迎えた彼は、開け放たれたケージの桟に手をかけて下をのぞき込むものの、決して降りようとはしなかった。一度など、巣穴から出てくると、彼は木くずでできたゆるい斜面で転倒し、転がり落ちさえした。壮年を通り過ぎた彼は、急速に老境に入っていた。

  *
 ハムスターの一生を、たかがねずみの一生を、人間のそれになぞらえることは馬鹿馬鹿しいことだろうか。しかし私は、彼の猛スピードで駆けていく一生を、子供と重ね、自分と重ね、私の父母や義母と重ねずにはいられなかった。彼の二年三か月の一生に付き添いながら、私はヒトの子供のどこまでも伸びていけるような成長の力を再確認し、力強く落ち着いた成年者の完成を感じ、そして衰微していく命のたよりなさを危ぶんだ。

  *
 私は大病を得た母のことを考えずにはいられないし、衰えが目立ってきた父や義母のことを考えずにはいられない。さらにいうならば、二十数年先に待っているだろう自分の老いのことも。

  *
 ゴロは、このケージという彼の「世界」を、どのように見ていたのだろうか。ハムスターの目はさほど良くないという。だから彼は、視覚としてその狭さを感じていたことはないかもしれない。だが、音とにおいと体に染みついた行動の履歴とで、そのわずか幅60cm×奥行40cm×高さ30cmほどの「世界」を、彼は熟知していたことだろう。その一生を、たった一人で、その小さな「世界」のなかで過ごすということは、彼にとってどんなことだったのだろう。
 最初にケナフの繊維を巣材として入れてみたときのことだった。彼は一晩かかって、大きな円形の立派な巣を作り上げた。妻と義母と息子はそれを見ながら、繁殖期で家族が欲しいんじゃないかと話し合っていた。繁殖期かどうかはしらないが、生殖は行いたいだろうなと私は思った。
 だが、私はゴロのパートナーを飼うことはしなかった。ハムスターが家で増えていくことは、私には考えられなかった。

 そしてゴロは一人のまま狭い世界で生き、一人で死んだ。

  *
 私たちは増えすぎたのかもしれない。と、そのハムスターの死体を見ながら私は唐突に思う。
 私たち人間は。
 生殖に興味を失いつつある私たち。老境を迎えてなおさまざまな手段で死期を伸ばし続けている私たち。生理的な不快感の敷居を超えて密集しあって暮らしている私たち。どんどんと下がっていく出生率は、ヒトが種として生き延びていくための当然の「制御」なのではないのか。
 私の住むケージの外では、ウイルスが猛威を振るっている。もしかして新しいウイルスとの「共存」もまた「制御」の一つなのか。
 まさか。
 死んだ彼が私を少し混乱させているだけのことだ。

  *
 私はゴロを愛していたが、同時に彼に、孤独で過酷な生を強いたのだろう。ネットで調べると、ゴールデン・ハムスターについて、もともと中東地域にいた野生種が数匹持ち出されて、実験用などのために繁殖が行われ、世界中に広がったという説が目に入る。持ち出されたのは1930年のことだったとある。
 ほんとうだろうか。数匹の、おそらくは1家族から広がった、無数の、世界中のゴールデン・ハムスターたち。それがほんとうだとするならば、それもまた人がハムスターのある家族に強いた、過酷な生の管理だというべきだろう。私はその家族の遠い末裔の一匹を、91年後の極東で、ケージに閉じ込めて死なせたというわけだ。

  *
 私たちは明日、ゴロを埋める。ゴロは土に帰っていくだろう。彼はそれをようやく訪れた解放だと考えるだろうか。あるいは別のことを考えるだろうか。

 いや、彼が考えることなどあるまい。ハムスターは単なるハムスターで、何も考えずに死んでいくのだ。ただのハムスターが、一匹、死んだだけである。
 小さな、ゴロが。

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ゴロの墓(息子作)