読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

この夏の出来事──息子を弟の名で呼んだ話

 知多半島にあるその宿には、子どものころ、毎年のように通っていた。海沿いの施設で、そこに一泊して近くの海水浴場で遊ぶのが、私たち兄弟の夏の大きな楽しみだった。海藻のくずやゴミで汚い海だったが、泳いだり、岩場にひそむカニを捕ったり、砂浜で山を作ったり、飽きることはなかった。日焼け止めクリームなどなく、さんざん陽を浴び、兄弟3人は帰宅後一週間かけて、背中の皮膚を赤くし、皮をむき、真っ黒になった。

f:id:hibi2007:20160924010838j:plain:left:w160 今年の夏、ひさしぶりに、両親にその宿へ行こうと誘われた。最近は、いつも両親は彼らの近くに住む私の下の弟の家族と、そこへ行っていた。だが、弟の息子たちも次第に大きくなり、彼らの夏の予定も忙しくなった。そして4歳の息子がいる私のところに声がかかったのだった。

 おそらく最後に行ってから30年以上の時間が経っていたはずだ。訪れたその宿の、正面に立ち、玄関に入っても、私はほとんど当時の姿と重ねて思い出すことができなかった。建物はそのままのはずだが、外壁も内装もきれいに手が入れてあり、昔の面影はない。食堂の入り口のたたずまいが、わずかに遠い記憶をよぎる程度である。

 だがその宿で、私はとても不思議な体験をした。
 私は自分の息子を、私の下の弟の名前で呼び始めた。

「やっくん」
 私に弟は二人いる。一歳違いで二人。私が44歳なら、真ん中の弟が42歳で、下が40歳というように。「やっくん」というのは、下の方の弟の愛称だった。

 最初、呼び間違えたとき、私は気にしなかった。単なる言い間違いだ、と。ところが、私の呼び間違いは続いた。私は繰り返し、自分の4歳の息子を指して、「やっくんが」「やっくんは」と間違え続けた。何度目か、両親に向かって「やっくん」と言ったときに、私はようやく気づいた。私は、私の知らぬ間に、私の過去の中へと戻っていた。

 その場には私の妻もいたし、私の両親もすでに70歳近い。私の息子も、叔父つまり私の弟(=やっくん)に似ているというわけではない。ひさしぶりに訪れた宿も、こんな宿だっただろうか、という程度の記憶しかない。

 それでも、両親と訪れたその宿で時間を過ごすうちに、私の中には、両親と昔遊びに来ていたころの自分が、知らぬ間に戻ってきていたらしい。そしてその古い自分は、なぜか息子という出口を通じて、ひょいと顔を覗かせた。4歳の「やっくん」といたわけだから、その私は8歳か。

f:id:hibi2007:20160924005143j:plain:right:w220 8歳の私が、どのように4歳の弟と遊んだのか、私はほとんど覚えていない。6歳だった真ん中の弟とは、大体同じ遊びをした。同じように泳ぎ、同じようにヤドカリを捕まえた。だが4歳の弟は小さかったと思う。彼は私たちと同じ遊びはできず、より多く母親とともにいたはずだ。

 だが私はそれなりに、4歳の弟の手を引き、物を見せ、一緒に遊ぼうとしていたのだろうか。

 卓球台。輪投げ。パターゴルフ。かくれんぼ。4歳の私の息子は今、自分のできる範囲のやり方で、宿の中を遊び回っている。一人だけ来ていた小学生の従兄と一緒に。その子どもたちと一緒になって遊び、両親がその脇におり、そうした時間を過ごすあいだに、私の脳の中で、眠っていた回路──とうに消え失せていたと思っていた回路──が、突然動き出したのだろうか。そしてその目覚めた回路が、4歳の男の子の呼称をめぐって不意に混線したのか。

「やっくん」という名をきっかけにして、なにかの記憶が付随して蘇ったわけではない。あれやこれやの宿の記憶や、子どもの頃の記憶が一時に戻ってきたわけではない。

 ただたんに、私は呼び間違いだけをし、そして呼び間違え続けた。

 それは奇妙な体験だった。私の中に、別の私が確かに眠っている。その私に私は気づくことはなく、その私を呼び起こすこともできない。その意味では、その私はないも同じ。

 だが不意に、過去の私はその健在を主張するかのように顔を覗かせる──いや、声を出す、というべきか。

 宿は来年度の末に、閉じるという。もともと、団体の研修所という性格で、おそらくは財政的に維持が難しくなったのだろうが、詳しいことは私は知らない。来年の夏、私がそこにまた行くかどうかもわからない。だから、その宿で、私が「やっくん」を呼ぶことは、もうないかもしれない。

 しかし私は特段さみしいとは思わない。私の中には、どうやらはっきりと、昔の私が潜んでいるらしいから。8歳の私が。そしておそらく、15歳の私が、22歳の私が。もしかしたら、4歳の私が。

 何がトリガーになるかはわからない。けれど私は、私の中の過去の私にまた遠からず出くわすだろう。過去の私との遭遇は、私を、カレンダーのように一筋に流れる時間とは異なる、飛び石のように非連続的な時間の世界へと連れ出す。

 夏は毎年やってくるが、訪れる夏は新しい夏だけではないようだ。古い夏もまた、ときには私たちのもとへやってくる。