日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

発表者募集 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 2019 台北大会

東アジアと同時代日本語文学フォーラム 2019 台北大会 の個人研究発表・パネルセッション の募集が始まりました。

特集は「海から見る東アジアの文学と文化」です。発表は、特集に関係したものでも、自由なテーマでもかまいません。

詳細はこちらをご覧下さい。
eacjlforumweb.wixsite.com

(以下は、上掲のリンク先と同内容です。リンク先の方が読みやすいと思います)

募集の概要

「第7回 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 2019 台北大会」では、本大会および次世代フォーラムにおいて発表を行う、個人研究と3~5名程度で構成されるパネルセッションを募集します。
個人・パネルともに、特集に関係するテーマと自由なテーマのいずれでも応募できます。


大会日時: 2019年10月25(金)~27日(日)
※ 本大会・次世代フォーラムそれぞれにおいて、個人研究発表とパネルセッションが行われます。
場 所: 政治大学(25日午後、台北市
    東呉大学(26日および27日午前、台北市
テーマ : (1)日本語文学・文化についての研究 [テーマ自由]
「東アジアと同時代日本語文学フォーラム」の趣意に合致することが望ましいで
すが、必ずしもそれに限定しません。
同フォーラムについては、雑誌『跨境 日本語文学研究』最新号(http://bcjjl.org)、もしくは下記ページをご参照下さい。
http://japan.kujc.kr/contents/bbs/bbs_content.html

(2)大会特集「海から見る東アジアの文学と文化」に関連する研究
特集の趣旨文を本メールの末尾に掲げました。
応募資格: (A)次世代フォーラム:大学院生。発表言語は日本語とします。
(B)本大会:とくになし。発表言語は日本語とします。
応募方法: 申し込み書をダウンロードし、必要事項をご記入の上、下記までお送り下さい。申し込み書式のダウンロードはこちらから可能です
※ 台湾からの応募者 mako.mkt@gmail.com (担当・賴怡真)
※ 台湾以外の地域からの応募者 forum.eastasia.jlit@gmail.com (担当・中野綾子)
〆 切: 3月15日(金)必着
審 査: 応募いただいた内容は、同フォーラム大会運営担当者によって審査し発表の可否を判断します。可否の通知は4月初旬を予定しています。
旅費補助: 次世代フォーラムの参加者に対しては、参加者が所属大学等から旅費の支給が得られない場合に限り、本フォーラムが獲得した助成金の範囲内で、旅費の補助を行います。
原稿提出: 本フォーラムでは予稿集(PDF)を発行します。予稿は、既定のフォーマットで、一人あたりA4で2ページ以内となります。原稿の〆切は9月末頃を予定しています。

台北大会 特集 趣旨文

「海から見る東アジアの文学と文化」

 航空機が発達する以前、異文化、他民族との交流は、多くの地域において海を介して行われてきた。日本の歴史を考えてみても、さかのぼれば遣隋唐使、鑑真和尚の来日から、南蛮船の来航や朱印船貿易使節団や漂流民、黒船の来航など、いずれも海を媒介としている。

 海洋に浮かぶ「島」台湾について考え合わせてみるのもいいだろう。17世紀のオランダとスペインによる北部南部の領有、その後鄭成功によるヨーロッパ勢力の排除と東寧王朝の樹立、19世紀に入ってからの日本による領有、20世紀の中国国民党政府の樹立へと歴史は続く。いずれも海を媒介にして起こった変転である。

 日本や台湾だけではない。考えてみれば東アジアの各地域は、中国大陸と朝鮮半島を除けば、陸続きのところは一つもなく、そのほとんどが海によって接続されているのである。

 海は人を運び、物を運んだ。商人を、軍人を、学生を、家族を運んだ。商品を、武器を、本を、教科書を、映画を運んだ。張り巡らされた海運のネットワークが各地の港湾都市を結び、陸路と接続し、各々のローカルな社会をグローバルな物流と情報の網の目に組み込んだ。東アジアの文化は、海を媒介にして形成された人と物と情報のネットワークによって培われてきたのである。

 近代の日本語文学もその例外ではない。各地域の文学的近代の幕開けは、海を越えてやってきた〈外〉の文学のインパクトなしには考えられない。船によって運ばれた本や雑誌、新聞が、新しい文学を乗せて到来した。「舶来」の新奇で先端的な文学は、ローカルな文芸と混ざり合いながら、それぞれの近代文学を形成していった。

 今回の特集は、「海から見る東アジアの文学と文化」とし、あらためて海との関わりから近現代東アジアの日本語文学・文化を再考する。「海から見る」ことの重要さは、「陸」から発想する思考を問い直せるということにある。「陸」の思考は国境などの境界を輪郭として成立する、割拠の思考である。これに対し、「海」の思考は、境界によって分割された海岸同士を結びつける、接続の思考である。それは分断を越えて広域を覆う平面として広がる。「海から見る」ことの可能性は、大都市を中心とした垂直的な中心/周縁のモデルではなく、「海」と
「陸」、分割と接続のダイナミズムが生み出す水平的な網状モデルによって、文化を考えられるところにある。

 新文学の流入を取り上げても良いし、海をテーマにした作品を論じても良い。海が結びつけた人や土地、想像力を論じることもできるし、海を跨いで広がった人/物/情報のネットワークを論じても良い。港を起点に考えることもできれば、海辺や渚に着目することもできよう。あるいは、島という場所の境界的なあり方に注目することもできる。人が海を渡った道具である船もまた興味の尽きないテーマだろう。

 特定の地域に特化した議論だけでなく、広く海洋文学・文化といった視点から、台湾、日本、韓国、中国の四地域に跨って交差する文学と文化の軌跡を議論する。今回のフォーラムがそのような場となることを期待したい。

私たちはかしこく、冷静でありたい。

朴裕河さんの言葉。

「重要なのは、結果以上に対話自体である。対話が続く限り、過去の不幸な時間は克服可能だ。これ以上手遅れにならないうちに、いったい何が問題だったのか、この四半世紀の葛藤から振り返る必要がある。」

www.huffingtonpost.jp

これまで以上の、感情の悪化を、私も肌身で感じている。
心配で気が滅入る。けれど、雰囲気に抗わなければと思う。

朴さんが言うように、メディアは一部の意見を拡大し、それが全部であるかのように報じる。

画面の外側には「そうじゃない韓国」や「そうじゃない韓国人」がたくさんいることを、忘れないでほしい。
「そうじゃない日本」「そうじゃない日本人」が大勢いるのが当たり前であるように。

揉めることによって利益を得ている人々が、揉め事を煽り、長引かせている。

私たちはかしこく、冷静でありたい。
感情に流されないでありたい。
私たちはそれぞれの手元に、これまでに結んできたさまざまな隣国との縁をもっているはずである。
メディアが与えてくる像ではなく、自分のなかにある縁を見失わず、できればそれを太くしていきたい。

来月はソウルから、東国大の先生と学生たちが研究交流にやってくる。
特別なことではないし、特別なことはしない。
ふつうに、勉強しあう。
ふつうに、歓待する。

謹賀新年 今年のことと去年のこと 附・2018のお仕事一覧

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年頭に際し、本年の抱負気味のことと、昨年の振り返りをしておきます。


2019年は

  • ほとんど出す出す詐欺と化していた、モデル小説がらみの単著をまとめます(きっぱり)。
  • 外地書店、書物流通関係の仕事を続けます。
  • 文学から読む現代日本みたいなのを構想しております。
  • 仕事以外の世界も大事にします。

2018年を振り返ると

  • 一番の挑戦は、『文學界』の「新人小説月評」でした。一年間、いい勉強をしました。
  • 最初の単著『〈自己表象〉の文学史』の第三版を出せたのもありがたかったです。版元の翰林書房には感謝。
  • 大学論、ポスト真実、というように文学から少し遠い仕事をしてきて、それをふりかえるタイミングでした。考えるところ、思うところ、いろいろありました。自分には何ができて、何をするべきなんだろう、みたいな。この「何をするべきなんだろう」には、能力や責任や立場のこともあるんだけれど、年齢のこともあったりします。気がつけば40代後半に入ってるんだよなぁ。びっくりです。
  • そのほか、まとめてみれば、なんだかんだ色々やっていました。下記にまとめてみました。

2018年の主な仕事 まとめ

単著

『〈自己表象〉の文学史──自分を書く小説の登場』第三版
翰林書房、2018年3月
※ 「私小説研究文献目録」および「第三版あとがき」を増補
honto.jp
うーむ、品切れしてるのはなぜだ…。在庫はあるはずだが…。

共著

(1)
『日本文学の翻訳と流通──近代世界のネットワークへ』
河野至恩・村井則子編、勉誠出版、2018年1月
担当「マリヤンの本を追って──帝国の書物ネットワークと空間支配」pp.243-259

(2)
『일본 전후문학과 마이너리티문학의 단층』
韓国日本文学会編、보고사、2018年2月
担当「배제형 사회와 마이너리티」(排除型社会とマイノリティ)pp.410-425

(3)
『동아시아의 일본어 문학과 집단의 기억, 개인의 기억』
東アジアと同時代日本語文学フォーラム(嚴仁卿編)、역락、2018年3月
担当「도서관과 독서 이력을 둘러싼 문학적상상력」(図書館と読書の履歴をめぐる文学的想像力)pp.303-321

(4)
『「ポスト真実」の世界をどう生きるか――ウソが罷り通る時代に』
小森陽一編、新日本出版社、2018年4月
担当 第2章(小森氏との対談形式)

(5)
『怪異を読む・書く』
木越治、勝又基編、国書刊行会、2018年11月
担当「亡霊と生きよ――戦時・戦後の米国日系移民日本語文学」

研究発表

(1)
「文化資源となる文学、ならない文学――〝過疎の村〟で何ができるか」
横光利一文学会 第17回大会、日本近代文学館、2018年3月17日

(2)
「「満洲」における書物流通――満洲書籍配給株式会社以前、以後」
東アジアと同時代日本文学フォーラム 第6回、復旦大学、2018年10月20日

講演・イベント

(1)
(講演)「図書館を文学から覗いてみれば」
中部図書館情報学会、安城市図書情報館、2018年5月26日

(2)
トーク・イベント)「小説は東日本大震災を描けるのか?~「美しい顔」騒動から見えるもの」
石戸諭×日比嘉高、毎日メディアカフェ、2018年10月11日

(3)
(講演)「真山青果徳田秋聲 明治大正文壇交遊録」
徳田秋聲記念館、2018年11月18日

(4)
(講演)「ソーシャルメディアの今、日本の今を考える」
四国学院大学 人権週間講演会、2018年12月4日

その他の文章

(1)
「新人創作月評」『文學界』2018年2月~2019年1月

(2)
「外地書店を追いかける(10)戦時下の台湾書籍界」
『文献継承』金沢文圃閣、第32号、2018年3月、pp.12-15

(3)
「外地書店を追いかける(11)―本屋の引揚げ、本の残留・序」
『文献継承』金沢文圃閣、第33号、2018年10月

(4)
書評「西成彦『外地巡礼──「越境的」日本語文学論』」
週刊読書人』3231号、2018年3月16日

(5)
書評「八巻和彦編『「ポスト真実」にどう向き合うか──「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」記念講座2017」
週刊読書人』3240号、2018年5月25日

(6)
書評「本田由紀編『文系大学教育は役に立つのか 職業的レリバンスの検討』」
週刊読書人』3268号、2018年12月8日

その他 取材協力など

(1)
(インタビュー)「巻頭インタビュー ポスト真実時代と市民社会
ボランティア・市民活動情報誌『ネットワーク』352号、2018年2月

(2)
(取材協力)「事実に基づかない政治という病」
東京新聞、2018年3月2日 特報欄

(3)
(取材協力)『AERA』の特集「ウソつきとは戦え」
2018年6月11日増大号

(論文)亡霊と生きよ――戦時・戦後の米国日系移民日本語文学

木越治・勝又基編『怪異を読む・書く』国書刊行会、2018年11月所収、pp.443-461

(要旨)

この論考は、米国日系移民の日本語文学を主な検討の対象としながら、亡霊と記憶と文学をめぐって考えたものである。分析の対象とする作品は、戦後の米国日系人が刊行した日本語雑誌『南加文藝』所収の小説や詩歌、追悼記事、そして戦後の米国日系新一世による短編小説であるスタール富子「エイミイの博物館(ミユジアム)」、最後に戦時下の反米プロパガンダ移民小説である久生十蘭『紀ノ上一族』である。

亡霊とあわせて本論考が焦点をあわせるのは、記憶とその相続である。導きとなるのは、ジャック・デリダの亡霊論(『マルクスの亡霊たち』)である。米国に限らず、日系人の日本語文学に固有の問題として、継承の困難さがある。日本で生を受け、その後移住地へとわたった移民一世は当然日本語を話すが、二世の多くは現地の言葉を主言語とするようになる。これにより、世代間のコミュニケーションの難しさが生まれるだけでなく、文学的にも断絶が引き起こされる。日系人の日本語文学は彼らの経験を伝える記憶のメディアだといえるが、そのメディアの中に形作られた記憶は、誰に手渡しうるのかという問いにさらされる。消え失せていく一世とその日本語の文学は、いかにして忘却にあらがうのかという問題系がここに立ち上がる。

戦時をくぐり抜け戦後を生きながらえた日系日本語文学は、数多くの仲間の、家族の、そして作り手たち自身の死を経験する。そこで文学の言葉は、死を語り、死者を語り、ときに死者に語らせはじめる。記憶の継承を求めた日系人の文学は、言葉を換えれば、のちの読者であるわれわれに、死者の言葉に耳を澄ませるよう求めているといえるかもしれない。死者を語る移民の言葉に耳を澄ませ、亡霊をして語らしめたい。


www.kokusho.co.jp

紹介『怪異を読む・書く』、あるいは木越治先生の追想

最近共著として国書刊行会から出版した『怪異を読む・書く』について紹介をしたいのだが、順を追って木越治先生との思い出から書く。本書は、木越先生の古稀記念出版として企画され、そして予想もしなかったご逝去を受けて、御霊前に捧げる追悼論文集となってしまったものである。

怪異を読む・書く

怪異を読む・書く

木越治先生のこと

近世文学研究、なかでも上田秋成の研究者として知られる木越治先生は、教養教育を担当する先生のお一人として、私の前に現れた。金沢大学の学部生のときだった。

先生の教え方は、必ずしも体系的なものではなかった。そのときそのときの先生の関心を直接的に反映させたテーマ設定がされていて、江戸文芸を扱うこともあれば、源氏物語を扱ってパソコンへのテキスト入力と組み合わせるような授業をされたこともあったと記憶する。

近代文学で卒論を書こうとしていた私にとって、近世がご専門の木越先生は近い先生とは言えなかったはずだが、いくつかのきっかけがあって卒業後もお付き合いをさせていただくような関係となった。

一つは、源氏物語を扱った授業のレポートで、比較的良い評価をもらったことだと私は思っている。先生の点は辛く、普通に受講し、普通にレポートを書いた学生たちが、何人も単位を落としていた。私は、六条御息所の生霊の歌を軸にしながら、同じぐらいの時代のいくつかの似たような魂が離脱する表現の歌と組み合わせ、クリステヴァのインターテクスト論の味付けをしてレポートに書いて、良い点をもらった。「クリステヴァ使わなくても言えるよね、これ」と先生に笑いながら言われたことを覚えている。角間キャンパスの国語国文研究室にいたときだった。文学理論をつかってレポートを書いたのはこれが初めてだった私は、それを受け入れてくれた木越先生という先生に親しみを持ったし、おそらく先生も、授業でやったこととは異なる妙なレポートを書いた学生に関心を持たれたのかもしれない。そのときの先生の採点は、完全に、授業を理解したかという観点ではなく、それが論考として面白いかというただ一点からされていたように思う。

もう一つのきっかけは、パソコン講習会だった。1993年とか94年のことだったはずである。木越先生はパソコンに関心があり、正規表現を使ってデジタル・テキストを比較したり置換したり並べ替えたりという作業が、文学作品の本文校訂や本文理解の手助けになるという見込みをもたれていたと思う。(たんに新しもの好きだった、という面もきっとある)

当時、文学部の学生の大半は、ワープロ専用機を使っていて、数%はまだ手書きでレポートや卒論を書く時代だった。そんな中、パソコンを使うということは、とても珍しいことだった。先生が授業外でパソコン・ゼミをすると学生を誘ったとき、私はなんだか面白いことが始まりそうだという強い関心を持っていそいそと参加した。

この部分を詳しく書くと長くなりそうなので端折るが、私はそのゼミや、そのゼミ以外の私的な交流の中で、先生やその周囲の人たち(本書に執筆されている高橋明彦さんもそのお一人だった)から、正規表現を使ったgrepsedなどというコマンドの使い方を習い、短いバッチファイルを書くことを覚え、MS-DOSの中古ノートパソコンを買い、そのカスタマイズの仕方を教えてもらった。vzエディタを薦められ、後にLatex組版して印刷するようになった。現在、HTMLで個人ページを作り、ブログを書き、TwitterFacebookをやっている私の、パソコン文化との接点を作って下さったのは、木越先生である。

金沢市大場のご自宅にも、二三度お邪魔したことがある。すきやき会をして下さった。奥様の秀子さんやお嬢さんもいらした。俊介さんとも、そのどこかでお目にかかったのだと思う。

自分の肉体を形作っているのは、両親から受け継いだ形質であるわけだが、大学教師としての自分を形作っているのは、自分が教えを受けてきた数多くの先生方なのだと最近しばしば感じる。私は学部と大学院が別だったし、大学院では二つの研究室の授業を半々ずつぐらいで取っていたから、「先生」の数が多い。直接の指導教員だった金沢大学の上田正行先生や、筑波大学大学院の名波弘彰先生はもちろんだが、金沢の島田昌彦先生、古屋彰先生、西村聡先生、筑波の荒木正純先生、阿部軍治先生、今橋映子先生、宮本陽一郎先生、池内輝雄先生、新保邦寛先生の授業や学生への接し方の端々が、自分が自己認識する教師像を形作っていることを感じる。むろん、人は他人にはなれないので、先生たちの「いいとこ取り」を我流で目論んでいるだけなわけであるが。

木越先生も、もちろんそのお一人である。私は木越先生のざっくばらんな学生との接し方が好きだったからそれをまねたいと思っているし、先生の厳しく戦闘的な研究者としての態度はあこがれであるし、何事に付けても好奇心旺盛で研究の世界に留まらず周りの人を巻き込んでいく人間としてのあり方に、学びたいと思っている。

先生はもう去られてしまったが、先生の残してくださったもの──情けないことにそのわずか一部であるが──は、私の中に残っていると感じている。

先生、ありがとうございます。

『怪異を読む・書く』

本書は、『怪異を読む・書く』と題した論文集である。集まったのは近世文学と近代文学の研究者26名である。490頁に迫る大冊となった。

方法論的な統一性があるわけでもないし、時代ももちろんバラバラである。したがって、通読してなにか全体像やビジョンのようなものが見えてくるようなそういう本ではない。

だが収められた論文は、高質である。不勉強と怠惰から、古典文学の論文に目を通す機会が少ないのだが、今回「怪異」を軸にした論考を読み重ねていって、その精緻さと、同時に展開する時代へのまなざしの鋭さ、面白さに何度も感嘆した。

やはり、「わからないこと」ににじり寄っていく挑戦的な研究には読み応えがある。近現代の材料を扱っていると、テキストの中も外も見当がつくことが少なくない。けれど、古典の世界はそうではない。古典の世界を「現代風に」読むことはよくあるし、それも裾野を広げる意味では重要だけれども、現代人とは違う世界観、感性を生きていた人々の姿が、そうした現代化によって消し去られてしまうことも確かだ。

今回の論文集のなかのいくつかは、作品の表現を精読し、同時代の資料と組み合わせながら、怪異をめぐる「時代の感性」をあざやかに切り取っていた。西村先生の「〈鉄輪〉の女と鬼の間」、西田耕三さんの「怪異の対談」、風間誠史さんの「怪異と文学――ラヴクラフト、ポオそして蕪村、秋成」、勝又基さんの「都市文化としての写本怪談」が私は好きである。

近代文学を対象とした論考もいくつか入っている。夏目漱石泉鏡花小林秀雄徳田秋聲、そして拙論の日系アメリカ移民文学である。(拙論については、記事を改める)

もちろん、木越治先生の御論考もある。既出論文の再掲となったが、上田秋成の『雨月物語』を論じた「Long Distant Call――深層の磯良、表層の正太郎」が収められている。また丸井貴史さん編の「木越治教授略年譜・著作目録」も付された。

目次の詳細は、以下にある。どうか、関心のあるところから読んでみていただければ幸いである。
www.kokusho.co.jp

講演「真山青果と徳田秋聲 明治大正文壇交遊録」

以下の講演をします。秋の金沢へ、ぜひ。

 

真山青果徳田秋聲 明治大正文壇交遊録」

日比嘉高

徳田秋聲記念館(金沢市)

11月18日(日) 14時から

※ 同日13時から秋聲忌の墓前祭です。f:id:hibi2007:20181031081251j:imagef:id:hibi2007:20181031081304j:imagef:id:hibi2007:20181031081321j:image

「満洲」における書物流通――満洲書籍配給株式会社以前、以後

第6回 東アジアと同時代日本語文学フォーラム 上海大会、2018年10月20日復旦大学

[概要]

この報告では、「満洲」における日本語書籍の小売・流通史を追跡した。対象としたのは日本語の書物を扱った日本人経営の書籍店と、それら書店へ内地からの書籍を運んだ取次業者である。なお本発表でいう「満洲」とは、日本の傀儡国家であり統治的・文化的実験場でもあった「満洲国」および関東州を主に指すが、「満洲国」成立以前の同地域の状況も考察の対象とした 。
 今回は細かな事実よりも大きな骨組みを示すことを目指し、時代順に論述した。具体的には、日清戦争以後、満洲書籍商組合成立以後の書籍小売・流通史、一九三〇年代における各書籍店のプロフィールと活動、満洲の読書人たちの残した記事の検討、満洲書籍配給株式会社の成立と満洲国の廃滅までである。