日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

畝部俊也さんの思い出に

今日は、亡くなった同僚の畝部俊也さんを偲ぶ会があった。研究科の有志が集まって、食事をしながらいろいろな思い出話をした。畝部さんは48歳で亡くなったのだった。

畝部さんとは、研究室が隣同士だった。音が、よく聞こえた。私の研究室のある建物の部屋は、音が聞こえる方の壁と、聞こえない方の壁がある。建物の構造をなしている分厚い壁と、仕切りのための簡易な壁の違いだろう。畝部さんの部屋と私の部屋との壁は、仕切りのため、音がよく通る方の壁だった。

話の内容までは聞こえないが、談笑しているようすや、電話の応対をしているようすは伝わった。私が同じようにしている声も、きっと畝部さんに聞こえていたことだろう。

いま、その声は聞こえない。物音も聞こえない。死とは、そういうものだ。

死は穴ぼこのように私たちの日常の只中に現れる。これまであったはずのところに、あったはずのものが、ない。あったはずの音がせず、あったはずの人がいない。

ない、いない、というとても単純なこの出来事に、私たちは慣れることができない。この欠落は、人生に何度訪れても、いつも慣れることがない。

インドの言語哲学などが専門だった畝部さんの研究については、私は語ることができない。私にとっての畝部さんは、穏やかな隣室の先輩であり、歳の近い同僚であり、いくつかの委員会を一緒に担った仲間だった。それだけにすぎない、ともいえる。そうした私のような比較的小さな穴ぼこから、生活と人生のほとんどを覆ってしまうかのような大きな穴ぼこに向き合うことになった人まで、さまざまな欠落を残して、畝部さんはいなくなった。

研究室で本を読んでいるふとした時に、隣室の静けさに思い当たる。メールを書くその合間に、物音がしたような気がして、彼はもういないと思い返す。

今日の偲ぶ会で、畝部さんの同僚でやはりインド思想の研究者でもある和田壽弘先生が、スピーチでこんなことを言っていた。浄土へ行くと言うけれど、最近はあまりこういう言い方は一般の心に響かないかもしれない。代わりに、たとえばこう表現してみたらどうだろうか、《彼は永遠の時間の流れの中に溶け込んでいったのだ》、と。千年単位で文化を見ている碩学の言うことは、やはりすごい。

時間はだれのところにも隔たりなく流れてきて、分け隔てをすることがない。過去のあらゆる人のもとでもそれは流れていて、未来のあらゆる人のもとでもやはり流れ続けている。死が、その滔々と流れる圧倒的な時間の大きさの中に《溶け込んでいく》ことであるとするならば、私たちは死者の行方を案ずることなく、そして残された私たちの行く末をも思い煩うことなく、ただそのすべてを飲み込んで流れ続ける大河の中にすべてを委ねていけばいいということになろう。それはなんという安心だろうか。

一方でふと、こうも思う。私たちが、とりわけなにかを創り出そうという私たちがもがくのは、その一切合切を飲み込む流れの中になんとか棹さして、自分がそこにいたということや、自分がその流れに何ものかをつけ加えたということを、言い張りたいがためではないだろうかと。

私は畝部さんが、どんなつもりで研究に取り組んでいたのか話したことはない。千数百年以上前のサンスクリット語を読みながら、それを今この時代に語り直していく作業に、彼はどんな価値や歓びを見い出していたのだろう。千年を超えてつらなる言語と思想の今いちばんこちら側の端に、そしてこれからも千年単位で受け継がれていくだろう文化の相続の中に、自分を置き、そこでなにごとかをなしたいと思っていたのではなかったか。聞いてみたかった気がするし、聞いても「そんな大したことは考えていないですよ」と、はにかんで笑って済まされるだけだった気もする。

流れ続ける時間の中に、死者への思いを放つことは、おだやかな安心をわたしたちにもたらす。ただ一方、わずかであってもその流れの中に小さな小さな杭を、流れていかない杭を立ててみたいと思うのも、やはり人の心に沿った考え方なのかもしれない。

静まりかえった壁の向こうのことを思いながら、私もほんの少しだけ、畝部俊也さんのことをここに書き残して、流れ去っていくものに抗っておきたい。