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日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「過去を語り継ぐ」のは不十分な行為だ――宮崎信恵監督の講演会・上映会の感想

土曜日、宮崎信恵監督の講演会とハンセン病療養所のドキュメンタリー映画『風の舞』の上演会があったので、ちょっと感想を書いておく。

これはNくんをはじめとした院生有志が主体のイベントだったのだが、すべてにおいて万端整っており、大したものだと改めて感心した。自分が院生時代には、ここまでできなかっただろうな。

さて、講演だが、やっぱり現場に入り込んで撮影するドキュメンタリー作家(ここでは映画監督)はすごいな、というのが素朴な感想。つい私などは、「出来上がった作品」を起点にそこから考えて答えを出すという、いわゆるテクスト論的なことをしてしまうのだが、それじゃいかんと反省されられた。

完成映画に出せないこと、というのはいっぱいある。控えたこと、諦めたこと、計画変更したこと、やめろと言われたこと、などなどなど。完成した作品の背後には、そうした浮上しなかった「何か」がひかえているという当然のことを、あらためて思い知った。

もう一つ、宮崎信恵監督の言葉で心に残ったことがある。大意次のようなことだった。

「語り継ぐ」ということは、不十分だ。大事なのは、現在のあり方に応じて過去に向き合うということだ。

私なりに解釈すると、こういうことだ。過去は、そのままでは何もないのと同じだ。現在に私たちが呼び起こしてこそ、過去は始めて私たちの前に過去として現れる。つまり過去と現在は応答的な関係にある。

一方「語り継ぐ」というのは、過去を、なんらかの形のまま引き継いでいくというニュアンスがある。過去にあった出来事を忘れないでそのまま引き継ぐのだ、という決意には私も共感できる。だが、ここには応答がない。

応答がないまま「引き継ごう」とする過去は、次第に現在との結びつきを弱めていってしまうのではないか。それゆえに、私たちは過去を呼び起こす現在の「現在性」により鋭敏でなくてはならない。

現在の私たちのあり方に鋭敏であってこそ、過去はより鋭いあり方で、私たちに問いかけてくるのだ。

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ちなみにいう。この論理は、リベラルな立場からの過去との対峙にも、歴史修正主義的な過去の改変にも、同時に通用可能である。注意すべし。